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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2024年4月礼拝説教


★2024.4.28 「実り豊かな人生」ヨハネ15:1-8
★2024.4.21 「神の愛に融和されて」ヨハネ10:11-18
★2024.4.14 「生命の希望―復活」ルカ24:36-43
★2024.4.7 「新しい命を生きる」ヨハネ20:19-31
「実り豊かな人生」ヨハネ15:1-8
2024.4.28 大宮 陸孝 牧師
 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネによる福音書15章5節)
 本日の福音書日課は、先程ご一緒にお読みしましたヨハネによる福音書15章1節から8節です。ここは13章から弟子たちに対して行われた一連の訣別説教のところです。その中で、有名なぶどうの木の譬えを話されました。これは、主イエスがこの世を去るにあたって弟子たちと共に行われた最後の晩餐に関係しています。ヨハネ福音書では最後の晩餐そのものの叙述はなく、多分その前に行われたと思われる洗足の物語を記しています。しかし、ヨハネ福音書は、主イエスが食事の席でぶどう酒の杯を取り上げて「これはあなたがたのために流されるわたしの血である」と語られ、御自分を人のために犠牲として示された、あの聖餐を念頭において、この譬えを記しているのです。

 この15章1節以下は、寓喩(アレゴリー)で、解釈は至極単純明快です。つまり、ぶどうの木を植える者が神であり、ぶどうの木それ自体は主イエス・キリストであり、そのぶどうの木に実をたわわに実らせる枝あるいはつる蔓、それがわたしたちイエスの弟子あるいは今日教会を形成する人々、信仰者であると描写されています。これは誰が解釈しても誰が読んでもその通りで、非常に分かりやすい寓兪でこのたとえは記録されております。
 四節に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と記されております。

 ここに記されていますように、主イエス・キリストの弟子たちすなわち信仰者たちは、主イエス・キリストを離れてはこの世の生に於いて実を結ぶことはできない、と単純に告げられています。つながっていなければどうして実を結ぶことができないのか、という問いが人々からとりわけ信仰者ではない人々から出て来るかと思います。わたしたちは主イエス・キリストとつながっているときだけ神の教会を形成できるのであって、それ以外には教会を形成することができないということを言いたいのです。この教会とは何かと言うことについてこれから申しますが、イエス・キリストとつながっているときだけ神の教会を形成することができるのであって、イエス・キリストとつながっていないときは、神の教会とは全く別の共同体を形成してしまうことになるのだと聖書は告げているのです。

 わたしたち人間はわたしたちのうちに聖書で言う真理を持っていません。主イエス・キリストにおいて示されている神だけが真理そのものであるということです。わたしたちが真理の所有者ではないということです。それを別の表現で言いますと、「わたしたち人間は、命そのものを有していない。わたしたちの命は神に起源しているのだ」ということです。生物学的な意味の命は持っているかも知れませんが、人間としての命は神に起源するものであるということです。

 現代は命を人間が支配できる時代に突入したというような思想に生きている人々が、この二十一世紀に入ってますます増えてきました。命も人間が支配できる時代に突入したかのように主張する人々が多いのです。しかも誇らしげにそれを宣伝しています。クローン人間やクローン動物の誕生を誇る人々は、命をも、科学が自由にできるそういう時代に突入したというのです。それが最も先端的な科学技術を研究している人々にも浸透してきているように思います。現代の科学者には自らは神の創造の秩序の一端を考究・探求しているに過ぎないという謙虚さを今こそ求められているのではないかとわたしは思います。わたしたちの命は神に起源するとの謙虚さをわたしたちが忘れるときに、人類は破滅に、破局に向かいます。紀元前に書かれた旧約聖書の創世記が、実にそのことを予告しています。神の業を人間が遂行できるという思いが、民族・国家の破壊、破滅をもたらすことについて聖書は言及しています。それだけではなくて、アダムとエバの「エデンの園」追放以後の創世記の記録を見てみますと、「人間とは何か」という問題や人間の形成する社会とは何か、あるいは人間それ自体の罪の深さということが連綿と語り続けられるのです。

 つまり、神に離反し、自らが絶対者になろうとする人間の思いが近親者をさえ殺し、あるいは同胞をも含む大量の虐殺、つまりホロコースト、大惨事を招く歴史をもたらすのです。心ある人たちは、十九世紀、二十世紀の人類史、世界史に生起したホロコーストの幾つかを想起すれば、それだけで十分であるかと思います。つまり、主イエス・キリストにおける、かつてあり、今もあり、未来もある永遠の存在に至る道を見出さない者は、わたしたちの同胞の間で、信頼と愛を基盤とする人間関係あるいは共同体を構築することはできないということです。それによって今も各国の民族の争いに象徴されておりますように、相互不信と相互監視の社会や人間関係が、支配的となったという歴史的事実を、わたしたちは思い知らされているところです。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」という言葉が14章6節に出て参ります。そのように語っておられるイエス・キリストのことばをわたしたちは想起する必要があります。主イエス・キリストが示される神に至る道を歩むことがわたしたちには求められているのです。

 わたしたちは日常の生活において、右を振り向き左を眺め、ある時は他人の思惑を、周囲の様子を窺って、決断をためらう必要はありません。そしてまた、わたしたちはこの世での何らかの功績や良き行いを神の前に数え上げる必要もありません。しかも、わたしたちは神の側に立つのではなくて、神のわたしたちに対する愛と真実が、わたしたちを神とわたしたちの関係の内側、あるいは主イエス・キリストとわたしたちの関係の内側に、主イエス・キリストが立たせてくださるという~の恵みを受けているということです。

 5節には、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と記されております。主イエス・キリストはわたしたちに対して「わたしの側にいればよい」といっているのではなくて、わたしの生の全体を主イエス・キリストの内側に包み込んでくださる、と今日の聖書のみ言葉は宣べているのです。繰り返しますが、「側にいる」のではなくて、「内側に取り込んでくださる」ということなのです。

 そのことを、使徒パウロはコリントへの第Tの手紙12章27節で、「キリストが頭であり」「あなたがた教会員の人たちは構成員である。手足である。肢体である。」と申しました。すなわちイエス・キリストをかしらとして、わたしたちが手足になって、一つの集合的な人格を形成しているのだと表現しました。これは「集合人格」「共同的人格」と訳してもよい用語です。いま申しましたように、教会はキリストをかしらとして、信仰者はその肢体、つまりメンバー・構成員であって、一つの集合的人格を形成している、それが教会であると言っているのです。(新約316頁)

 マタイ福音書の25章35節から40節で主イエスは一つの譬え話をしております。「『お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか、いつ、病気をなさったり、牢におられるのをみて、お訪ねしたでしょうか』。そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、すなわちわたしにしてくれたことなのである』」。わたしと関わるこの最も小さき者の一人にしたのは、すなわちわたしにしたのであるというこの考え方も、今申し上げました「集合人格」という理解があってはじめて十全な理解ができるのです。そうでなければ何のことを言っているのかさっぱりわからないのです。

 今パウロとマタイを引用しましたけれども、ヨハネ福音書記者は15章の「わたしはまことのぶどうの木」の譬えの中で、実はこの「集合的人格」について述べているのです。パウロが、教会というものはキリストをかしらとする「集合人格」であるというキリスト論を展開したように、ヨハネは「わたしはまことのぶどうの木」という、この15章のたとえを展開することによって、わたしたち人間とイエス・キリストにおいて現されている神との連続関係について述べているのです。ですから、愛の問題、イエス・キリストにおいて示されている神の愛の問題、つまり愛の戒めに繋がっていくことは、この「集合的人格」の考え方に気づかなければ理解できないのです。

 ヨハネ福音書14章21節の「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」というこのような関係が生起するということです。これは集合人格からしか理解できないことばです。キリスト教信仰はこのことを信じるだけで十分なのです。何かむずかしいことを聖書は述べているのではないのです。主イエス・キリストをしっかりと見つめ、そのご生涯を見上げて歩むことによって、わたしたちはイエス・キリストの、また、神の内側に招き入れられているのです。その招きにあずかっているのです。わたしたち一人一人はイエス・キリストに繋がって教会を、すなわち愛の共同体を構成している者です。心を尽くして主を愛し、共同体の群れ相互に自分のように愛する者となるように成長して行く者でありたいと思います。そのことを本日の日課はわたしたちに告げているのです。

 お祈りいたします。

 天の父なる神さま。わたしたちひとりひとりは、この世にあっては それぞれ他の人の生活とは異なっていますが、しかしわたしたちがどのような人生を歩んでおりましても、イエス・キリストがわたしの罪のために死んでくださり、また新しい復活の命に生きて、わたしと共にいてくださいますからその恵みを心から感謝申し上げます。

 どうか復活の主よ、わたしたちがこの新しい一週間も復活の主を仰ぎつつ、望みと喜びをもって歩んで行くことができるよう、わたしたちの歩みに先たち、導いてください。

 復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

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「神の愛に融和されて」ヨハネ10:11-18
2024.4.21 大宮 陸孝 牧師
 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 (ヨハネによる福音書10章14節)
 本日の日課の直前の10節で、主イエスは「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と語られました。当時の厳しい宗教的現実をそのまま認識し、ユダヤ教の律法学者、パリサイ派の指導者たちが、自分たちこそ人間の救済者であると自称した人たち全体を、「わたしよりも前に来た者」(7節)と見て、彼らは盗人であって、神の群れを滅ぼす者である、と痛烈に非難しています。彼らの美化された偽りの盛装の本質を暴露し、毅然(きぜん)として虚偽に対峙する姿が表出され、それに対置されて、イエスの到来の目的は、羊が命を豊かに受けるためと語られます。「滅ぼす」という言葉に対応して「豊かな命を受ける」ということが強調されています。この10節の言葉を受けるようにして11節以下のたとえに続いて行くのです。

 11節〜15節「わたしは良い羊飼いである」「エゴー・エイミー」は「わたしこそが・・・である」という表現で、「人間が真に求めている・・・のための存在、そういう絶対的、決定的存在なのだ」と、冒頭から神の絶対的啓示の言葉が語られています。「良い」は単なる比較や形容の言葉ではなく、霊的な本来的な存在を表し、創世記の「在って在る者」を想起させる、「真の」あるいは「かけがえのないもの」と言い換えることもできる、「唯一の本来性」を表している言葉であります。そして、ここでは「良い」はただ単に絶対的な者としてここにある「羊飼い」とはこういう者だと言っているのではありません。その羊を生かすために命を捨てる決断をする者だという意味が含まれ、その存在と行動が羊を生かすための絶対性であると言っているのです。羊のために命を捨てることが良いこと「神の意志」として規定されています。これは、ほかの羊飼いたちが、牧草を与え、また水飲み場まで連れて行って水を与える、そういう、羊を自然の中で命を養うということだけではなくそれ以上の、羊のために命を捧げるという自己献身を行うということを言っているのです。これは決定的です。

 イエスこそはその羊たちに溢れるばかりの生命を与えたもう、との宣言は、わたしたちが永遠の命に至るためには、イエスという存在が決定的に重要であることの宣言であると同時に、その対比によって、偽りの牧者の欺瞞もますます深刻に暴露されていくことになります。彼らは盗人であり、「盗み、殺し、滅ぼす」ことしかしない。その彼らが、まことの牧者なるイエスを糾弾しようとかかっているところに、根源的な倒錯がありました。また、彼らはこの世の実権を握っていましたので、神の真理に逆らって、その陰謀を実行して行く力をも持っていました。まことなる牧者イエスを圧倒し、自分たちの正しさを実証できるかのように考えたのですが、しかし、結果は逆でした。まさかの十字架の死を通して、イエスこそ真の牧者でありたもうことが、最終的には明らかとなって行くのです。

 たとえ外側からは、イエスの生涯が完全な敗北に終わったように見えても、イエスが真の牧者であるという事実は、イエスが自分の羊を守り、その生命を救うためにこそ、ご自分の命をお捨てになって、ご自分に託された羊の群れを最後まで守り生かすという与えられた使命を負い抜こうとされた真実の愛の業を通して明らかとなったのです。

 このヨハネ福音書が記された紀元百年頃は、ネロやドミチアヌス皇帝治下の大迫害がキリスト者に臨んだ後のことで、また六六年〜七〇年まで続いたユダヤ戦争は、初期の教会に壊滅的な打撃を与えたのでした。これらの全てがまだ生々しく人々の記憶の残っている中で、あのような危険の時にこそ、本当に己が羊のために命を捨てる牧者であるかどうか、真偽のほどが解るのだという教えを、その状況にある人々に与えたと推定されますが、しかし、そのような事情から、もう一度イエスご自身の戦いに立ち帰って、15節までの所を読み返す時に、別の意味で、この御言葉に衝撃を受けるのです。イエスは、今あくまで自分を葬り去ろうとしている敵の前に立っていたもうのです。そのイエスの心の中には、相手の陰険な企みに憤慨し、激しい復讐を企てようとするような思いは少しもありませんでした。怒りに満ちた言葉を投げ返そうともされず、むしろ、ご自分と羊の群れとの間に結ばれている愛と信頼の絆を語り出されるのです。そしてこの羊たちを命をかけて、愛し命を守ろうとする思いの吐露が、実は相手の攻撃に答え、その糾弾をきっぱりと跳ね返す砦にもなっているのです。ここに主イエスの限りなき愛の深さが表れているのです。

 主イエスは疑惑と憎悪に満ちた攻撃を、うるわしい愛の歌をもって押し返したもうのです。本日の日課の前後の繋がりで読むときにそのことが見えて来ます。ここには愛の牧歌的な美しさが溢れていますが、実は激しい戦闘の気魄(きはく)に満ちた宣言であるということが、よくよく考えると見えて来ます。そして、これは、主イエスと弟子たちとの間にみなぎっている愛の生命が溢れ出たと言うことなのですが、それを根源的に遡って辿って行けば、実は父なる神とイエスとの間に交わされている愛の交流から流れ出たものでもあったということが語られているのが次の15節以下であります。

 15節の「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」とは相手の全存在を内側から知ると言うことですから、「愛する」と言う内容を含んでいる言葉です。「知る」とは、生命と生命が堅く一つに結ばれていることに他なりません。父と子との間に交わされているこの愛と同じ性質の愛が、イエスと弟子たちとの間にも交わされている。ですから、抑えきれない喜びと平和がそこに湧き出るのであり、そして、この満ち溢れる生命の歌をもって敵意と憎悪に応えられたということが、イエスの完全な勝利の徴とされているということです。

 この羊と羊飼いの例えは、具体的にはパリサイ派の人たちの自信と傲慢に対する主イエスの痛烈な批判でありました。当時のユダヤ教の指導者たちが、度々主イエスからこのような盗人とか強盗と悪罵されているところを見ますと、(たとえば、マタイ21:13、マルコ11:17、ルカ19:46など)このユダヤ教教団の背後にこうした非難に値するような事実が潜んでいたと考えられます。壮大な神殿や莫大な数にのぼる祭司、また経費のかさむ祭儀などが行われていたことなどを見る限り、この教団がいかに財源の補給に苦心したかを察することができます。その全ての負担が民衆に転嫁されただろうと推測されます。その際に、全ては神のためであり、神に捧げるためのものだという説明がなされたでありましょう。こうして過酷な搾取がなされて行ったと察することができるのです。主イエスはユダヤ教とのこのような対決をして行くに当たって、難しい神学論議をすることではなく、誰にでも判断の付くこの経済問題を指摘しながら、相手の欺瞞を暴露していかれたのでした。

 主イエスのユダヤ教とのこうした対決の原型は、実は旧約聖書の至る所に見出されます。その中で、特に大がかりにこの問題を展開しているのは、エゼキエル書34章であります。イスラエルの民の指導者が真に牧者としての責任を果たさず、私腹を肥やすことに熱中して民を食いものにしていることが、厳しく糾弾されているのですが、他にも、同じ思想がエレミヤ書23章1節〜4節、ゼカリヤ書11章4節〜9節、15節〜17節などにも見られます。この旧約聖書にある思想を大観しますと、一貫して、偽りの牧者に対する糾弾と戦いが、真の預言者の活動の中核をなすものであったということがわかります。

 このことは、わたしたち現代人に対しても大きな警告を含んでいるのではないでしょうか。日本では数多くの宗教が軒を並べていますが、堂々たる建築物や巨大な組織を擁する団体がいかに多いことか。そして、所有財産や組織が大きくなればなるほど、その維持経営に要する経費も莫大なものになります。これがいかに信徒の肩に転嫁されていくか。また必要な財源を確保するために、信徒の数を増やす必要に迫られ、その結果、勢力拡張のための手段としての伝道が、手段を選ばずなされていくか。今日においても、至るところに見られる事態であります。経費の支弁に窮したために、不純な妥協や赦すべきではない虚偽の経済活動を行って、ひたすら自己保全に腐心している団体が社会問題になり、解散命令が出されようとしているという深刻な実情があります。ルターの宗教改革から五〇〇年が経過してなお、現代にこのような深刻な問題が発生していることに憂慮するのです。

 偽りの牧者は自分の利害に関する関心に腐心し、自分を中心にした一致と統一を求めてやまないので、その目的も方法も偽りであり、暴力的であり、その結果は分裂・抗争が深まって深刻な破滅に至っていくことになる。これが、このわたしたちの世界が不信と憎悪の渦巻く争いの場となって行く原因であり、わたしたちの現実世界がこうした事態へと展開して行くのは必然的な結果なのだと、未来の予言にもなっているように思います。

 主イエスはこのように極めて実際的な教団の真相を見極めることにより、おのが羊のために本当に自分の生命を捨てる覚悟を持つ者。これが真の牧者であると主張しているのですが、その際に真偽の判別が最も深い意味で誤りなく下すことができる。そのような存在、真実の牧者は、わたしたちのために命を捨てたイエスひとりのほかにはいないと、ヨハネ福音書は力を込めて告白しているのです。そしてここにこそ、わたしたちの世界の人々の真の一致、真の統一が実現する、という結論にいたっているのです。

 羊のために生命を捨ててこれを愛される真の牧者のいましたもうところでは、その愛がおのずから巧まずして生命の調和を生み出していくと、主イエスは16節以下で語ります。ここには、自分の勢力を結集し、強い政治力を発揮しようなどという意図は全く見られません。イエスの御心には、人生の荒れ野を彷徨っている無牧の羊を憐れみ、これを真の命に導かなければならないという愛の使命感のみが燃えているのです。この愛の対象はひとりユダヤ人だけに留まらず、主イエスの愛は民族や国の枠を超えて、全世界の民に及んで行く性質のものでありました。このようにして、ただ一人の牧者なるイエスの許に、全世界の信徒が一つの群れとなって従って行くこととなる。この大いなる愛と信頼の一致こそは、真の牧者の存在を証しするしるしなのだと語られます。

 主イエスは、人の支配欲の許で犠牲となっている人々の痛ましい現実に密着して、その人々の救いのために心を砕いておられます。わたしたちはその主イエスの愛をここに汲み取っていかなければなりません。目を挙げてわたしたちの周囲を見わたせば、そこには、悪辣な者の言葉に乗せられ、誘惑や詐欺の犠牲になり、一生を台無しにしてしまう例が後を絶ちません。また軽率な一時の激情に溺れて失敗して涙に暮れる者、また偽りの思想に酔わされて一生を誤る無数の人々がいます。このような人間の罪の現実の中で彷徨い、滅びに凋落する危険に晒されている人々のためにこそ、主イエスの愛は燃えているのです。まさにこれら無牧の羊を、安全な牧場に導き、永遠の生命に至る道を歩ませるべく起き上がらなければならない。これはまことに具体的で緊急な課題でありました。。それゆえにこそ、主イエスは十字架への道を急いでいたのだということだったと思います。この戦いには父なる神の愛という強力な支えがありました。神の子イエスはこの神の愛を呼吸することによって一切の戦いに臨んで行くのであります。

 主イエスの言葉の現代的意味はここにあるのではないかと思います。今、世界は一つになろうと願いながら、なおその行く手遠く苦悩している中で、世界の行くべき方向はここに示されているということです。この羊飼いは、自分の我欲を他者に押しつけ、力で群れを統一したりはしません。反対に自分の命を、自ら進んで、喜んで差し出し、羊を徹底的に受容するのです。そして、受容された羊は群れの中で、神の愛に生かされ、自由に役割や使命の実現にいそしむ。これが、主イエスの許に生まれる連帯であり、また一つになる意味です。このイエスの語られた言葉と、実行なさった十字架の救いの業が、わたしたち一人一人の存在を支える生命の根拠となって、事実、このイエスの許に新しい共同体である教会が成立し、それがさらに世界を一つにする源泉となっている。このことをわたしたちは改めて、わたしたちに起こった奇跡の出来事として捉えていかなければならないと思います。

 お祈りいたします。

 わたしたちの父なる神様。救い主イエス・キリストが今もわたしたち一人一人を、失ってはならない大切な存在として守っていてくださることを感謝いたします。

 あなたの御子は、わたしたちの生涯が、内外からの危険が迫って来る死の陰の谷を行くような苦境の中にあっても、決してお見捨てにならず、羊のために命を捨てる情熱を注ぎ、わたしたちを十字架に付けられても罪を赦し、罪人のために祈られた愛をもって、たとい老いの山坂を上る時にも、地上の旅を終えるときに至るまで、わたしたち一人一人と共に歩んでくださり、肩に背負い、そして神の御許に迎え入れると約束してくださっています。

 わたしたちがこの主が約束してくださっている祝福の道を、良い羊飼いである主イエスの後に、生涯をかけて信頼し、従って歩んで行くことができますように導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

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「生命の希望―復活」ルカ24:36-43
2024.4.14 大宮 陸孝 牧師
「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。(ルカによる福音書24:39-40)
 先週の復活節第2主日は、伝統的には礼拝の始めに、ペトロの第一の手紙2章2節が礼拝開会の賛美歌として歌われ、そしてその「生まれたばかりの乳飲み子のように」というペトロの手紙の聖句がそのまま主日の名前として名付けられています。洗礼を受けてキリスト者となったという復活日の神の子の誕生の出来事を、新たに洗礼を受けた者だけではなく、教会全体、信仰者全員が、信仰の生活の原点である洗礼のできごととその恵みに立ち帰って、「今生まれたばかりの乳飲み子のように」歩み始めることが、この主日、礼拝の始めの部分で高らかに歌われました。そして本日のルカ福音書24章もまたそのような、信仰者の、神の子としての新しい歩みにかかわることとして受け止められ、聞かれて来たのです。洗礼が新しい命の誕生という~のできごととして、わたしたち信仰者の原点であれば、本日ルカ福音書24章がわたしたちの礼拝においてそのように聞き取られていくというのは意味深いことであると思います。

 その復活節第2主日の先週、わたしたちは、エルサレムの都でイエスが甦られたという復活信仰の最初の信徒が誕生したことをヨハネ福音書20章19節以下で学びました。ヨハネ福音書によりますと、イエスが甦られたという信仰が、ひとつには、復活の主ご自身が自らを現してくださる顕現を直に体験することによって生まれたということを証言していることを確認致しました。そのことを踏まえて本日のルカ福音書の日課を読んで参ります。

 本日のルカ福音書の日課では、さらに、イエス復活の信仰というものには、もっときめ細かないろいろなことを詰めて行かないとだめだと主張しているかのように、この後まだイエスさまの復活顕現を記して参ります。ルカ24章に書いてありますことは全部、「週の初めの日」の明け方から始まって夜にかけて一日のできごとのようにずっと続けて書いてありますが、しかし、ルカは第二巻の使徒言行録の1章3節に、主は「四〇日にわたって」度々弟子たちに現れてお教えになったのだと言うことを記しておりますから、たった一日で全部が進んだのではなくて、その四〇日のあちらであったこと、こちらであったことを、イエスの復活を信じさせるための論理的な順序できちんと積み上げて行こうとしているのだということになります。

 本日の36節から43節に記されております物語は、ヨハネ福音書の20章にあります有名なトマスの物語とほぼ同じものではないかと思われますが、ヨハネ福音書では、一週間の時間の流れの中で起こったこととして書かれているところを、ルカによる福音書では一つにまとめられて記されているということであります。

 36節「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言われた」とあります。「こういうことを話していると、彼らの真ん中に」と言いますのは、すぐ前の34、35節で、エルサレムで集まっていました「十一人とその仲間」の者たち、そこへエマオから急いで帰ってきた「クレオパたち」二人が合同して、そして「本当に主は復活して、シモンに現れた」とか「我々も実はエマオの村で道連れがイエスだと分かったのだ」ということを話し合っている。そこへ、「イエス御自身が」とこのように展開して行くわけでありますが、「彼ご自身が立った」という言い方です。この「彼」というのは34節の「本当に主は復活して、シモンに現れた」という「主は」というのを受けて、「その主がシモンに現れたばかりではなく、今ここに集まっている十数人の男たちの「真ん中に」お立ちになったのだというのです。

 今までイエスの復活を信じた人と言えば、ルカ福音書の24章では、クレオパともう一人、それからシモン・ペトロ。これだけでした。そして、こういう個人的に主を見た≠ニいう体験者が一人、二人、あるいは三人とできたのですけれども、今度は十数人の男たちのいるところで一挙に共通して主に会う≠ニいう体験をさせられる出来事が起こったのです。これは、「イエスは復活して生きておられる」ということを信じる信仰者の群れを復活の主御自身が創られたのだと言うことを明らかにしたのだということになりましょう。メシアの平和をこの十数人の男たちに積極的に主御自身がお授けになり、主の復活の証人として主が積極的に育て上げ支えていかれるということを、ルカはわたしたちに伝えようとしているのだということです。

 ですから、37、38節「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか』」。イエスの復活を正しい意味で信じるということは人間的にそうたやすくできることではないということが、この十数人の男たちの反応からよく分かります。クレオパから聞かされた、シモン・ペトロからも聞かされた、そして今、いざ目の前に復活の主がお立ちになると「亡霊ではないか」と反応した、というのです。この亡霊という日本語に訳されている言葉は、ギリシャ語ではただ「霊」(プネウマ)という言葉が使ってあるだけです。死んだ人の霊が地上の人間の世界に現れてくるめずらしい例としては、ルカ9章の「山の上のイエス変貌」のところで、モーセとエリヤとが現れて、ペトロたちは寝ぼけ眼で、でもそれを見たと書いてあります。

 39、40節「『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある』。こう言って、イエスは手と足をお見せになった」。とあります。今、目の前に顕現している復活のイエスは霊が顕現しているのではなくて、十字架の上で死んだあのイエスが復活して現れているのだということを確認するために、イエスは「手や足」、「肉や骨」、これがあるということを示されます。「主を見た」体験話が霊を見た、亡霊の現れに接したというのとは違うということなのです。

 ところが41節「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」(〜43節)復活の主が何度か現れられても、それでもなお弟子たちの中には信じない者がいる。なお疑う人がいるという、人の頑固さは、全ての福音書が証言している事実なのです。このような頑固な懐疑的な人たちに決定的な復活の事実を示しているのが、この弟子たちの目の前で食事をするイエスの姿なのです。

 ルカ福音書の続編としてルカが書きました使徒言行録の10章40、41節に(234頁)ペトロがイタリア人のコルネリウスに説明をしまして、「~はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって~に選ばれた証人、つまり、イエスが使者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです」。このように繰り返して、復活の主は「食事をしながら」お教えになり、そして一緒に「食事をする」ことによってわたしたちを証人として選ばれた、そのように言っているのです。

 ですからいま、復活の主イエスが霊ではないか≠ニか亡霊ではないか≠ニか疑われている前で意図的に食事をなさるということは、わたしは天使ではない、霊ではない=uまさしくわたしである」と言うことを証明する決定的な証明であるということなのです。

 ルカは復活と言うことに関して、わたしたちに大変大切なことを教えようとしていることが分かります。まず、復活というのはあくまでも体に関わることであって、霊の問題ではないということ、いわゆる霊魂不滅とか生命の永遠性とか、そういう問題ではない。死んだ死者の体が生きているということ、これが復活という信仰なのです。

 ルカ福音書が書かれるよりもずっと前に一コリントの信徒への手紙15章で、復活について詳しく教えています。その50節に(322頁)「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は~の国を受け継ぐことができません」。ここではこの「肉と血」の体が蒔かれて「朽ちないもの」に復活する、「自然の命の体」が蒔かれて「霊の体」に復活する、こうパウロは主張しているのです。ちょっと見ますと、今日のルカが伝えておりますような「手も足もある、骨も肉もある」という体、これはそれこそパウロの言う「肉と血」であって、おかしいではないかという問題をお感じになるかも知れません。でも実はそうではないのです。ルカの復活物語でも、復活のイエスは既にエマオの村で「目が開け、イエスだと分かる」と忽然と消える(31節)、そしていまエルサレムで十何人かの人たちが集まって話し合っている「真ん中」にまた忽然と現れる、こういう霊の体に変わっているということは前提となっているのです。ルカも、イエスさまの復活の御体はパウロが言っている「霊の体」になっている。

 それはそうなのだけれど、いわゆる亡霊とか霊とか天使のような別の存在ではなくて、この方は確かにあの十字架におかかりになったイエスさまなのだ、というナザレのイエスのアイデンティティーが復活のお体にも続いていますよということを言いたいために「手も足もある、肉も骨もある」、「あるいは「釘跡もあります、魚も食べられます、みんなが覚えているようにパンも裂きます」。そういうイエス・キリストの同一性、あるいは連続性を確実に示そうとしているのだということなのです。

 その意味では本日の日課の真ん中の39節「まさしくわたしだ、エゴー・エイミ・アウトス まさにわたしだ」というこのことこそが、イエスさまがこの一連の出来事ではっきり論証したい点だったのです。「まさしく十字架のイエスだ」「十字架のイエスが生きて今、目の前におられるのだ」ということであります。

 復活の信仰というのは「まさしくわたしだ」というこの「わたし」イエスのアイデンティティーに、わたしたちも復活することによって連なって、「わたし」という存在が百パーセント完全に実現するということであります。人のことではないのです。「わたし」なのです。「まさしくわたしだ」。そうイエスさまがおっしゃるように、わたしたちも一人一人がこの地上にある間は不確かな存在であった者が、復活の時には完全な意味で「わたし」として~の前に立つ。これが復活という現実なのです。

 お祈りします。

 神さま。わたしたちは短い地上の旅を終えて、またそれぞれ不完全な、物足らない想いで地上の旅を終わる者でありますが、しかし必ず復活して、霊も体も全き人間として神さまの前に立つことができる、その約束を与えられておりますことを心から感謝いたします。

 どうか、主が本当に復活してシモンに現れたように、わたしたちもまた本当に復活してその主の御前に立つことができますことを信じて、これからの人生を確かな信仰の歩みをもって歩んでいくことができるようにしてください。

 イエス・キリストのお名前によってお願いいたします。   アーメン。

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「新しい命を生きる」ヨハネ20:19-31
2024.4.7 大宮 陸孝 牧師
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネによる福音書20:19)
 主イエスが十字架にかけられた後、完全な挫折と恐怖の中に置き去りにされていた弟子たちが、自分たちでこの挫折感と恐怖心を乗り越えることができないで、部屋に鍵を掛けて閉じこもっていました。弟子たちがこの畏れを克服し、真の安らぎと平安を得るには、主イエスが彼らに復活されて、彼らの前に姿を顕し、「平安あれ」と言葉をかける以外にはありませんでした。主イエスが弟子たちの人間的な行き詰まりの中に入って来られて、彼らが最も必要としている言葉によって、彼らを励まし、助けたのであります。このイエスの言葉は、16章33節の「あなたがたは世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と決別説教で語られたイエスの言葉を想起させます。

 ここでの復活の主の顕現は弟子たちの心に喜びと平安をもたらしただけではなく、同時に、新しい使命をも与えるものでした。『息(プネウマ)』を吹きかけるという行動は『霊(プネウマ)』の授与を指し示す象徴的な表現です。こうして弟子たちは、今や罪の赦しの全権を委託されて、勇躍新しい神の救いの御業を世界に伝える伝道の戦線へと押し出されて行くのです。

 マタイでは、主イエスは弟子たちに向かって「あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るようにおしえなさい」と記されております。(マタイ28:20)また、ルカ福音書24章47節〜48節には「『罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々にに宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる」と語られています。その同じメッセージが、ヨハネ福音書では『罪の赦し』という一点において、集約的に表現されているのです。このようにして弟子たちは、神との新しい命の繋がりを取り戻し、神からの権威を委託された者として、勇躍新しい信仰の前進を開始して行くこととなったのです。

 このイエスの復活顕現の出来事には、一つの際だった特徴があります。それは、イエスが弟子たちの集団に姿を顕されたということ、しかもイエスは、その弟子たちに、「息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい」(22節)と言われていることです。これは明らかに創世記にある人間創造の物語を暗示していると見ることができます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)つまり、ここでも人が真に生命ある存在となるためには、命の息を神から受けることが必要であった、ということであったのです。それと同じく、今やイエスの生命の息を吹き込まれることによって、ここに一つの新しい創造が行われた。と言うことを語っているのです。そして、ここでは、単なる独りの個人が霊による新生の恵みに浴しただけではなく、弟子たちの一人一人から成る一つの群れ、弟子集団が、一つの生命共同体としてのエクレシア(教会)が誕生したという点が重大であります。しかもこの共同体は、今やイエスの御業を地上において継承する、新しい使命の担い手として召し出されているのです。

 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は許される。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、赦されないまま残る」というイエスの言葉は、単なる霊的権威の付与を意味するだけではなく、むしろ使命の継承を表現している言葉として理解されるべきであります。つまり、復活されたイエスから生命の息を吹き込まれることによって新しい教会が成立し、今や天に帰り給うたイエスの権威を、地上にあって継承する者になったということが、ここで言い表されている意味であろうと理解されます。聖霊によってキリストに連なる人格的な共同体とされた教会は、この世の人々と神との間にあって、人格的な媒介者としての役割を果たす、ということであります。

 この世の人々が救いに入るか、それとも自ら救いを拒絶するかということは、極めて具体的に弟子たちの証言の言葉を信じ受けるか否かによって決定されるということであり、その弟子たちが語るべき証言とは、「神から賜る『永遠の生命』の恵みとは罪が赦されて神との新しい命の繋がりに生きることにほかならない」とのメッセージのことなのです。ですから、『罪の赦し』の権威の一点に集約されているのです。

 この復活の主イエスの顕現の場に、一二弟子の一人であるトマスだけは、居合わせていませんでした。そしてトマスは容易にはイエスの復活を信じることができなかった人物でありました。ここで、主イエスの復活について、もう一つの真理が展開して行くことになります。25節には復活に関する極めて近代的な懐疑が、表明されています。それは、そもそも死人が蘇るなどということが、事実としてあるはずがないではないか、という合理主義者の声です。トマスはこの懐疑と不信を代弁して、イエスの生きておられる姿を自分で確認できない限り、人づての言葉だけでは、イエスの復活を信じることはできない、と断言したのです。

 26節〜27節では、復活された主イエスの身体が、霊の身体であることから、戸がみな閉まっていたとしても、部屋の中に入ることができたのだということを示そうとしているのですが、しかし、同時に、生前の十字架に釘付けにされ、槍で脇腹を突かれた跡も、身体に明確に残っていた。それをトマスに示すことによって、イエスはトマスに信じることをお求めになります。これに対して、トマスは驚くべき応答をして行くこととなります。

 28節「トマスは答えて『わたしの主、わたしの神よ』と言った。」トマスは主イエスの復活に接して、ただ復活されたという事実を認めたと言うことに留まっているのではなく、もっと深く、イエスを神の子と信じる信仰へと飛躍して、イエスの神性に対する信仰を告白しています。これは、ヨハネ福音書の冒頭にありました、「言葉は神であった」という宣言に相通じるものであります。このヨハネ福音書の序言として掲げられました『言葉の神性』の宣言に対して、トマスが「イエスの神性」を告白することによって、このヨハネ福音書の始めと終わりとが見事に結合し、その全内容の核心を明確に表現したということです。

 イエスの直弟子であるトマスは、直接イエスの復活の身体の顕現に接することによって、イエスに対する信仰を告白することができました。しかし、トマス以後の教会の人々は、すべてイエスの弟子たちの証言を通して、つまり、直接にイエスの復活のお姿に接することなく、ただ宣教の言葉だけを通して信仰に入ることになります。主イエスはそういう人たちこそ、トマス以上に幸いなのだと宣言されているのです。そのことによって、ここから始まる教会の歴史上の信徒一人一人の上にも、限りなき祝福を約束されたということなのです。

 そういうことで、信仰とは、一般的に神が存在することを信じるとか、イエスが復活されたということを事実として承認するとかいうように、ある一つの客観的事実を承認するということではなく、むしろ、今も生きて働いていたもうイエスに向かって、「わが主よ、わが神よ」と呼びかける関係にわたしが入ること、つまり、一つの人格的関係に入ることにほかなりません。そしてこのことは、宣教の言葉によってだけ信仰に導かれる人々の場合には、もっと鮮明になります。神の言葉の媒介によってのみ、最も純粋な人格的信頼関係が確立するからです。預言者はそのような純粋な神の言葉を受けて神の人とされた人々でありました。

 最後にヨハネ福音書記者は、これを書き記した目的が何であったかを一言書き添えて、この福音書の結びの言葉としています。ここでイエスの行われた徴(しるし)が言われていますが、その徴(しるし)とは、必ずしも、合理的に説明できない奇跡の類いの不思議な業という意味ではなく、神がその全能の力をもって、わたしたちの世界に介入して来られた。それがイエスというお方である。つまり、イエスという存在そのものがこの徴(しるし)なのだと言おうとしているのです。イエスが語られた言葉、イエスの行われた全てが神の言葉であり、神の業である。そういう意味でも徴(しるし)と言っているのです。ですから、そのヨハネ福音書記者の意図に沿ってこの福音書を読むこと、つまり、イエスこそ神の言葉そのもの、イエスの業こそ神の業である。イエスこそ神より使わされた救い主キリストという信仰告白にわたしたちも立つこと、そして、ここにのみ永遠の命に至る道があることを大胆に言い表しているのです。

 永遠の命とは完全無欠な存在になると言う意味では言われていません。「自分は福音のほんの一部しか取り扱うことはしていない」「多くのイエスのこの世での業を取りこぼしている」と言います。とても神の全ての業を盛り込むことなどできないと率直に宣べています。わたしたちも同じです。わたしたちの生涯を通しても、神様がわたしたち一人一人に与えてくださっている恵みに、どれだけ答えて神の栄光を顕すことが出来たか、本当に十分な応答はできていないのがわたしたちの現実です。それでも神はわたしたちを祝福してくださって、わたしたちのこの世の生を、わたしたちの精一杯の真実と行動をもって神の愛に応える信仰生活を一歩一歩誠実に、着実に歩んで行くことを求めておられるのです。

 神の愛に応える行動とは、31節にありますように「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受ける」ことであるとヨハネは締めくくります。つまり信仰告白にしっかりと立ち続けるということです。「かつてあり、今もあり、未来もある存在」すなわち究極的な存在として地上を歩まれる神の子なる存在、イエスを救い主であると信じ通すことができるか否かと言うことをヨハネは問題にしているのです。ヨハネ福音書第1章では「言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」ということを語りました。そして本日わたしたちはこの神の言葉を聞き、言葉の内にある命を与えられ、、その命は人間を照らす光である。その命に与るようにと、わたしたちを、永遠の命であるイエスへの真実の信仰へと押し出してくださっているのです。

 お祈りを致します。

 主イエス・キリストの父なる神様。イースターを迎え、わたしたちの教会は、「イエスは神の子メシアである」「信じてイエスの名により命を受けよ」とのあなたの御言葉をいただき、わたしたちが立つべき信仰を示してくださいましたことを感謝致します。どうか、わたしたちの教会がいつどのような時にも、わたしたちの主イエス・キリストが「天と地の一切の権能を授けられている復活の主である」ことを告白し続けていく教会となりますように、これからも御言葉をもってお導きください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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