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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2024年3月礼拝説教


★2024.3.31 「命 の 応 答」ヨハネ20:1-18
★2024.3.24 「命の主を迎え讃えよ」マルコ11:1-11
★2024.3.17 「命を引き寄せるイエス」ヨハネ12:20-33
★2024.3.10 「命の祝福の時が来た」ヨハネ3:13-21
★2024.3.3 「教会は真実の神の祈りの家」ヨハネ2:13-22

「命 の 応 答」ヨハネ20:1-18
2024.3.31 大宮 陸孝 牧師
それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。(ヨハネによる福音書20:8)
 過ぐる受難週の日々をわたしたちは、十字架への道を歩まれたイエス・キリストを仰ぎ、その御苦しみと死とを心に刻んで、それがわたしたちの罪の赦しと救いのためであることを、深く受け止めて参りました。こうして、主と共に「死の陰の谷」を歩んだ私たちにとって、今日、復活祭(イースター)を迎えることは、闇の中に光が差し込んで来るような、喜ばしく望みを新たにする出来事であります。

 その朝、マグダラのマリアは、二つの点で思い違いをしました。ひとつは、復活なさった主イエスを園の番人と取り違えたことです。そして、もう一つは、その復活なさった主イエスを、死者の中から再びこの世に戻られたのだ、と受け止めたことです。

 ひょとすると、マグダラのマリアは、このとき、一瞬、先のラザロのできごとを思い起こしたのかもしれません。そのために、かつて、死んだはずの弟がその姉たちのもとに返されたように、ここでも主が弟子たちのもとに再び戻って来られたのだと、思ったのかもしれません。

 そういう思い違いのために、マリアは主イエスの御足のもとにひれ伏し、その膝に取りすがり、主にご挨拶をしようとしました。マリアは、今、復活の主にお目にかかっているというのがどういう状態であるかを、十分に理解できないでいます。再び依然とまったく同じように主にお目にかかっている、と思っています。しかし、それはマリアの大きな思い誤りでした。

 確かに、主イエスは死者の中から復活なさいました。けれども、それは、ラザロのようにもう一度生き返った、ということではありません。主イエスは、以前と同じ状態に戻られたのではありません。復活というのは、この世の生活に後戻りすることではありません。そうではなくて、神との永遠の生活に入っていくことです。永遠の生活に出発することです。マグダラのマリアと、復活なさった主イエスとの間には、目には見えない一線が引かれています。そこには、この世とかの世、時と永遠、人と神とを、きっちりと区分する一線が横たわっています。そのため、マグダラのマリアは、初め、思いがけない言葉を聞かされねばなりませんでした。17節です。
 「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。』」

 これは、復活の御体にふれることができないという意味ではありません。それから八日の後、どうしても復活を信じられないでいたトマスに、復活なさった主イエスは、
 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい」と語りかけておられます。
 「わたしにすがりつくのはよしなさい」という言葉は、主イエスがこれまでとは全く違う新しく変えられた状態に置かれ、これから後、そういう新しい状態で人々や弟子たちと交わりを持つようになるのを、お教えになるためです。主イエスは、まだ、「わたしの父であり、あなたがたの父である方」の御許に上っていません。ですから、今はまだ、彼方の天上の状態に置かれています。けれども、それは、今しばらくの間のことです。やがて、主イエスは、時間と空間を超えた永遠の状態に移されて、本当に自由に、人々や弟子たちとの交わりをもたれるようになることを示そうとしておられるのです。

 そして、今、そのようなことが理解できたマグダラのマリアに、復活なさった主はひとつのことをお命じになります。主イエスが永遠の命へと移られたという知らせを、弟子たちに告げしらせるように、というのです。このところで主イエスは初めて、弟子たちを「わたしの兄弟たち」とお呼びになります。

 マリアはそのことをまず伝えなくてはなりません。それというのは、主イエスが永遠の命へと入って行かれたことは、主イエスご自身のためではなく、すべての人々にとっての救いのできごとであるからです。主イエスにこのたび生じた復活のできごとは、主イエスご自身のためでもありませんし、また限られたわずかな弟子たちのためばかりでもありません。そうではなくて、すべての人類のためなのです。

 主イエス・キリストの復活は、世界のすべての人々にとって、その死に閉ざされている運命に大きな変化が起こったことを意味しています。そのために、弟子たちは全世界に出て行って、すべての国民に、そのことを伝えなくてはなりません。世界中の人々が、主イエスは自分たちのために永遠の命に入られたことを、知らされなくてはなりません。ですから、17節の言葉は、次のように言います。
 「私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなた方の神である方のところへわたしは上る』と。」

 主イエス・キリストは、わたしたちを死の滅びから永遠の命へと担って行かれ、わたしたちのために永遠の命を勝ち取ってくださいました。この聖なる戦いに比べるなら、そのほかのどのような戦いや勝利の知らせもどれほどのことでもありません。主イエス・キリストがわたしたちのために復活なさり、永遠の命に入られたという、この否定することができない出来事に比べるならば、この世の、この時代のどのような出来事もどれほどのことでもありません。

 それで、この福音書の記事には、マグダラのマリアのほかに、さらに復活の証人として二人の人物が登場しています。ペトロとヨハネです。墓が空になっているという知らせを受けて、二人は急いでやってきます。初め、ヨハネが、年上のペトロよりも先に墓につきました。けれどもどういうわけかわかりませんが、ヨハネはそこで立ち止まります。そして後からやって来たペトロが墓の中に入り、注意深くその中を調べます。そして、それに促されるようにして、ヨハネもまた墓の中に入ります。

 亜麻布がきちんとそこに置かれていました。少し離れた所には、なくなった人の頭に巻いてあるはずの白い布が丸めて置かれていました。そのことから、ペトロとヨハネは、主イエスがそのような亜麻布をもう必要としなくなったのだ、ということを悟ります。この福音書を記したヨハネは、このようなことを述べた後で、彼は「信じた」と記します。ヨハネは、復活を信じる信仰がただひたすら神からの賜物としてのみ与えられているのであることを、よく心得ていました。

 復活の主を信じるという信仰、従って永遠の命を信じるという信仰が、弟子たちの中で、いちばん最初に、ヨハネに与えられました。ヨハネは、復活の主に出会うよりも前に、亜麻布や白い布の状態を通して、すでに主イエスは復活なさったのだという信仰を与えられました。もちろん、ほかの弟子たちもまた、信仰を抜きにして復活の事実を信じたのではありません。弟子たちは空になった墓を見た後でも、また御使いに出会った後でも、また復活の主にお目にかかり、その目で確かめ、その手でふれた後でも、信仰によってのみ、復活のできごとを確認できました。なぜなら、主イエス・キリストは永遠の命へと復活なさったからです。そして、わたしたち人間には、自分が時間と空間の内にある限り、そういう時間と空間を超えた永遠の命を確認するには、「信じる」という、そういう信仰による道しかないからです。

 主イエス・キリストは永遠の命へと復活なさいました。そして、そのことを信じる者は、自分もまた、その永遠の命に生きることをゆるされます。そして、問題はそれだけのことではありません。主イエスが復活なさったことは、いつか永遠の命を信じて死ぬことができるという意味を持つだけなのでしょうか。もちろん、祝福のうちに死ねるということは、決して小さなことではありませんが、しかし復活の出来事がわたしに於いて起こるとはそれだけのことではありません。

 詩篇127編3節「見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。」(旧約971)
 イザヤ書46章4節「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪となるまで、背負って行こう」(旧約1138)

 このみことばが語っていることはこういうことです。永遠の命についての信仰をいだいていればこそ、結婚することが意味を持ち、子供を産むことが意味を持ち、最期には、その額に汗して父また母として家族のために苦労することが意味を持ちます。永遠の神を信じる父または母は、一時的なことのためではなく、永遠に向けて子供を産み、そして永遠に向けて子供を育てて行きます。永遠のために子供を産み、育て、守るなら、父また母としての犠牲は確かに意味があります。子供を愛の神に近づけるために育て養うのなら、父親には、職場への道がどれほど遠くても、母親には、どんなに苦労がともなっても、それがどれほどのことでもありません。

 わたしたちは永遠のためにこそ働くべきなのです。わずか数十年、数百年のためではなく、永遠のためにです。そして与えられた子供のうち誰かが、生きる上で十分な能力を持たないでいる場合には、それは確かに、父や母にとっては担うべき重荷になるでありましょうが、しかし、信仰の父や母はその子を信仰を抱きつつ担ってゆくでしょう。そのような方々は、永遠のためにそのお子さんを産み、そして育てて行かれるのですから。 そして万が一、誰かが死なねばならないときには、それは身をかがめるときです。しかし、それは神の御手に身をかがめる時なのです。ですから、それは、永遠を信じる信仰の中で、あのヨブの言葉が響くときなのです。
 「主は与え、主は奪う
  主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ1:21)(旧約776)
 マグダラのマリアがあの復活の朝、永遠の命へと復活なさった方に出会ったことは、わたしたちにも、意味のあることでした。今日の問題の多くは、復活を信じる信仰によって答えが与えられます。そうでなければいつまでも答えが出て来ないでしょう。
 主イエス・キリストの復活を祝うというのは、それゆえに、この上なく喜ばしいできごとなのです。

 お祈りいたします。
 天の父なる神さま。移りゆく世に、変わることなく立っております十字架を仰いで、時代が暗い時、わたしたちの心が冷えこごえておりますとき、罪の重荷がわたしたちを押しつぶそうといたしますときに、この罪の支配を打ち砕き給う主を仰ぎ見ることができますことを感謝いたします。また、主よ、イースターの朝ごとに、わたしたちは最初のイースターの日に、墓を打ち破って立ち上がってくださいましたそして、この世界が永遠なる神のものであるとの、喜ばしいおとずれをもってお立ちくださいましたイエス・キリストを、もう一度仰ぐことができますことを感謝いたします。ここにわたしたちの希望があります。ここにわたしたちの立ち上がる命の力があります。どうかこの主を迎えて、わたしたちも永遠の命の喜びに生き、主と共に歩み出すことができるように導いてください。
主イエス・キリストの御名を通してお祈りします。   アーメン。


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「命の主を迎え讃えよ」マルコ11:1-11
2024.3.24 大宮 陸孝 牧師
『主がお入り用なのです』(マルコによる福音書11:3)
 本日わたしたちに与えられております福音書の御言葉はイエスのエルサレム入城のところであります。ここは教会暦においては、枝の主日に読まれ続けてきたところであります。一節の「一行がエルサレムに近づいて」という句で始まり、11節の「イエスはエルサレムに着いて」という句で閉じられています。主イエスのエルサレム入城の意味が「近づき」から「着く」間に起こされた出来事を通して明らかにされているところであります。その出来事とは一節後半から一〇節のろばの子に乗ってのキリストの行進のことであります。

 ここのところで重要なことは三節の「主がお入り用なのです」ということばで、ここでイエス御自身が自らを「主」と呼ばれているということです。10章32節に「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」と主イエスのただならない姿がここに描かれており、エルサレム入城の出来事はそれほどに決定的な出来事でありました。ここで主であるイエスが御自身のことを指して「主がお入り用なのです」と子ろばをお示しになり、エルサレムへ入って行かれるという神の計画が着々と実現されて行くさまを表現しているのです。そして、その神の計画の実行者はイエスであり、このイエスが終始、主導権をもって行為されます。このろばの子を備え、選ばれたのも主イエスであり、この後のいささか滑稽とも言えるエルサレムの入城の仕方もまた神の御計画であると同時に主イエスの主権的な選択であった。そして、ここから語られていく、主イエスの十字架の死に到る受難の出来事全体もまた決定的に神の御計画であり、主イエスが粛々と神のその御旨にしたがって歩む出来事であったのだと語っているのです。

 こうして、主イエスは、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されます。この入城においては主イエスの口からはひと言も語られることはありませんが、行為においてメッセージが発せられています。その言外のメッセージ、無言の説教、声なき声を聴き取ることこそが、わたしたちに取って大切なこととなります。ここで主が成そうとしておられることははっきりしています。それは主イエスはわたしたちの王となる、わたしたちに王として臨まれるということです。

 ろばの子に乗る入城の背景には明らかにゼカリヤの預言があります。ゼカリヤ書9章9節、10節(旧約聖書1489頁)「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る。/雌ろばの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。/戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」

 主イエスのエルサレム入城は、主の御生涯においても特異な光景として描かれております。主は普段、御自分を誇示するようなことはなかったようであります。それにもかかわらず人々は、主イエスの教えを求め、主イエスの助けを求めて、その周囲に集まって来ました。ところがこのエルサレム入城の場合は、主イエスの方から、御自分で求めて子ろばを手に入れ、それに乗って、威厳のある姿で入城されたのであります。手はずを整えて、御自分の方から公衆の面前へ躍り出られたような印象を与えるのであります。

 主イエスはどうしてこのような積極的な、悪く言えば、自分を売り込むような行動に出られたのでありましょうか。主イエスは弟子たちの間に自分が救い主であると言う認識が根を下ろしたことを知られ、また一部では自分を政治的な指導者のように考えて、間もなく主イエスがユダヤを占領しているローマ軍を撃退して、祖国イスラエルを独立させるという期待が大きくなっていることに気づかれたようであります。そこで主イエスは、御自分が救い主ではあるが、それが通俗的・この世的なメシアとは違うことを、はっきりと示そうとされたのだ、と多くの聖書研究家は解釈しています。

 ゼカリヤ書では、救い主は、軍馬ではなく、柔和なろばの子に乗って現れ、力ではなく、真実をもって平和をもたらす、平和の君が示されています。特に「柔和」は「貧しい」とも訳される言葉です。貧しい姿で現れる、貧しい者の友です。旧約の預言にはこのようなメシアの姿が描かれています。

 主イエスは、御自分のメシアとしての働きは、神の民としてふさわしくないイスラエルの人々に悔い改めをうながし、またその悔い改めの道を共に歩もうとされたのだ、と考えられます。かつてイエスはエルサレム入城を前にこう語られています。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身の代金として自分の命を献げるためにきたのである」(10:42〜45)。さらに遡って主イエスは、フィリポ・カイサリアにおいてペトロの信仰告白が成された直後に、御自分のメシア(救い主)の使命は十字架を負うことによって果たされるという点を強調されましたが、このエルサレム入城に際して子ろばに乗ることによって、主がイスラエルを勝利と誇りに導くのでなく、謙遜と悔い改めに導くものであることを示されたのであります。

 主イエスがエルサレムに入城されるに際して、「まだだれも乗ったことのない」(2節)と主が乗られた子ろばのことが印象深く語られています。未だ誰も乗ったことがない動物は、王の乗り物にふさわしいものであります。したがってこれは、主イエスが王であること、「キリストの王権」を示すものであります。またその通路に衣を敷く(11:8)のも、王の即位の行進の時の習慣でありました。この出来事は、人々もまた主イエスを王として迎えたのであることを示しているということです。そして、そのろばの子を手に入れるのに、「主がお入り用なのです」と言って引いてくることは、この物語の中に、この話を語り伝えた初代教会の信仰が表明されているということであります。つまり、主がお入り用だと言うのであれば、何はともあれ直ちに差し出そうとする信仰が表されているということであります。

 キリストをお乗せするろばは、自らは本来何も権威を持たないものであります。その何の権威を持たないはずのろばであるわたしたちもまた、自らの権威、人間的権威、人間の権威主義の中に没して生きてしまうことがあるのではないでしょうか。教会の権威主義もまた過ぎてしまった過去のものではないのではないかと思います。高い所に上に上に向かおうとするのなら、たとえそれを思い通りに成し得ないがために卑屈になっていたとしても結局は同じことです。主の体なる教会、その一つ一つの枝、つまりわたしたちに責任として課せられているのは、主イエス・キリスト、この方を唯一の主、唯一の王として、この方にのみ従い、この方にのみ服することであります。

 エルサレムに入城されるキリスト、このキリストへのわたしたちの応答は、自らを献げて生きることであります。自らの権威、人間的権威を捨てて、この唯一の主であり、王である方の御前にぬかずき、「自分の着ている服を脱ぎ」差し出し、「ホサナ」と讃美することであります。讃美の詩を神に捧げることであります。そもそも自分のような者を、主が入り用だと、用いてくださることが光栄であります。自分のように愚かで破れた者は、役に立たないばかりか、むしろ神の救いの業を汚すような者であります。ところが主は、そのような自分を「入り用」だと用いてくださるのであります。

 ここで人々が主イエスのエルサレムの入城を、まことの王の行進として迎えたことは正しい迎え方でありました。しかし、主イエスの歩みは、凱旋の歩みではなく、出陣の歩みでありました。主イエスはエルサレムにおいて凱旋将軍のように勝利の喜びを享受するために都入りをされたのではありませんでした。むしろ人々に苦しめられ、嘲られ、十字架を負うために進み行かれたのでありました。

 ですから、この主につき従うものは、浮かれたお祭り気分で従うのではなく、主イエスと共に人間の罪と戦い、十字架を負う思いで従うべきでありました。しかし、この時主イエスに従った人々は、主が都に入られるといつのまにか姿を消してしまって、十字架のもとまで主に従った者は一人もいなかったのであります。

 宗教改革者ルターは、当時の教会がヨーロッパ社会で大きな権力を持っていることに満足し、もう神の国が来たかのように考えて、おごり高ぶっていることを強く批判しました。教会は世の終わりまで、「信仰の戦いの場」でなければならないのに、「勝利の教会」として安住している。それゆえに宗教改革、信仰改革を必要としていると訴えたのでした。エルサレムへ、十字架へと付き従うわたしたちの信仰の戦いとは、この世の人間的支配構造(つまり主ならざるもの)と対決し、そして人間中心の罪に死んで、新しい神との命の関係に回復される復活を体験することでもあります。十字架の道行きでは、その余りの厳しさに弟子たちも挫折しましたが、復活の主に出会った後には信じ従う道を歩み抜く者となりました。わたしたちも「主の用」に召されていることを恵みとして受けとめ、主の器として主に従う道を歩み抜きたいと思います。

 お祈りいたします。

 神さま。世の人々が熱狂主義的なメシア思想に走りがちな中で、わたしたちが心を静め、主イエスが就かれる王の権威とはどういう権威なのかを、聖書を通して慎重に学び、イエス・キリストの王の権威に服することを平素の生活の中で体得して行くことが出来ますように、わたしたちの平素の生活の中での思いや信仰の思いが、弱くなったり強くなったりたじろいだり、不確かなものでありますときに、そのような自分の心の波風によるのではなく、父なる神さまと御子イエス・キリストの成し遂げてくださいました救いの御業にしっかりと信頼を寄せて、心の平安を保ち続けることができますように、わたしたちを導いてください。

 わたしたちの主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。   アーメン

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「命を引き寄せるイエス」ヨハネ12:20-33
2024.3.17 大宮 陸孝 牧師
イエスはお答えになった。[「人の子が栄光を受ける時が来た」(ヨハネによる福音書12:23)
 ヨハネ福音書の12章20節〜33節までのところは、多くの教えが詰まっているところで、その一つ一つを一度の説教で語るには、時間の限りがあり、大変難しいですので、本日は日課の前半部分、20節から26節までを学んで行くこととしたいと思います。20節に福音書にあまり出て来ないギリシャ人が登場してきます。そしてガリラヤのベトサイダという土地の名前が出てきます。それに続いて、「人の子栄光を受けた」と言う表現が出て来ます。この表現はヨハネ福音書では繰り返し出て来る大変重要な主題です。そして、信仰者にはよく知られている「T粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」という、たとえのような短い教節が24節に出て参ります。さらに25節には「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言う教えも出て来ます。そして最後に「わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」という不思議な言葉が出て来ます。わずか7節ですが、盛りだくさんな内容が込められています。これらのイエスの御言葉の一つずつ耳を傾けて行きたいと思います。

 20節には、二つの要点があります。一つはここに挙げられている「ギリシャ人」とは誰であるか、ということと、その彼らが礼拝をするということにどのような意味合いが込められているのかということです。使徒言行録の中のパウロの伝道の記録の中に、当時の地中海世界にいるギリシャ系の人々で、ユダヤ教に触れ、ユダヤ教の信仰、一神教の信仰を持った敬虔な人たち、神を畏れる者と、もう一つは、ユダヤ教に改宗した外国人たちが登場します。キリスト教会の中で最初の殉教舎と見做されているステファノや、異邦人伝道をしたフィリポなど初代教会の執事に選ばれた人たちは、ギリシャ語を話すユダヤ人たちとして聖書に登場します。そういう人が、この祭りのときにエルサレム神殿にやって来た人たちではないかと見做す研究者もいます。それに対して、ユダヤ人以外の人たち非ユダヤ人、つまり、ユダヤ人から見て外国人の全てを指していると主張する研究者もいます。

 20世紀後半にヨハネ福音書の研究が急速に進み、主イエスの時代の歴史とヨハネの時代の歴史が重ねて描かれていることが明らかとなり、現在では、主イエスの時代の、ユダヤ教に改宗した敬虔な人々や、神を畏れる者たちが祭りの時に、パレスティナ以外のところから大勢やって来た人々や、またパレスティナに住んでいるギリシャ語を話すユダヤ人まで、を含めるのが、歴史的には正しいとされています。つまり、ヨハネ福音書記者のこの記事においては、祭りの時に礼拝するために上って来た何人かのギリシャ人という描写は、その人たちを含む、異邦人全体を、意味していたと見るのが正しいと言うことになります。つまり、イエスの時代に、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人、全てを表現した言葉であったということです。

 大事なことは、その人たちが礼拝するためにエルサレムに上って来たということです。ユダヤ教の信徒と見做されていますから、エルサレム神殿で礼拝するためと言うことになりますが、ヨハネ福音書では、イエス・キリストに会い、あるいはキリストを礼拝するため来たという文脈になっているということが一つの要点となっているのです。つまり、この人たちはエルサレム神殿の宮詣でに来たのですが、イエスの噂あるいはイエスの教えと業のことを聞いて、イエスを礼拝するためにやって来たと理解することが出来るのです。ヨハネ福音書には「礼拝する」という言葉が12回出て来ますが、そのうちの10回は4章のサマリア婦人とイエスとの出会いと対話のところに出て参ります。1回は9章の、生まれながらに目の不自由な人が、、主イエスに出会って目を癒やされた時に、イエスを拝したということが記されています。そして残りの1回が、本日の箇所に出てきているのです。つまり、ギリシャ人たちは、イエス・キリストに会いに、そうしてイエスを礼拝するためにやって来たのです。ギリシャ人たちはわざわざエルサレムに宮詣でしながら、イエスに出会うことを望み、イエスを礼拝したということをいっているのです。かの占星術の博士たちが、チグリス、ユーフラテス河のほとりから、あの遠い道のりを、生まれたばかりの幼子イエス・キリストに出会い、そして礼拝するために、黄金・乳香・もつ薬を持って来た、それと同じように本日のギリシャ人たちは、宮詣と称して事実は、神の子イエス・キリストを礼拝するためにエルサレムに来たとヨハネは描写していて、そこから次の21節以下の話しが始まって行くのです。

 21節「彼らは、ガリラヤ出身のフィリポのもとに来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した」と記されています。ギリシャ名が付いている代表的な人物が、このフィリポとアンデレです。そして、ここに出てくる地名ベトサイダ村は、ローマ皇帝ユリアスの家族の名にちなんで、フィリポスによって再建された、ベトサイダ・ユリアスの町のことです。ガリラヤ湖から死海に流れていくヨルダン河の注ぎ口東側に位置している、ギリシャ・ローマ時代のデカポリス(十の都市)の一つです。この町は紀元前からヘレニズム文化やギリシャやローマの文化の影響を強く受けていた地域で、そこの出身の人たちがイエスの弟子になっているということは、辺境とは言うけれども、当時の大きな都市に、キリスト教が伝わっていたということを示しているということなのです。ペトロの出身の地の近くにも、ティベリアスの名の都市や、デカポリスの一つであるスキュトポリスなどが存在していました。つまり、ここにギリシャ人が登場し、フィリポとアンデレが登場しているというのは、ヨハネが意図をもって紹介しているのだということなのです。

 23節に、「イエスはお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た』」と記されます。ここでいよいよ福音の内容の話になるのです。これまでは、何度も「イエスの時がまだ来ていない」と繰り返し語られてきました。(7章38節、8章30節等)がここで初めて、「人の子が栄光を受ける時が来た」と、しかもギリシャ人の来訪という出来事の中で宣言されます。これがここでの重要な点であり、このことに注目しなければならないのです。つまり、キリスト教は、一民族の宗教ではなく、諸国民、諸民族のための普遍的な宗教であるとのヨハネの理解が示されています。主イエスは、ここで、アンデレとフィリポとギリシャ人たちに対して語ったと推定されます。この23節のイエスの言葉そのものは唐突な印象を受けます。ここに続く話しでは、ギリシャ人であることが何か次に繋がってくる重要な意味を持つ要素にはなっていません。常識的に考えるならば民族の境を超えてギリシャ人までがイエスの御名を慕い求めて来たと言うことを耳にすれば、当然これを喜び、新しい宣教の地の開拓に気負い立つのが人情でありましょう。しかしイエスはそうではありませんでした。外国人の到来に、イエスは、本来の自分がキリストとしてこの世に来た目的・使命をはたす、その時がやって来たことを直感的に意識したのでした。

 24節を解説的に表現すると「一粒の麦は、地に落ち、土に埋もれなければ、いつまでもただ一粒の麦にとどまる。しかし、地に埋もれて古い生命を失うならば、やがてその殻を破って、多くの新しい生命が生まれ出るであろう。広く世界の人々に神の救いが届くためになくてはならない中心的なことは、まず、イエスご自身の生命をひとたび神の祭壇に捧げ、十字架の苦しみを経て、天の栄光に帰り行くことである」とイエスは答えられたのです。異邦人に救いが及ぶためには、人の子が栄光を受ける時の到来、人の子が「上げられる時の到来」、つまり、「「主イエス・キリストの十字架の時の到来」が必要であり、今やその時が来たということが強調され、これをユダヤ教社会に留まらず、世界に向けて発信しているということになるでしょう。この一粒の麦のたとえは、全世界の人々のために十字架の道を歩まれた主イエス・キリストを示すたとえとして相応しく、ヨハネ福音書記者が自分の福音書の中にそれを取り入れたのです。

 このようにイエスがご自身の十字架の死を予告し給うた言葉を、さらに弟子たちにも当てはめて、次の25節、26節に解説的な説明を付け加えて行きます。マルコ8章でもペトロが主イエスの十字架への道を歩まれるのを引き止めようとした時、「サタンよ引き下がれ」(33節)と大変きつい言葉で叱られます。それに次いで34節から35節で「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と記されています。これはマタイ福音書でもルカ福音書の平行記事でも全く同じですが、ヨハネ福音書25節では、「永遠の命に至る」ということと、「この世で」という、ヨハネ独特の言葉を付け加えています。詰まりこの世の生に執着する者は、命を失う。反対のその命を投げ出す用意のある者は永遠の命を得ると言うのです。

 人は誰でも自分の命を守ろうとする強い本能的欲求を持っています。あれかこれかいろいろと選択するときには、結局は自分の利益を中心として物事を考えて行くのですが、それは、この生命保持への欲求が中心にあることの表れにほかなりません。ところがイエスは、まさにこの自己中心の生き方を放棄し、神中心の生き方に向かって一大転換することを求めておられるのです。神を信じ神に従う者にとっては、自分の命についての要求は第二次的な重要性となり、神の御心が全てを優先するものとなり、私たちは無条件の服従を神に捧げるものとなると言うことです。

 しかし、人はあくまで自己主張をして止まない存在です。そのこの世に執着するわたしたちの心は、到底イエスの厳しい要求に従うことができません。そこでわたしたちの深刻な内面の葛藤が生じることになるのです。このようなわたしたちの具体的な葛藤の事実を踏まえて、「自分の命を憎む」という強い表現が、本来何を意味するのかをわたしたちは知ることになるのです。それは、憎むというほどの強烈な、決然たる態度なくしては、この強烈な自己中心と激しく戦い乗り越えること出来ない事を表しています。イエスはそれを可能とするどのような道をわたしたちに示しておられるのか。

 主イエスは、これを単なる自己否定の道として語っておられるのではありませんでした。人間は所詮、単なる否定を安んじて受容することなど出来ません。そういうわたしたちに向かって主イエスが本当に言いたかったのは、あなたがたはより大いなる肯定によって、古い自己を放棄することが出来るのだと言っておられるのです。その本源的な人間の命の肯定とは、神があなたに命を与え、あなたを生かし、あなたを守り、あなたを支えておられるということです。命の主権者は神なのだと言っておられるのです。そして、なおかつその命の主権者である神があなたの生に共におられ、あなたを永遠の命に導こうとしておられる、それがイエスという存在であると宣言しておられるのです。これからはあなたの命に全面的に神が責任を負ってくださるのだとの宣言です。だから、主イエスに従い、彼に仕え、彼と共に人間を救う道行きを最後までイエスと共に歩めと言っておられるのです。

 これは神のわたしたちへの「愛」という言葉で置き換えることもできる『真実の命の交わりを生きよ』ということだったのです。しかも神はこのように、わたしたちの命を真実に生かすために自己を捧げてくださり、その愛に応答して行く者に、天上の栄誉、つまり、永遠の命を与えたもうというのです。これが神の側のわたしたちの命の大いなる肯定の根拠です。このわたしたちの命の肯定への道行きを今や厳粛に歩もうとなさろうとしておられる。それが、27節から33節のことばで言い表されているのです。

 お祈りいたします。

 父なる神様。わたしたちはいつのまにか自分の野望とあなたに対する信仰の熱心との区別さえもつかなくなってただひたすらに自己実現だけを夢見る者となってしまいがちです。そのようなわたしたちに、あなたの本当の命に?がる大いなる新しい命の希望を与えてくださいました。わたしたちがイエスを正しく十字架と復活のキリストとして告白し、主の十字架の後に従い行く者となることが出来ますように導いてください。

 主イエスキリストの御名によって祈ります。   アーメン

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「命の祝福の時が来た」ヨハネ3:13-21
2024.3.10 大宮 陸孝 牧師
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネによる福音書2:19)
 父なる神は、イエス・キリストを、この世の罪と虚無にある人を救うために、父なる神のみもとよりこの地上に遣わされた、そして神の御心を宣べ伝え、最後に十字架にかけられ、地上において父なる神の救いの計画を完成され、そして、イエス・キリストは、また天の父の御もとに戻されたのだと、ヨハネは信仰告白しています。そのことがはっきりと本日の聖書の日課に記されております。そしてこの十字架の救いを予め告げているものとして、つまり、新しい神の救いの業を指し示すものとして、旧約聖書を用いております。これは初代のキリスト教がよく用いた手法でした。
 
 本日の旧約聖書の日課であります民数記21章8節以下で、神に対してつぶやき罪を犯したイスラエルの民を、神が罰し、毒蛇にかまれて多くの民が死んだというのですが、モーセが神の命により青銅の蛇を造り、それを竿(さお)の上に掲げて、これを仰ぎ見た人は死をまぬがれたという物語を通して、イエス・キリストは罪と虚無にまみれている人々を救うため十字架にかかられたと語るのです。それはモーセのように肉体の生命ではなく、神との霊的な繋(つな)がりの中にある新しい命を与えるためであるというのです。ここでお断りしておきますが、わたしたちの罪というのは、わたしたちが自分自身を神の座に祭り上げてしまっていることです。わたしたちが座ってはならないところを、わたしたちが占めていることです。つまり、わたしたちが、神と人間との本来の元々の関係、これは旧約聖書の創世記の冒頭のところの、神が人々を祝福のうちに創造したという、あのアダムとエバの誕生の物語に出て来ます、創造主と被造物である人間との調和が崩れ、アダムとエバが、つまり被造物が創造主の座に座ろうとしたときに、人間の神からの離反の歴史的な出来事が起ったと描写されています。これが人間の原罪ということです。

 その理解なしにはキリスト教の福音は分かりません。その神との原初的な関係を回復するということが、イエス・キリストの務めであり、わたしたちに対してなされたことなのです。そしてこの神との原初的な関係にわたしたちが立ち戻らない限り、人間が人間を支配したり、人間が非人間的行為を成すことは終わらないのです。人間の神からの逃亡が人類史、あるいは世界史に悲惨と不幸を、惨禍(さんか)を招くと聖書は告げているのです。旧約聖書の冒頭の創世記は荒唐無稽な物語を書いているのではなくて、人間の極めて実存的な歴史を示しているのです。そこでヨハネは世界の救いのためには、神の子イエスが十字架に付けられなければならなかったといい、パウロもそのことを明確にしているわけです。

 本日の福音書の日課の3章16節は余りにも有名な箇所であり、キリスト教の神髄をずばりと言い切った箇所として人々に感動を与えている聖句です。「神は、そのひとり子を与えたほどに、世を愛された」と。神は自分の一番大切なものを、もっと極端にいえば、自分自身を、罪ある自分に逆らう人間を救うために与えられた、犠牲にされたという表現です。いかにも純真な表現ではありますが、神がどんなにわたしたちを愛しているかをこれ以上の表現で表すことはできないでしょう。

 ここからヨハネは極めて重要な結論を引き出しているのです。それは17節です。つまり神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためであるという一句です。これはわたしたちにとっては無限の希望につながる意味を含んでいる言葉です。神はすべての人を愛し、これを救おうとされているということです。16節にはイエス・キリストを信じるものが一人も滅びないようにと書いていますが、17節はそれを超えて、すべての人が滅びないようにと拡大させることができる言葉となっています。

 もちろんヨハネにも裁きの思想はありますが、ただよく読んでみますと、その裁きの思想は非常に独特なものがあるのです。といいますのは、イエス・キリストを信じないということ自体が裁きだというのです。つまり裁きは未来の終末のことであるよりも現在のことなのです。今、ここですべての人は根本的に二つの生き方への決断を迫られているというのです。この二つの生き方、自分の力で生きようとするかーそれも自信と絶望(自信喪失)の間のいろいろな段階があるのでしょうがー、それと、自らの罪と無力を認め、神の赦しの愛に生きるかの二つの生き方があり、その真ん中にイエス・キリストの十字架が立っているとヨハネは言っているのです。

 ということで、信じないということ自体が裁きだといっているのです。ヨハネの目には、律法を誇るユダヤ人と異邦世界の罪ぶかさ、醜さが焼き付いていたのでしょう。それですから、このキリストを信ずるか信じないかを、現実にすべての人が迫られているということだけに狭くとるのではなく、むしろたとえキリスト教にふれたこともなく、そのようなことを考えたこともないとしても、人間は罪人であり、二つの生き方が、可能性としてすべての人に人間として問いかけられているといった方がよいでしょう。そして、たとい現在既に裁きが行われているとしても、それでも17節はそれよりも大きいことが語られている。つまり、イエス・キリストを父が遣わされたのは裁くためではなく、一人一人に問いかけられている厳粛な問いなのだとわたしたちは受けとめなければなりません。このような意味でヨハネ9章39節では、裁くためであるとさえ書かれています。そこではイエスによって眼、それも肉体の眼とともに心の眼が開かれ(自らを赦された罪人と知るに至った盲人の眼が開かれ)、反対に自分を真理を知っている正しい人間であると自負しているユダヤ人が心の眼が閉ざされていて自分の罪がわからない、と語られているのです。

 繰り返して申しますが、人間となってわたしたちのところに来られた神「神の子」は、この世界の歴史に、救いの業を示された後、~のもとに戻られた、これが十字架、復活、昇天の出来事といわれるものの内容なのです。ここに神の永遠の命に与る道が開かれたのだという、わたしたちへのメッセージがあるのです。

 19節以下の「光と闇」、「悪を行う、真理を行う」、といった言葉にはただ単にだれでも分かる悪行とか、腐敗、不正、堕落と言った具体的な状況や倫理・道徳といった人間の意識的な真理の状態が言われているというのではありません。もっと深く人間存在そのもののあり方が示されています。そしてそれをずばり指摘しているものこそ福音なのです。

 ですから福音を信じる信じないは、個々人一人一人の主体的な責任であると同時に、ヨハネは6:44節、65節では信じるのは人間の力に拠ってではない。神の導き、選びによってであることを力説しているのです。このことを別の言葉で申し上げますと、人間を神との新しい命の関係に回復させる業は、イエス・キリストの復活に基礎づけられているのですよということです。イエスは、十字架の死と復活によってわたしたちの罪の現実を克服し、死に打ち勝ち、新しい命の最初の人となったのです。そのイエスとわたしが信仰によって結びつく時に、わたしもイエスによってもたらされた罪と死を克服した新しい命に与るのです。一方ではアダムの神への離反によって、人間の歴史に罪が持ち込まれ、その結果として、この神の創造の世界に死と滅びが入り込んだ。しかし、他方では、イエスの到来によって、その罪の現実と死と滅びから解放された。つまり神と人間の本来の関係である「生」、新しい祝福と恵みに満ちた命を与えられた。それが、教会が自覚的に受けとめた信仰の内容です。この主イエスにおいてもたらされた神の救済の働きを信じないで、神から離れた自然的な生を営んでいる大多数の人々に、神の御声を聞いて本当の命に生きる時が今来ているのですよということをヨハネは告げているのです。

 人間の自由と責任ということと神の導き、選びという二つの矛盾を人間の理性で解くことはできません。わたしたちはだた15、16節にあるように神の憐れみによって信仰へと導かれ、罪にまみれた自分を捨てて、神の御心をわたしたち自身の意志として主体的に生きるときにこそ、わたしたちが神の復活の命に与っていると言えるのです。

 本日の日課では厳しさと共に、無限の希望が与えられていることを、わたしたちは肝に銘じたいと思います。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された・・・~が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」~による新しい創造の業が始まっています。わたしたちは一人一人その神の救いの業に招かれています。わたしたちの方でもそれぞれ主体的に神さまの救いの恵みを信頼して、イエス・キリストに身を委ねて行きましょう。それがわたしたち信仰者としての責任(応答)です。

 お祈りいたします。

 神さま。今イエス・キリストの言葉が語られていることを感謝いたします。わたしたちがあなたの御言葉をただ表面的に聞き流すのではなく、魂の奥深くに受けとめ、信じ、そして神さまがお示しくださった救いの御業に自分を委ねて、神さまの御心に生きるものとなることができますように、そのようにしてわたしたちが身も心も復活の主がもたらしてくださった神さまと結びついた新しい復活の命を生きるものとなる事が出来ますようにわたしたちを恵み深く導いてください。

 キリスト・イエスの御名を通してお祈りいたします。   アーメン。

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「教会は真実の神の祈りの家」ヨハネ2:13-22
2024.3.3 大宮 陸孝 牧師
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネによる福音書2:19)
 地上での主イエスの御生涯の中で、「宮潔め」といわれる出来事は、主イエスの普段とは違う姿が描かれております。主イエスは普段は「敵を愛せよ」と教えられ、柔和な愛の教師として生きられました。そのイエスがここでは神殿の境内で「縄で鞭を作り」犠牲に用いるために売られていた牛や羊を追い出し、献金用の貨幣を両替している商人の台を倒し、お金をまき散らすという、手荒な行動に出ています。

 しかし、主イエスが鞭を振るわれたのは、牛や羊を追い出すためであり、暴力をふるったのではなく、権威ある命令によって商人たちを退去させたということであったと言うことがよく読みますとわかります。しかしこれは主イエスにとってはきわめて珍しい、厳しい行動でありました。

 この「宮潔め」は、ヨハネ以外の福音書では、主イエスの生涯の最後近くで起こったこととして記録されていますが、ヨハネ福音書では彼の公生涯の始めに置かれています。それはこの出来事が「カナの婚礼」の出来事とならんで、主イエスの働きの代表的な出来事であることを示しています。

 ユダヤ教では一年に三回大きな祭り(過越祭、五旬祭、仮庵祭)があって、その祭りの時には人々はユダヤ国内だけではなく、外国からも巡礼の旅をしてエルサレムの神殿の礼拝に集まって来ました。そして礼拝で捧げる献げ物として、牛や羊、貧しい人々は鳩を捧げたのですが、それらの動物を遠くから引いてくることはできなかったので、神殿の中の売り場でそれを買い求めたのです。またローマ帝国の貨幣には皇帝の肖像が鋳られていましたので、これは偶像にあたるとして、神殿の献金としては受け入れられませんでした。しかもユダヤでは自国の通貨を造ることは許されていなかったので、貨幣に肖像のない、隣国ツロの貨幣で献金するように定められていたのです。そのために神殿の中に両替商が店を開いていました。

 そういうことですからこのような店は礼拝をする時の必要から始まったものでありましたけれども、時が経つにつれて、いつしか商人たちの関心が、そこから上がってくる利益に集まり、神殿の祭司たちも、商人に場所を提供することによって大きな収入が入ることに関心を寄せるという状況でありました。

 神殿がしばしば聖なる礼拝の場所から、遊びと商売の場所になることに対して、旧約の預言者たちは鋭い批判をし、警告をして来ました。主イエスもまた預言者たちと同じ心で、礼拝が形式化したり、自己満足のために行われるのでなく、「霊と真理をもって」(四:二四)成されることを強く求められたのです。礼拝は、生ける神に向かってわたしたちの祈りが届けられ、生ける神の臨在に触れるものでなければならないことを主イエスは「宮潔め」の行動を通して教えられたのです。

 イエスの弟子たちは、イエスのこのように激しい姿に接して、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉を思い起こさせられました。これは詩篇69編10節の言葉であります。この詩人は神殿を神の家として清く保ち、これを世俗的な商売の場としたり、自分が敬虔な人間であることを見せびらかす機会としたりするようなことを、決してゆるさないという、潔癖さをもっていたようであります。それが周囲の人々の反感を買い、身を滅ぼすきっかけになったと嘆いています。主イエスの「宮潔め」も、結果的には当時の宗教家やそれと結託する世俗的な人々の反感を買い、最後には十字架につけられるという、身を滅ぼすもとになりました。そのことを弟子たちは予感したようであります。

 その予感通りに、ユダヤ人たちは主イエスに反発して、あなたは神殿管理の責任者たちが許可している礼拝に必要なものの調達まで、あなたの一存で禁止し、しかも実力行使にまで出るとは、何ごとか。あなたは一体どんな権限を持っているのか。持っているならその証拠を見せてほしいと、詰め寄ったのであります。これに対してイエスは、「この神殿を壊して見よ。三日で建て直してみせる」と答えられました(2:9)。このエルサレムの神殿は、ソロモン王の建てた第一神殿がバビロンの軍隊によって破壊された後、バビロン捕囚から帰還した人々によって建て直された、第二神殿のことですが、主イエスの当時は、紀元前二〇年からヘロデ大王によって大規模な改修工事が行われていました。この工事は紀元七〇年のユダヤ戦争でローマ軍によって徹底的に破壊される直前まで続けられました。ですから主イエスに向かって人々が「この神殿は建てるのに四六年もかかった」(2:20)といっているのは、主イエスの当時、この神殿工事がひとまず完成して、工事中断の状態であったと思われます。それにしても、大勢の人たちが何十年もかけて築き上げた神殿を、主イエスは三日で建て直すと言われたのです。人々がそれを信用できなかったのは当然でありました。

 それに対して21節では「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と説明されています。主イエスが十字架について、その御体が砕かれた後、「三日目によみがえ」られたその復活の御体こそ、神と人を結び会わせる、まことの神殿だと言っているのです。

 神殿とは地上においての神の臨在の場所であり、神と神の民とが出会う場所であります。ソロモンが神殿建設を完成して、これを神に捧げたときの献堂の祈りの中で、神が昼も夜もこの神殿に目を注ぎ、人がここで捧げる祈りを聞いてくださるようにと願っています(歴代史下6:20 旧約677頁)。

 しかし、神と人間を真に結び合わせるものは、人間が造った神殿ではなく、生けるイエス・キリストであることが、ここに明らかにされたのです。罪人である人間は聖なる神の前に出ることができません。神を見た人間はその潔さに撃たれて死ぬと言われます。この人間の罪をイエス・キリストが引き受けてくださり、十字架で贖罪の死を遂げてくださいました。そして三日目によみがえって、御自分の潔き体で人間に結びつき、御自分と父なる神との深い交わりの中にわたしたちを迎えいれてくださるのです。このようにして主イエスは、わたしたちを神と結び付ける、真の神殿となってくださいました。それによってもはや地上の神殿は不必要になったのです。

 いろいろな宗教とキリスト教とどこが違うのかといいますと、神と人間とを結び付ける仲立ちをする人物の違いです。ユダヤ教とキリスト教の違いは、ユダヤ教の媒介者がモーセであるのに対して、キリスト教はイエス・キリストだといえましょう。モーセの場合は、果たした「役割」その「働き」によって神と人とが媒介されているのに対して、主イエスの場合はキリストの存在そのものが媒介となっています。モーセは人間ですが、イエス・キリストは「肉となられた言」(1:14)、「神と人とが一体となられたお方」です。キリストは、神と直結した「神の子」であり、しかも生身の人間となられて、人間と一体になって、神と人間とを完全に結び合わせくださいます。

 それですから、ヨハネ福音書は「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(2:21)と言っているのです。わたしたちを~と結びつけるのは、神殿のような建物、器ではなくて、わたしたちのために神とわたしたちを執り成してくださる、生けるキリストです。キリストの御生涯の最後の夜、主はゲッセマネの園で、同伴した弟子たちが「わたしと共に目をさましていなさい」と命じられていたにもかかわらず、疲れ果てて眠ってしまったときも、ただ一人激しく祈り続けられました。そのように、わたしたちが父なる神から迷い出て、霊的に眠ってしまっている時にも、主イエスはわたしたちの一人一人のために、父なる神に執り成し続けておられるのです。

 最後に、ヘブライ人への手紙10章19節〜22節をお読みいたします。「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。・・・わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」旧約の人間が造った地上の神殿は、天上の神の造られた神殿の模型に過ぎません。キリストは真の大祭司として、わたしたちを生ける神と交わる者としてくださったと教えています。

 キリスト教は唯一信仰でありますけれども、だからといって排他的であるのではなく、人類の救済の完成として、霊的な包括性をもっています。わたしたちは一人一人「まことの神殿」まことの仲保者としてのイエス・キリストによって、神の恵みのただ中に導かれ集められて神の民となることができるのです。

 お祈りいたします。

 神さま。わたしたちが本当に神の宮を「祈りの家」として行くことができますように、それぞれの家庭、職場や居場所にあって、恵み深くわたしたちと共にいてくださる主イエスに、わたしたちの方でも平素の生活の中でしっかりと繋がり、神を仰ぎ、神さまとの新しい愛の命に繋がって、霊の力を頂き、神の僕として生活することを通して、この礼拝を本当にあなたに繋がり、あなたの民となり、讃美の群れとなることが出来ますようにわたしたちを導いてください。

 イエス・キリストの御名を通してお願いいたします。    アーメン

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