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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2026年1月礼拝説教


★2026.1.4 「希望と喜びへ続く別の道」 マタイ2:1-12

「希望と喜びへ続く別の道」 マタイ2:1-12
2026.1.4 主の顕現主日 大牧陸孝牧師
「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2章2節)
 降誕主日から、前夜の燭火礼拝、そして年が改まった本日の顕現主日まで、一連の降誕の出来事が記してある福音書の日課が続いております。降誕劇では、このマタイに記されている博士たちの物語と、ルカ福音書に記されている羊飼いたちが天使に告げられて、幼子に会いに行く物語とは同時進行の出来事として展開されるのですが、実際はこのマタイ福音書に描かれている物語は、イエス様が生まれる前から始まり数年の経過の後に主イエスがおられる家に辿り着くという長途の旅であったようです。

 そういうことですので、~の民イスラエルが待ち望んでいた救い主誕生の知らせは、先ず最初に、東の方の星占いの博士たちに対して告げられたということになります。そしてそれは、特別な星を通してであったとマタイ福音書は告げています。この星占いの博士たちが、どのようにして星の輝きから、ユダヤ人の王、つまりメシアの誕生を知ることができたのかは分かりません。ただはっきりしていることは、神が特別な方法で、ユダヤ人から見たら異邦人である人々に、救い主誕生の知らせをお告げになったということです。

 東の方とはどこなのか、いくつかの説がありますが、ペルシャ地方(今でいう湾岸周辺)のことであろうというのが、一つの有力な説であります。わたしたちにとっては、その場所を特定することが大切なことなのではなく、旧約聖書の中で「東」の方角、東の地というものが、どのように取り扱われているかということを考えて見ることが大切なことです。そのときに、東というのは様々な問題を抱えている場所として描かれていることが分かってきます。いくつかその例をあげて見ます。

 創世記に、有名なアダムとエバの物語が記されていますが、二人が罪を犯してエデンの園から追放されたのは、エデンの東の方でありました(創世記3章)。東の方とは神からの追放の場所であったのです。このアダムとエバから生まれた兄弟カインとアベルの間で起こったのは、カインによる弟殺しでした。そのカインについて創世記4章16節にこのように記されております。「カインは主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ」。神からの逃亡の地が東の方だったのです。またあのバベルの塔を建てて、天まで届くようにした人々に関しては、次のように記されております。(創世記11章2節)「東の方から移動して来た人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住みついた」。神への反逆の地として東の方が描かれています。もう一つだけ例を挙げるならば、ヨナ書の中で、ニネベの町が救われたことに納得がいかなかったヨナは、神への不満を抱いてニネベの成り行きを見るという行動に出ました。その時の様子が、次のように記されています。(ヨナ書4:5)「そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ」神への抵抗の場所が、東の方だったのです。

 このように「東」とは、旧約聖書では、神から追放された場所、神から逃げ出した場所、神から遠く離れているところ、さらには神と敵対する者たちの住む場所と言った意味合いで位置づけられていることが多いということが分かります。この東の方に興った(おこった)大国、アッシリアやバビロンによって、イスラエルとユダの国が大いに苦しめられたことも、イスラエルの歴史においては、決して忘れることのできないものでありました。神の祝福から遠く離れ、人生の躓きの中でそこに住むほかない場所、それが旧約聖書では、東、東の方として描かれているのです。

 ところが、メシア誕生のしるしである星は、まずそこに輝きました。そこに住んでいる人々が誰よりも先に、この星を見出したのです。神を中心に考えるならば、神は、~なき者とみなされていた土地を選び、そこで真剣に国や人民のあるべき姿を追い求めていた星占いの博士たちを選んで希望の知らせを告げてくださったのです。それは神がなさったことでした。

 そして、その知らせを、星を通して受け取った東の方の博士たちは、星に導かれながらついに、ユダヤ人の王、世界の救い主としてお生まれになったイエスの前にひれ伏して拝んだのです。それはユダヤの人々、エルサレムの人々ではなく、異邦の国の人々が、主イエス・キリストへの最初の礼拝者となった、ということでありました。ここに、主イエス・キリストによってもたらされた福音が、世界的な拡がりを持つものであることが示されています。福音書の終わりの部分で、復活の主イエスは弟子たちに向かって、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)。と言われますが、そのことが既に、主イエスの誕生のときから始まっていることを知らされるのです。

 主イエスが「インマヌエル」(神はわれらと共におられる)と呼ばれるであろうとの誕生のときの天使の言葉が、福音書の終わりの主イエスの言葉、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)という言葉で繰り返されているのと同じです。マタイ福音書の著者は、始めと終わりの部分で主イエス・キリストの福音が持っている拡がりと深さを示そうとしているのです。主イエスは、すべての人々の救い主であり、また、わたしたちすべての者と共にいてくださる牧者である。そのメッセージがマタイ福音書の始めから終わりまで貫いています。

 さて、それで、「東」という方角や場所が持つ聖書の象徴的な意味を考えましたけれども、さらに、そのことをわたしたち自身に結び付けて考えて行かなければなりません。そうすると、わたしたちもまた「東」の地に住む者としての自分に気づいたり、あるいは、わたしたちには真の神を知っているようで知らない面があることに気づかされます。神から離れてしまった心を持つことがあり、神によって自分は追放されたと思い、自分はもう神とは何の関係もない、と決めつけてしまうことがあります。神を敵対視することもあるのです。

 そのような神との関係だけでなく、わたしたちは常に何らかの暗さを抱えている者です。思い煩いがあり、悲しみがあり、痛みがあり、醜さがあります。そして、そこでこそ神に目を向けるべきであるのに、かたくなにそれを拒もうとする制御できない自己中心の自分がいます。そういう意味で、わたしたちもまた、東の方に住んでいるものたちであり、心の内に東の土地、つまり~なき領域をかかえもっている者たちなのです。本当はそこでこそ神を最も必要としているはずなのに、神に正面から向き合おうとしていない、真剣に神の憐れみと恵みに依り頼むことをしない何かを抱えているわたしたちなのです。

 しかし、そのようなわたしたちに、神は救い主の誕生の知らせを告げてくださっています。すべての人々の救い主であると同時に、このわたしの救い主であられる方のわたしのためのこの世へのお生まれを告げてくださっているのです。今では誰でもが知っているクリスマスを一般的なこととしてではなく、自分自身へのものとして受けとめ、自分への招きがそこにあることを発見することが、一人一人に求められています。そして、それに応答して立ち上がらなければなりません。

 東の方の星占いの博士たちは、立ち上がってエルサレムへ旅し、更にベツレヘムに向かって進み、ついに、救い主キリストに出会いました。ユダヤ人の王ヘロデ、祭司長たちや律法学者たちは、救い主の誕生を知る機会が与えられたにもかかわらず、立ち上がることをしませんでした。歩み出すこともしませんでした。彼らには不安だけが残りました。それに対して、イエス・キリストに向かって歩き続けた博士たちは、喜びと礼拝と献げものを献げる機会を持つに至ったのです。歩き、真剣に求めつつ生きる人には、神は歩いただけのものを与えてくださいます。歩いただけのものをその人自身の内に与えられるのです。そこにその人のみが語ることができる言葉も生まれてきます。自分の信仰の歩みを通して主の救いを証しする言葉が生まれ、また、生きる命の力も与えられるのです。

 わたしたちは、様々な分野で真剣に誠実にその道を歩き続けて来た人が、その人にしか語ることができない言葉を持っていることを知らされます。それは何も脚光を浴びるような分野だけに限られたことではなく、この人間社会を、目立たない形で支えている人々においても同様です。それらの人々の内には、歩き続けることによって与えられたものがあるからこそ、その人しか語ることのできない言葉が生まれてくるのです。信仰の道において、求め続け、探し続け、祈り続けてキリストに向き合って歩む時、人はその人の言葉を持つ者とされるのです。そのためには繰り返し、神の招きに応じて立ち上がり、歩きをとめないことが大切です。今はまさにそのようなキリストに向かっての歩みを新しく始める時であります。また、新しく立ち上がる時であり、その歩みを強める時なのです。

 歩けばつまづくこともあります。倒れることもあり、傷つくこともあります。神の御心に忠実に、誠実に生き続けた主イエス・キリストの体にも傷があり、ついには十字架上の傷と流血によって、その生涯を閉じられました。異邦人への伝道に生涯を捧げた使徒パウロの肉体も傷だらけでした。第二コリント11:23〜29節を読みますと、使徒パウロの歩み続ける中での苦しみが偲ばれます。パウロだけではありません。ここにいるわたしたち一人一人にも、同じように生き続け、信仰を貫く中での苦労や困難や悲しみがあるのであります。この一年の歩みもそうであったかもしれません。わたしたちの教会自体も苦しみつつこの一年を歩んで来ました。しかし、キリストに向かって歩み続けることによって、歩いた者にだけ分かる、上から与えられる平安があり、感謝があり、希望があります。歩くことを放棄しない者に、神さまは、その人に相応しい喜びや勇気や力を与えてくださるのです。「恐れるな」との御声が響いてくるのをわたしたちは必ず聴き取ることができるのです。

 東方からやって来た星占いの博士たちは、御子イエスに出会い、喜びに溢れ、自分たちにできる最大の贈り物をして、来た道とは「別の道を通って自分たちの国へ帰っていった」(2:12)。と記されております。ヘロデ王が「新しい王の誕生が分かったら、帰りに知らせてくれ」と頼んだその道を通らずに、別の道、つまり、新しい道を通って彼らは帰って行きました。これは、神さまの導きによる新しい歩みが始められたことを示されているのです。わたしたちにも、キリストとの出会いによって、その都度、今までとは異なる別の道が示されるということが起こります。

 星占いの博士たちの探求の旅は、発見に変わり、出会いに至りました。小さな家に横たわる普通の幼子の中に、~が示してくださる輝きを見出して、この方こそ救い主であるとの確信を与えられて、ひれ伏し拝みました。そしてそこから新たな自分たちの主であり、王である方のもとで生きる生が始まったのです。

 わたしたちも、ベツレヘムに生まれ、十字架の上でその生涯を閉じられたイエスを、救い主として信じる信仰へと招かれています。このイエスは地上では何か多くの物を所有されたお方ではありません。身につけたこの世の物で人々を引きつけ、人を集めたお方でもありません。この世の栄光は何一つ備えておられませんでした。ただ、~の言葉をもって、人々に慰めや励ましを与え、罪の悔い改めへと促し、罪の赦しを与え、永遠の命の希望を約束してくださったのです。すべての者が、このお方によって、その傷を癒され、不安を取り除かれ、悲しみが喜びに変えられる、それだけの霊的・内的な恵みをもって、主イエス・キリストはわたしたちの世界に来てくださいました。わたしたちの苦しみ、悩み、憂いをご自分のものとしてくださる唯一の救い主イエス・キリスト、すべての迷える魂を平安へと導いてくださる大牧者としての主イエス・キリスト、その方の体温や息づかいを、一人一人が身近に覚えさせられる日それがここでの出会いの日なのです。主に出会った大いなる喜びをもって新しい一年の歩みを始めて行きましょう。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。


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