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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2026年5月礼拝説教


★2026.5.10 「神の愛への招き」ヨハネ14:15-21
★2026.5.3 「イエスは道・真理・命である」ヨハネ14:1-14

「神の愛への招き」ヨハネ14:15-21
2026.5.10 復活節第6主日 大宮陸孝牧師
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14章16節)
 先週わたしたちはヨハネ14章1節から14節までを読み、学びました。本日はその続き14章15節から21節までが日課となっております。この箇所は「子と父の愛の関係」についての三つの区分が成されているところです。第一は15節から17節の「助け主の約束」、第二は18節から21節の「イエスの再臨の約束」、第三は「イエスと父の到来の約束」です。14章は三人の弟子たちの問いとそれに対するイエスの答えから成っています。1節から14節ではトマスに続いてフィリポがイエスに問います。トマスの問いは、イエスの十字架の出来事はそれで終わるものではないことを知らないことを表していました。そのことは11章16節で、イエスが死んだラザロの所へ行くと言われた時に、トマスが「わたしたちも行って死のう」と言い、自ら進んでイエスと死を共にしようとすることによく言い表されています。そして、フィリポの問いは、復活に至るためには必ず十字架を通らなければならないそのことを忘れていることを示していました。イエスはこの二つの対照的な問いに13章38節で次のように答えておられます。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」このイエスの言葉は、人は進んで苦しみを受けることでイエスの死に与るのではない。イエスの死は救いの出来事として与えられるのだと宣言をされているのです。

 そして14章12節以下でイエスは、ご自分の死は、弟子たちとの永遠のわかれではなく、父なる神と人間との間に道を付けることであり、そのことによってキリストの弟子たちが、イエスご自身の地上の生活が終わった後も、「みなしご」のように放置されるのではなく、神の命に触れ、霊なるキリストと共に歩むことを教えられます。そして、神の救いの働きを理解して、キリストの働きを引き継ぐ者となり、キリストが働かれたユダヤだけではなく全世界に宣教する、その宣教の土台となって証人の努めを果たすことができるようにと、「弁護者」を遣わすことを約束されたのでした。

 15節「あなた方はわたしを愛しているならば、わたしの掟を守るであろう」14章1節から14節では繰り返し「信じなさい」と言われていましたが、ここに来てイエスは「愛しなさい」と言われます。21節から24節でもそのことが繰り返されています。

 ローマの信徒への手紙4章18節で、パウロは「アブラハムは希望するすべがなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」と語っています。1節から14節に見られる弟子たちのイエスに対する問いは、不安と懐疑の両方から出たものでありましたが、イエスはその一つ一つに丁寧に答えておられます。これはイエス自身が「互いに愛し合いなさい」との新しい掟の下に立って答えておられたことを表しています。信仰は不信仰と裏腹の関係にあって、望みを持てない状況の中にあってもなお望みを抱いて信じるということなのです。そして、愛は神と子の全き一致において明らかにされ、それをわたしたちは受け取ることになるというのです。教会は初代のころと同様に今なお光と闇の対立する世のただ中にありますが、聖霊なる「助け主」によって守られ、導かれるならば、その闇の対立を教会自らの内に引き込むことなく、この神の愛を受け取り、そして、この愛は教会にとって新しい掟となり、教会は世の終わりまでそれを「新しい生きた」ものとして持ち続けることになるとイエスは言われているのです。

 16節「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」共同訳では、この節の始めの「そうすればわたしも・・・」が欠けています。「わたしを愛するならば、わたしも父にお願いしよう。」と訳すべきところです。教会はイエスへの愛において破れない共同体・聖徒の交わりとして生きるとき、父と子の完全な一致を表す聖霊が「助け主」となって働くというのです。「助け主」はイエスが再び来られることを教え、この世の迫害の中にある教会の群れを助け、励まし、ますます希望を抱かせ、永遠にあなたがたと一緒にいるのであり、見えたり見えなくなったり、働いたり働かなくなったりすることはない。

 「聖霊」は、わたしたちの内に来られ、わたしたちの内に宿られる神です。「父なる神」と「子なるイエス」は、わたしたちの外におられる神です。「父なる神」は天地の造り主として、世界とわたしたちを創ってくださり、子なるイエスはわたしたちの世界に来られ、わたしたちに代わって、わたしたちの罪を引き受けて贖いの死を遂げられました。このように父なる神と子なるイエスがわたしたちの外でわたしたちのために働かれるのに対して、聖霊は見えない形でわたしたちの内に注がれ、わたしたちの内に留まり、わたしたちのために働き続けてくださっているのです。その働きとは「弁護者」と言われるような働きのことです。わたしたちは神さまを、厳しい裁判官のように考えがちです。使徒信条でも、主イエス・キリストが最後の審判において「生ける人と死んだ人とを裁きたまわん」と告白されています。しかし、救い主は神の裁きによって有罪判決を受け、滅びるほかないわたしたちのために、身代わりとなって死んでくださいました。そして聖霊は、わたしたちの弁護をする者となって、わたしたちを清め、慰め、励ましてくださいます。「サタン」はわたしたちに敵対し、わたしたちを訴え、避難中傷して有罪にし、滅ぼそうとします。そこには敵意があるのみであります。それに対して聖霊なる神は、わたしたち罪人を愛し、罪を清め、生まれ変わらせてくださるのです。

 19節〜20節 「わたしが生きているので、あなたがたも生きる」と言われます。これはトマスの問いへの答えと見られます。そして20節は父と子の間での相互内在を言うだけではなく、「わたしもあなたがたの内にいることを、あなたがたは知る」と語ります。これはフィリポの問いへの答えです。イエスの生前弟子たちはイエスの師事を直接受けているにもかかわらず、イエスを理解できず、したがって本当のイエスとの交わりの中にはなかったのですが、それがこれから後にイエスとの真実の交わりが実現するというのです。

 20節の「かの日」とありますのは、キリストの復活の約束のことでありますが、この復活のキリストは、見える姿では、短い期間弟子たちと共にいて、天に上られました。しかし、霊のキリストとして、今もわたしたちと共におられます。ヘブライ書で「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙13章8節)と言われ、マタイ福音書でも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節)と言われている通りです。

 地上で過ごされたキリストと昇天後のキリストを区別して、地上で過ごされたキリストを「わたしたちのため(プロメ)のキリスト」と言い、昇天後のキリストのことを「わたしたちの内なるキリスト」と呼んで区別する仕方があります。地上生活をされたときのキリストは、わたしたちを救うために、裁かれ、死ぬべき罪人であるわたしたちに代わって十字架につき、人間の救いの業を成し遂げてくださいました。「わたしたちに代わった、わたしたちのためのキリスト」であります。ところがそのキリストがよみがえったとき、「霊のキリスト」として、わたしたちの内に住んで、わたしたちを生かしてくださるのです。わたしたちはこの内に住むキリストの命をいただいて、命と愛に溢れて生きるものになるのです。これが「キリストがわたしの内でわたしを生かしている」状態であります。

 ヨハネ福音書の時代の教会の信徒たち、そして現代に生きるわたしたちは、肉眼でイエスを見ることはできませんけれども、眼にありありと見るが如くにイエス・キリストがわたしの内におり、わたしを赦し、救い、支えてくださる。そのような霊のはたらきがわたしの内面で起こる。父なる神と子なる救い主が深い愛の交わりの中にあるように、わたしたちも神との愛の交わりの中に入れられ、救い主イエスが父なる神から受けた愛を、神の内側だけに留めておくのではなく、神の外側にいる人間へと注ぎ出して下さいます。子なる神が仲立ちとなって、神の愛を人間のところまで届けてくださるのです。こうして父なる神と子なるキリストの間に循環していた愛が、神様とわたしたちの間にも循環するようになった。そして、さらにわたしたち人間同士も、互いに神の愛によって生き合うように導かれるのです。

 21節では、再び15節の主題でありましたイエスへの愛を極めて強調して語ります。イエスを愛するということは、、言い換えればイエス・キリストに罪赦され愛されていることを全人格をもって受け止め、信じるということ。この世はそれを認めないというのです。しかし、同時にイエスの愛を受け止め、したがって父なる神に結ばれる人はイエスのいましめを守る、つまり、他の人を愛するということが強調され、さらに他の人を愛する人にはイエスはその人に自らをあらわすというのです。ここでは神を愛し、イエス・キリストを愛するということが人を愛すると言うことと結びつけられています。ここでイエスは新しい律法をわたしたちに課しておられるのではありません。わたしたちは弱い者でなかなか人を愛することができない者です。神が愛であるという真理は神の側からの啓示によってのみわたしたちに示されるものであります。わたしたちがイエスの働きを通して神の人を生かす真実の愛を知り、その働きの中にある時、この真理の言葉に眼を開かれ、神の愛がわかり、わたしたちがその示された神の愛の交わりに入って初めて、神がそこで働いておられる力に与ることができるようになるということです。「その人にわたし自身を現す」と21節の最後に語られている言葉は、愛なるイエスとの交わりにわたしたちを入れてくださるという宣言です。わたしたちにとって父なる神を愛する、キリストなるイエスを愛するということは、端的にこのイエスの御言葉に聴き、従うことだ、ということになります。このイエスの御言葉を福音として素直に受け止め、イエスの愛の御言葉を頂き、人を愛し、人を赦す信仰の歩みを続けて参りたいと思います。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「イエスは道・真理・命である」ヨハネ14:1-14
2026.5.3 復活節第5主日 大宮陸孝牧師
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければだれも父のもとへ行くことができない」(ヨハネ14章6節)
 ヨハネ福音書13章までのところで最後の晩餐のお別れの場面が描かれて、18章ではイエスのゲッセマネでの逮捕が記され、その間に14章から16章まで3章にわたるイエスの決別の説教が記されています。17章はイエスの長いゲッセマネでの祈りが記されます。ここでの説教の形は今や十字架にかけられ、弟子たちから去って行かなければならないイエスが残して行く弟子たちに向けて語った形をとっていますが、ここでは十字架につけられ、そして甦ったイエス・キリストの言葉が生前のイエスの口を借りて語られていると見ることが出来ます。それで、ヨハネ福音書記者は、この別れの説教を自分の時代のキリスト者への、そしてさらにその時代の後の教会の信仰者への、結局は現代に生きるわたしたちへの、イエス・キリストの言葉として、語っていることになります。

 13章後半では、ユダの裏切りと新しい契約の告知の後にペトロの否認が予告されています。三六節の「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」というイエスの言葉は、ペトロがどうであるにしても、ペトロを導く方の憐れみの大きさを示している言葉であるのですが、しかし、ペトロは、「今はついて来ることはできない」というイエスの言葉を遮って、「なぜついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言いました。しかし、イエスは答えて言われます。「わたしのために命を捨てると言うのか」と。ヨハネ福音書はここで、十字架は真実な神の救いのわざであり、十字架の勝利は、父なる神と子なるイエスとの全き一致においての出来事であることを強調しておられるのです。31節〜32節でそのことを語っています。それですから、人が進んで苦しみを受けることでイエスの死に与(あずか)るのではないということ、イエスの死は神が起こされた救いの出来事として与えられるのであり、これを受けた者は新しい掟に従って終わりまで教会の信仰の戦いを生きるのであることを語っているのです。この意味で、この段落は、教会に向けて新しい生の形「互いに愛し合いなさい」を教えていることになります。

 14章1節〜3節 ここでは、事実イエスが逮捕され十字架につけられる直前、弟子たちの中に大きな不安と動揺があったであろうことが推測されます。しかし、それとは状況が全く異なる後のヨハネ福音書の時代のキリスト者にとってその迫害の時代の中で、イエス・キリストを目に見て、手でさわることができないのですから、そこで大きな不安と動揺が起こることは当然のことでありました。そこでヨハネは、イエスを通して「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言っているのです。聖書の信仰は「神を信じる」ということ、天地を創り、人と万物を創り、歴史を導き、わたしたちの人生を導き、正義と公正を保証し、生死を支配したもう唯一の神を信じ告白することであるというのですが、その信ずべき神を啓示しているのがすなわち、「わたし」であるのでありますから「わたしを信じなさい」と続けているわけです。イエスが去るにあたり、十字架の死において神と人に捨てられるとき、弟子たちの絶望感もまさに深まっている時に、「神を信じ、またわたしを信じなさい」とイエス自身がいう時、何が言われているのかといいますと、イエス・キリストを信じること以外に神を信じることは出来ないということが言われているのです。

 イエスに信頼し従うことの問題は最早弟子たちの自由な決断の範疇(はんちゅう)を超えていて、イエスご自身が「あなたたちをわたしのところにつれて行く」、という。そして「また戻って来て迎えよう」と語られています。ここは、出エジプトの時に、荒れ野で民を先導し、民と共に歩んだ火と雲による神の自己啓示と重ねられています。「この方こそ、あなたたちの先頭に道を進み、あなたたちのために宿営の場所を探し、夜は火、昼は雲によって行く手を示された方である」(申命記1章33節)。その火と雲に従っていくところで民は救いを与えられるように、「神から遣わされ」、「神のもとへ」先導するイエスの指し示す方向に、イエスに伴われて進む時に、救いへの道が示され、また、救いとしての道を歩むことができるというのです。

 5節 トマスはそれを聞いて驚いて、「どこへ、どの道を」と問い返します。トマスはどこだか分からないが、そこへ赴くにはどの道を、その道をどうして知ることが出来ようかと、肯定と否定の、イエスを信じるか否かということにも関わる二重の性格の問いを出して、イエスの次の重要な直接的なそのものずばりの答えを引き出して行きます。

 6節 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければだれも父のもとへ行くことができない」。「わたしは・・・である」は神の自己啓示の定式であり、人に決断を迫って来る表現であります。道をめぐる話の流れから、道に重点が置かれて、「神に到達する唯一の道は、わたしであり、それは真理の道であり、命の道である」と理解することが出来ます。「神の道」はイエスの十字架と復活によってのみ開かれた。道としてのイエスが啓示されるとき、人は自分の道を捨てることが求められる。「イエスを通らなければ」イエスを救い主と告白する道を選び取る決断をして通って行かなければ父なる神のみもとに備えられた家には行くことはできないと、イエスのみが神の国への道として、父のみもとへ導く者であることを明らかに告げ知らせているのです。

 7節〜11節 ここから父なる神を「知る」・「見る」対話に展開して行きます。この「知る」・「見る」と言う動詞は「信じる」と同議です。ここも「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」というイエスの言葉から始まり、そのイエスの言葉にフィリポが問います。「わたしたちに御父をお示しください」と、「父を知り、神を知る」ことを巡る対話に展開して行きます。ここで重要なのは、「あなたがたがわたしを知っているなら」という条件が付いていることです。知るということの内容は、イエスとの関係で使われています。ヨハネ福音書に出てくる「知る」ということばの全てがイエスとの関係で扱われているのです。つまりわたしたちが神を認識する唯一の方法はイエスを通してであるということを改めて確認していることになります。フィリポはいま目の前にいるイエスに師事しているのですから、父なる神のことが今すでに開き示されているのですが、それにもかかわらず、なお、「父を見せてください」と言っているのです。フィリポは信仰の眼を持ってイエスの啓示を見ることを飛び越えて、神を直接感覚的にその存在を見るように肉眼で見ることを望んでいるということなのでしょうか。

 そのようなフィリポにイエスは言われます。「他の何ものでもないこのわたしが、ただただ父なる神を啓示しようとしている者としてあなたに接して来たのだ。にもかかわらず、そのように理解されていなかったとすれば、あなたとわたしの交流はいったい何であったのか。ここでもう一度言おう、わたしを見た者は父を見たのだ。あなたがたはこのことを信じるか」。イエスが弟子たちとの出会いの中で提起していることは、このことを信じるか信じないかの決断を迫る核心的な問題であったのです。

 信仰の決断をイエスは次の10節の言葉で明確に語ります。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられるのだ」と父なる神と子であるイエスとは一体であることを語り、示し、さらに「子なるわたしがこの世で行うすべてにおいて、実は父なる神ご自身が働いておられるのだ。わたしの言葉は父なる神の言葉、わたしの働きは父なる神の働き」と明示されます。イエス自身が語り、また行っていることは、父なる神のご意志を語り、行い、成就しているということなのだというのです。

 そして11節でさらにもう一歩進めて、「わたしの言葉を信じなさい」と命じられます。神とイエスが一体であるように、イエスと弟子たちとの間も一体であることをイエス自身が心底から信じる故の、事実そうなのだとの確信に満ちた、弟子たちへの信仰的な決断への勧めを語られます。イエスの言葉と働きに神の意志が表されていること、そしてこの一体性は本質的にイエスと弟子たちとの結びつきへと展開されるというのです。

 12節〜14節 「アーメン、アーメン、わたしは言う。わたしを信じる者は、わたしの業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」とは、イエスの信仰に生きる弟子たちに対して、子であるイエスのこの世での働きを凌(しの)ぐ働きが約束されています。イエスの働きにおいて始まった父なる神の働きは、弟子たちの働きにおいて、一層その力を示すことになるとの約束です。それはこの世で福音の宣教が拡大するとか、より大きな奇跡的な働きを弟子たちがするようになるということではなく、弟子たちとそれに続く教会の群れの働き、人間的な尺度では計り知れない信仰によってしか見えない神の働きの進展が語られているのだということです。それは、イエスに祈り求め、助けを受けて、恵みにより喜んで神の愛の業と宣教に励むことを指しています。確かにこの世の歴史の中で、初代教会から始まり、現代の社会の中においても、神の大きな業が起こされ続けているのです。

 13節 「わたしの名によって願う」こととは、父のもとにある主イエスが、わたしたちの祈りの執り成し人であられること表しています。どんな場合でも、人となられた神のことばであるイエスを離れまた飛び越えて、人間が自己を確立して行くような自己中心の願いごとを神に対してして行くことの誤りを指摘する一方で、「もっと大きな業をおこなう」すなわち神に託された人間を救う働きを担い、それを行うために必要なこと、「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(15章7節)ということです。主イエスによって願う時、それを叶えてくださるのは、決してわたしたちの人間的な生活のニーズ(諸要求)を叶えてくださるというのではなく、父が子において栄光を受けるためだというのです。

 イエスの祈りの要請は残された者たちが世にあって証人の努めを果たすことができるようにと、「弁護者」を遣わすことを約束されたことと関連しています。これは広い意味で「助け主」と呼ばれる、聖霊の働きのことです。神の大きな働きは、この聖霊の力によらなければ果たすことは出来ません。「わたしが父のもとに行く」目的はこの「助け主」をわたしたちに送るためでありました。わたしたちにそれを祈り求めよと促しておられるのです。

 十字架を前にして、弟子たちが心を静め、神の救いの働きを理解して、救い主の働きを引き継ぐ者となるように命じておられ、さらに彼らに「助け主」を送る約束をしておられるのです。そしてイエスは今もわたしたちの前に立ち「わたしは道である」と、わたしたちが進むべき道を示していてくださり、それを進む力をあたえてくださるのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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