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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

今週の聖句バックナンバーweekly message

2019年バックナンバー(1)


「これが道だ、これに歩め」2019.1.20
「祈っておられると」2019.1.13
「喜びにあふれた」2019.1.6

*2018年7月〜12月の「今週の聖句」はこちらへ。

 これが道だ、これに歩め
2019.1.20
 神ア 伸 牧師
また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これが(は)道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。
(イザヤ書 第30章 21節/口語訳)
羊が水辺や牧草を求めるとき、かれらをそこへ導く羊飼いには、先頭に立って案内をするひとと、いちばん後ろを歩きながら、その場所を示していくひとがいる。右往左往して羊たちが迷ってしまわないように、ついて来られなくなってしまわないようにこころを配る。もし行き惑ってしまったなら、羊飼いは羊たちに「うしろからこう呼びかけるのだ」という。

これが道だ、これに歩め…!

そして呼びかけるその声こそ、わたしたちの主である神その方なんだ。このお方こそまことの羊飼い、牧者であられるんだ――。イザヤは全霊で伝えます。

なかなか自分で自分の後ろを見ることができない私どもは、夜、慣れない道を独り歩くときなど、後ろに何かがないか、誰かがいないかと、しばしば不安を覚えます。何よりも、わたしたちはそれぞれ人生の岐路において、神のみ心がいったい何であるのかわからずに悩み、苦しみ、ほんとうに…のたうつようにして、うめくことがあるのです。

けれどもそのとき、あっちだこっちだと指図をされるのではない。すでに決められたレールを無理に歩かされるのでもない。絶えず、少しだけ離れたうしろにいて、見守ってくださる方がいる。倒れ、崩れ落ちそうになるそのとき、うしろからみ手をもって支え、静かに、さやかに、励ましてくださるお方がおられる。

これが道だ、これに歩みなさい…!

皆さん…! 私どもがそれぞれに自分の十字架を担いつつ歩む道は、主イエスが先立ち行かれる道です。この主イエスの背中を見つめながら私どもは歩む――。きょう、ルカによる福音が「かれ(イエス)はかれの道を行った」(第4章30節/英訳聖書)というのは、そういうことだと、わたしは信じます。

そうです。主イエスこそ、「これがあなたの道だ、これに歩め…!」という神のみ声をその〈背中で〉聴き、受けとって、人びとの憤激(ふんげき)の間を、その真ん中を通り抜けて、歩みゆかれた(第4章28-30節)。そこにわたしの道、あなたの道を切り拓いてゆくために――。ご自分の十字架を通して、あなたに復活のいのちが始まるために…!

まさに「彼(主イエス)が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(イザヤ書第53章4節)。

私どもの病、このわたしの痛みを背負って歩み続ける神のみ子が、今日もわたしたちをゆるし、愛し、癒していてくださる恵みに驚き、ただただ胸を打たれます。主よ、ほんとうにありがとうございます。

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 祈っておられると
2019.1.13
 神ア 伸 牧師
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると・・・・・・・・・。
( ルカによる福音書第3章21節 )
〈主イエスの洗礼〉。わたしは思います。この福音書をいつも繰り返し聴き続けた、わたしたちの先達である教会の人びとが、きょうのところで何よりも喜びを見出した小さな、小さなことばがあるのだと。

洗礼をお受けになったそのとき、主は「祈っておられ」ました。そう、祈っておられた――。

ある説教者のことばを想い起こします。

このルカは、ほかの福音書にもまして、主イエスがこの世に出られての最初の仕事として〈祈りをなさった〉という恵みをはっきりと伝えている――。

ああ・・・ほんとうにそのとおりです! この福音書は、何と主イエスの祈りに満ち、溢れていることでしょう。どうか、皆さんそれぞれに想い起こしていただきたい。十二人の弟子たちを伝道の旅に遣わされたとき。あの山の上で主イエスのお姿が変わったとき。また弟子たちが「祈ることを教えてください」と願ったときも、それまでずっと主イエスは独り祈っておられた。最後の晩餐で、パンを取って裂き、ぶどうの実でつくった飲み物をお与えになるときも「感謝の祈りを唱えてから」なさった――。
そうです。皆さん! 主イエスは、いつも、祈りの中で、弟子たちを見ていてくださる。いつでも、祈りながら、私どもを、皆さん一人ひとりを、愛のまなざしの中に置き続けていてくださる…。主は祈るときに、独り言のようにして祈られたんじゃない。あるいは、ご自分のためだけに祈ったのでもない。どんなときでも、〈私どものために〉祈られた。〈あなたのために〉です。主イエスが祈られる。そのとき、いつでも皆さん一人ひとりの姿が、このお方のこころにはあるのです。

神がこのうえなく愛し抜かれている皆さん! 神の子イエスはいつも、いつでも、どんなときも、皆さんと共に、あなたの中におられます。このお方は、人びとに立ち交じって、人びとと共に、洗礼を受けられました。わたしたちとつながるために。すべての人がゆるされ、癒され、救われるために。ただひたすらに祈りながら――。

そのとき、主イエスのこころにあった祈りの言葉はこれであったと、わたしは信じます。

父よ、彼らをおゆるしください…!

わたしたちは、主イエスのこの祈りに支えられ、包まれるようにして、今日も生き、生かされてゆくのです。

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 喜びにあふれた
2019.1.6
神ア 伸 牧師
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
(マタイによる福音書第2章10節)
幼子イエスを拝むため、神の用意なさった星に導かれ、東の国から旅をしてきた博士たち――。かれらはどうしても、この旅をしなければなりませんでした。

この旅をしなければ、自分たちの人生には、決定的な欠けが生じることになる。その欠けを満たしていただかなければならない。そのためにどうしてもわれわれは、あの先立ちゆく星を追って、新しい王にお会いしなければならないんだ…!

そして、ついに主イエスに見(まみ)えたかれらはそこで何をしたか――。拝むべき方を、拝んだ。献げるべきものを、献げるべき方に、お献げしたのです。

そのことを成し終えると、まるですべてが満たされたかのように、また自分たちの国へと帰って行きました。苦労の多かった旅に比べれば、主と共に過ごした時はほんのわずかだったでしょう。でも、わたしは思う。ほんとうに喜びにあふれ、喜びに包まれての帰路だったに違いない。長い旅の途次で見てきた景色と、帰って行くときの景色が、どんなに違って(輝いて)見えたことだろう…! と。

わたしは信じます。この博士たちは、自分たちの存在そのものが、神に喜ばれているという幸いを知ったのだと。いいえ、この恵みを、からだの芯で体験したのだ…!と――。

わたしの愛する子よ。わたしはあなたを喜ぶ――。

やがて成長なさった主イエスが、洗礼を受けられたときに聞いた天からのみ声を、もうこのときすでに、目の前におられる幼子イエスのお姿を通して、かれらは全身で受け取っていたに違いない。神の喜びのなか、神ご自身がくださる祝福のなかに、これまでの自分の人生がまるごと引きずり込まれるような体験をしたのです。――わたしは、そう信じています。

そして、皆さんは、この博士たちと同じです。

神よ、あなたはその独り子をお与えになったほどに、この世を愛し抜いていてくださいます。主イエスを信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためにです。どうか今、新しい思いで、あなたの愛のご支配を信じさせてください。その愛のご支配の中に、私ども自身を、委ねきることができますように。

私どもは今、黄金も乳香も没薬も持って来てはおりません。あなたもそのようなものは、私どもにお求めになりません。ただ、私ども自身を、あなたのものとしてください。私どもの全存在が、あなたを拝むものと、なさしめてください。主のみ名によって祈り願います。

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