日本福音ルーテル賀茂川教会 |
苦しまれたからこそ 2018.12.30 神ア 伸 牧師 |
(主は)事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 (ヘブライ人への手紙第2章18節) |
クリスマスの次の主日の第二日課は、ヘブライ人への手紙第2章です。「血と肉を備えて」(14節)お生まれになり、家畜小屋の飼い葉おけで布にくるまれた主は(ある信仰者はこれを「おむつにくるまれて」と訳し、受けとめます!)罪を除けば私どもとまったく同じ存在として、この世に来てくださった――。 青年期に二度、両足の大手術をしたわたしは、足首から太ももの上まで石膏のギブスを巻かれ、術後の激痛とたたかいながら、生活のすべてに介助が必要だった時期がある。四六時中おむつをしていましたが、快いものではありません。特に年を重ねてからはなおさら辛く、避けたいものだと思います。小さな子どもだってそうでしょう。気持ちが悪くなれば、泣くのです。 そんな私どもが味わうのと同じ、ご生涯のスタートを切ってくださった主。ああ…何とありがたいことでしょう! その主が、やがて十字架にかけられ、叫びながら死んでいかれたとき――ある説教者は言います。 "わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのか…!"それはただ一度、十字架で叫ばれた祈りではない。ずぅっと主イエス・キリストのこころに、その祈りがあったのだ。生まれたときから――。 わたしは、この言葉を忘れません 主は、「天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられる」(16節)。もし天使を助けられるのであれば、もっと違ったご生涯の歩みをなさったに違いない。けれど、主イエスはアブラハムの子孫であるこの私どもを助けるためにこそ、来られたのです。 だから、おむつさえおつけになった。だから、お育ちになってのち、一人、またひとりとこの世の者たちを訪ねられたのです。そして、私どもをご覧になり、はらわたがよじれるような苦しみと痛む愛を味わわれたこのお方が、ついに死に勝利してくださった。試練を受けているわたしたちを、あなたを助け、闇の力から祝福のただ中へと取り戻してくださるために――。 主よ、闇が深く自らを押し包むと思うときにも、どうか、どうかあなたが歌を歌わせてください〈そうだ、主は強い。わたしが弱く恐れるとき、そこに愛の主、十字架とおよみがえりのイエス・キリストが共にいてくださるんだ。主が、わたしを愛していてくださる〉と――。 このページの先頭へ |
そのころ、マリアは出かけて 2018.12.24 神ア 伸 牧師 |
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 (ルカによる福音書 第1章39節) |
大きなところに、どっかりと落ち着かない、ということが、《愛》ということの本質ではないだろうか。そうだ…! 愛とは落ち着かないものだ。 ある牧師が書いておられる書物の中の1節です。 なるほど。聖書では、クリスマスの夜、みんな動いています。星も、博士も、羊飼いも、みんな動いています。ベツレヘムは、宿屋には泊まる場所さえないという、雑踏の中にありました。 それより9ヶ月前、天使からお告げを受けたマリアもまた、落ち着いてはいません。じっとしてはいません。座り込んでいません。 新たないのちが宿るからだのまますぐに立ち上がり、いつまでも、どこまでも続くような、ごつごつとした岩はだの多い山地。そこを大急ぎで、衣が裾にまといつくのを気にしながら、独り早足で親類のエリザベトに会うため何日もかけて長い道のりを進む――。 同じように天使からお告げを受けた、自分よりもずっと高齢のエリザベトを、マリアは放っておけなかったのです。矢も楯もたまらなかった。今の今まで長い間「主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守っていた」(第1章6節)エリザベトでしたが、人びとの冷たい視線、心ない中傷に耐え、どうにもならない苦しみを引きずってきたのです。マリアは3ヶ月の滞在中、寄り添い、話を聴き、慰め、あれこれ支えたに違いない。 ただエリザベトへの愛ゆえに! なぜなら、愛は落ち着かない。片時も落ち着くことがないから――。 詩編詩人は《大きなところに、どっしりと落ち着いたままではおられない》方。そのお方こそわたしたちの神なんだ、と告白します。(第113編4−6節)。この神が、マリアを立ち上がらせ、促し、進ませたのです。 わたしたちの神は、大きなところにどっかりと落ち着かない。ご自分を投げ打つようにして、低みへとくだって来られるんだ…。あなたのこころの深みに分け入って、不安を、孤独による闇を拭い、言葉にならないうめきを受けとめ、愛することを通して共に生きることを、神は選ばれた。神はあなたを決して放ってはおかれない。あなた自身を、神ご自身が生きる場所とされたんだ――。 身を危険にさらすような、いのちを削るような大冒険をして、世に降られた幼子、主イエス・キリスト――。 家畜小屋の飼い葉おけをゆりかごにして来てくださったこのお方こそ、あなたと共に生きる主です。 このページの先頭へ |
おめでとう、恵まれた方 2018.12.16 神ア 伸 牧師 |
おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。 (ルカによる福音書 第1章28節) |
マリアよ、なぜあなたはそんなに美しいのですか――。どうかわたしにも、その秘密を教えてもらえませんか。 アドヴェントに入ってから、きょうの「受胎告知」の場面を迎えるまでの間、わたしは、改めてこの問いに想いを巡らし続けてきました。 そして、わたしはなお、皆さんお一人おひとりに、こころから呼びかけたい。 皆さんもまた同じように、美しく、聖なる存在になることができる…! いいえ、今のあなたが、すでにそうであるのです、と――。 というのは、主イエスがある山の上で弟子たちにお語りになった言葉を、さやかに想い起こすからです。(マタイ第6章30節) よぅく見なさい…! 明日は誰かに踏まれてしまい、炉に投げ込まれてしまうかもしれない、あの野の草を。あなたはよぅく見なさい。神が、その草をいとおしみ、生かしてくださることを。美しく装っていてくださることを。あなたにはなおさらのことではないか――。 ここに、神が与えてくださる美しさの、したたかさというか、神さまの激しい、意地のようなものをわたしは受け取るのです。 おめでとう。あなたは恵まれた方。主があなたと共におられる。 一方的に天使からこう告げられた少女からしてみれば、ほんとうに厳しいことです。自分の人生にはまったく予期せぬことだったのですから。しかも当時の社会状況ではいのちの危険さえある中で出産に臨んだとき、マリアに与えられた場所は家畜小屋しかなく、幼子イエスはそのえさ箱をゆりかごとしたのです。 ここにあるのは、きらびやかな宮殿に住む者の美しさではありません。野の花、野の草、空の鳥にまで及ぶ神の愛のまなざし――。マリアもまた、その神のまなざしに捕らえられて、膝を屈めることができました。 マリアがしたことは、主イエスが「いま、わたしに抱かれているこの幼子のようになりなさい」と言われた、そのことではなかったかと思うのです。ただ、神の愛に抱きしめられるようにして、神の懐(ふところ)に飛び込むようにして、神のご支配の中に立ちました。そこに、あの草花のような、あの幼子のような、魅力ある美しさが輝いて来ると信じます。 主イエスのみ声が聞えますか。 わたしの愛するこどもたちよ…。あなたは何と美しいことか――。 このページの先頭へ |
主がお入り用なのです 2018.12.3 神ア 伸 牧師 |
主がお入り用なのです。 (ルカによる福音書 第19章33節) |
主が、お入り用なのです――。 きょうの言葉は、幾度聴いても向き合っても、わたしにとって常に、驚きであり福音です。 この場面、この出来事を合理的に説明して、なぜ子ろばだったのかを問うことよりも大事なことがある、と言うひとたちがいないわけではありませんが、それでも、わたしはただ驚き、感心するのです。 ああ…さすがイエスさまだ! 遣わされた弟子たちこそ、そうであったに違いありません。最初は緊張しながら、不安の中を村へと急いだでしょう。ところが主イエスのおっしゃったとおりに伝えたら、その言葉が通じました。 主が、お入り用なのです。このろばのほんとうの主人が、この小さなろばをこそ、必要としているのです。 実に不思議な言葉、驚くべき光景です。けれどもわたしは信じます。このふたりの弟子は、自分に委ね託されたその主の言葉が通じたときに、まさに、主のみことばの力を実感させられたに違いない…! と。 ここで、主イエスはわたしたちに向かって問われる。このろばのほんとうの主人は誰か。このろばのほんとうの王、その歩みを支え導く、愛の主は誰か――。 このろばは、自分のほんとうの主人である主イエスに召し出され、用いられて、今なお私どもの、記憶に残る存在となりました。イエスこそ王、ナザレのイエスこそわたしのほんとうの導き手――。 そして、このような不思議な経験を通して、不思議な仕方で、このろばを道々連れて行ったこのふたりの弟子は、自分の姿とこのろばの姿が重なってくるような思いを、きっと抱いたことでしょう。 ああそうだ、このろばのほんとうの主人はイエスさまだったんだ。このお方こそすべての者の、真実の導き手――。そしてわたしもまたこのお方を、王として迎えることをゆるされている。ほんとうにそうだ…! 主イエスは、わたしたちの王でいてくださる! 私どもに信仰をくださり、ご自身への賛美の歌声を与え、深い想いをもってそれを大切に受け入れていてくださる。たとえ消え入りそうな、おぼつかない声でもいい。声に出せなくてもいい。いや、それがいい。もしもあなたの賛美が止むようなことがあれば、代わりに石が歌い始めるだろう…! 私どもに信仰を起こし、その信仰が無くならないようにと祈り、賛美の声を与えてくださるのはただ、神のご意思、神のご決断に根ざします。この神のご決断に揺らぐところはない。主イエスは私どもの、愛の主人でいてくださる! その、恵みの事実の中に、今、しっかりと立たせていただきたいと、こころから願います。 このページの先頭へ |
呼び集める 2018.11.25 神ア 伸 牧師 |
そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。 (マルコによる福音書 第13章27節) |
教会の暦(こよみ)では、世に一ヶ月先立って、今週末、年の終わりを迎えます。12月2日からは、新たな年を迎えることになる。 いま、このときも、私どもが知り得るのはほんの一部だけだとは言え、暗いニュース、さまざまなことが起こっています。私どもの行く先には、いったい何があるのでしょうか――。ただ、わかっていることがひとつある。新しい年も、これまでとまったく同じように、この世界は、私どもは待っているのです。主イエス・キリストの光を! 闇を照らすまことの光、救い主が来てくださることを――。 きょうご一緒に聴いたマルコによる福音書第13章は、「小黙示録」と呼ばれ、私どものこころを揺り動かし、不安にするような出来事が、たくさん記されています。その真ん中で、主イエスは幾度も、こころを込めて私どもに語りかけてくださる。 あなたたちは気をつけて、しっかりと眼を開いて、ほんとうに見るべきものを見てほしい。ほんとうに聴くべき言葉に耳を傾けていてほしい。あなたがたを惑わし、脅すような光景や言葉は、わたしのものではないから。たとえ天地がいつか滅びても、わたしの言葉は決して滅びない…! どうか安心して、今日も、あなたのいのちを輝かせてほしい。わたしは、わたしと共にあなたが生きることを望む。あなたのいのち、あなたそのものを脅かし、傷つける出来事が目前に迫っているときは、とにかく逃げなさい。逃げて、逃げて、そして、いのちを繋いでほしい…! それがわたしの切なる願いなんだ。 あなたは、「どうか、わたしを脅かし、信仰を無くしてしまうような試みに遭わせないでください」と、消え入りそうな声でも、おぼつかなくてもいい。祈ってごらん。わたしが必ずあなたを守る。この世界を創られたのは神。人間ではない。この世界を司り、歴史を導くのは世の為政者ではない。あなたの主、愛の神であられるからだ――。 天地を創られた神は、あなたがた一人ひとりを、そのままに放ってはおかれない。安心しなさい。滅びが最期ではないのだ。決して滅ぶことのない、わたし主イエスの言葉を託して、あなたの小さな部屋へ、今日も天使(メッセンジャー)を遣わそう。 愛する皆さん! あなたを、新たなこの年も、神が探しておられます。あなたの、小さな、誰にも知られず怯える魂を、主イエスが探していてくださる――。主のやわらぎのなかに、新たな年を歩み始めましょう。 このページの先頭へ |
見ておられた 2018.11.18 神ア 伸 牧師 |
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。 (マルコによる福音書 第12章41節) |
主イエスは……見ておられた――。福音書記者マルコは、主イエスのまなざしに捕らえられたひとりです。その喜びを、感激を、この女性に重ね合わせるようにして、伝えているのだとわたしは信じます。 主イエスが見ていてくださる。ただ、じぃっと見ていてくださる――。この貧しい女性は、ほかの誰の目も気にしていません。そこで、そうっと、当時最小のレプトン銅貨二枚を献げた。私どもに置き替えればこれは十円か、五十円玉二つと言ってよいかもしれない。 財布を開ける。そこにあるのは生活費のすべて、最小の銅貨二つです。それをそっと献げる――。 そして主はおっしゃった。「はっきり言っておく……(このひとは)賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」 正直に申しますが、私であっても献金のときに、生活費すべてを入れてしまったことはただの一度もありません。主を愛すること、神を神とすることを第一にして生きたい、と願います。けれどもそれと同時に、隣りびとを愛することが求められるのです。まず、もっとも身近な存在に責任を持ち、養うことを放棄して、自分は神を愛すると言って毎日財布を空っぽにしていたら、神は決してお喜びにはならないでしょう。 けれども、与えられている今日、祈りをもって、自分が献げうるだけのものを神へと献げ、お返しする。それを主は喜んでいてくださる。しかも、十字架の直前です。主イエスは、ご自分のいのちを深く拡げて、いのちすべてを神のために、そして私どものために注ぎ込んだ、注ぎ込んでしまわれた。その、主イエスがいのちを献げる歩みと、重なる歩みをこの小さな女性がこっそりとした――。 わたしは、ある方がなさった次の祈りを、いつも忘れることがありません。 神さま、私は、今、献げ得るだけのものを献げました。どうか主よ、空(から)になった手を、あなたの恵みで満たしてください――。 私どももまた、主に向かってまっすぐ祈りたい。 私どもの主よ、自分に不十分さを覚えながらもしかし、これ以上のわたしではあり得ません。今、わたしの献げ得るだけのものを、あなたに献げます。そうして空になった手を、どうか、あなたの恵みで満たしてください。小さな者を見出し喜んでくださる主イエスよ。私どももそのまなざしの中に立ちつつ、従ってゆくことができますように。 このページの先頭へ |
あらゆる掟(おきて)のうちで 2018.11.11 神ア 伸 牧師 |
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 (マルコによる福音書第12章28節) |
神を愛しなさい。自分のように隣りびとを愛しなさい。 この主イエスの言葉に、胸を躍らせ、魂を打ち震わせるようにして、じっと耳を傾けているひとりの律法学者。そのひと言ひと言に深く揺さぶられたこのひとは、思わず声を上げました。 「そうです、あなたの言葉は美しい、見事その通りです!」(32節)。何と見事で美しいことか。この方の声をもっと聞きたい・・・!「先生、あらゆる掟のうちでいったいどれが第一でしょうか」。 主イエスはここで、第一と第二、とふたつお応えになりました。これはひとつのことなのだ、と。 神を愛するひとは、隣りびとを愛している。隣りびとを愛しているなら、神を愛している。 主イエスが「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃったのは、旧約聖書からの言葉でした(レビ記第19章18節)。ここですべてを記すことはできませんけれども、どうか皆さんそれぞれに、レビ記第19章の前後を、味わっていただきたいと願います。 そこでは、「〜〜してはならない」――あなたはもうそのようなことを、そのような生き方をしなくてもよいのだ――と神は続けて言われるのですが、その最後は必ず「わたしは主である」と締めくくられます。 ほかでもない、このわたしこそがあなたの主だ。きょうもあなたを愛し、生かし、導く、人生の主なのだ。だから、わたしが愛を注いでいるあなたと同じように、日々、出会ってゆく隣りびとを大切に敬い、愛してほしい。それがわたしの切なる願いなんだ・・・! まずはきょう一日でいい、ほかのことに気を散らすのではなく、ほんとうに、愛に集中して生きてみてほしい――。 主イエスが求められるのは、神の掟、隣人への愛の掟について分かるようになることではない。また客観的・理性的に聖書の言葉を解釈するということでも、少しは立派な人間になれということでも決してないのです。 あなたは愛に生きよ。きっと愛することができる…! 主なる神よ、繰り返し、何度でも、あなたの愛の光のなかに私どもを立たせてください。わたしの愛を求めている者がおります。どうかその一人を、受け容れることができますように。復活の光に照らされた十字架のキリストのみ前に、私どもを立たせてください。主の御名によって祈り、願います。 このページの先頭へ |
幸いである 2018.11.5 神ア 伸 牧師 |
心の貧しい人々は、幸いである。 (マタイによる福音書 第5章3節) |
主イエスは、弟子たちに、そしてわたしたちに向かって、まっさきに語り出されるのです。 あなたは、幸いだ。あなたは祝福されている。限りなく深く、高く、長く大きなわたしの祝福の中に今、生かされている。 貧しさの中を懸命に生きているあなたは、いつも、どこでも神さまが共にいてくださらなければ、何もできないかもしれない。しかし、そのようなあなたこそ幸いだ。 涙の意味を知っているあなたは、自分の人生の中に、またこの世界の中に悲しみを感じるこころがますます研ぎ澄まされてゆくだろう。しかし、そのようなあなたこそ幸いだ。 柔和にこころやわらかく生きているために、暴力に対して暴力を用いないと決心したあなたは、時にそうではない人びとによって、こころが踏みつけられることもあるだろう。しかし、そのようなあなたこそ幸いだ。 おめでとう。あなたこそ、今、わたしの祝福の中にある・・・! あなたが、生きていてくれることが嬉しい。あなたわたしにとって、かけがえのない愛の家族だ…。きょうも目覚めて、ここに来てくれたね。よかった…! そして、私たちは、この主イエスのお言葉を、自分自身に、またお互いに繰り返し告げ合うのです。 おめでとう…! わたしたちは幸いだね。主 イエスがわたしたちのところに来てくださったのだから――。 神は貧しさを望んでおられません。不条理な悲しみを決してそのままにはしておかれない。あなたを痛めつけ、傷つけるような暴力に対しては、断固として「否!」を突きつけ、あなたの盾となってくださるお方です。 だから神は、主イエス・キリストの口を通して宣言してくださっているのです。「貧しさが幸い」ではなく、わたしと共にある「貧しい者が幸い」なのだと。「悲しみが幸い」ではなく、わたしと共に「悲しむ者が幸い」なのだと。ただ無抵抗に何もしないでいる「柔和」が幸いなのではなく、その中できょうも懸命に立ち上がって生きている「柔和なあなた」こそが幸いなのだ! と――。 今日の全聖徒(召天者記念)主日、わたしたちに先立ち、このキリストの祝福の中を、このお方と共に歩み続けた先達(せんだつ)の足跡に、わたしたちが続くことができている幸いを感謝します。 このページの先頭へ |
上着を脱ぎ捨て 2018.10.28 神ア 伸 牧師 |
盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。 (マルコによる福音書第10章50-51節) |
主イエスに会っていただいたこのひと(バルティマイ)は、ほんとうに、ほんとうに嬉しかったのでしょう! 思わず肌身を守る上着を放り出して、裸のままで、躍り上がって主イエスのところへ走り、言います。 先生、いいえ、わたしの主よ、見えるようになりたいのです…! 主よ、あなたなら、必ずそのようにしてくださると、わたしは信じています! かれのこの、溢れてやまない、爆発するような、主に出会えた喜びが、皆さんにも伝わるでしょうか――。 ユダヤの人びと、信仰の民にとって〈上着〉とは、人間としての尊厳が保たれているしるしそのものでありました。当時の律法(神の言葉)には、もし、誰かの上着をやむをえず借りる場合であっても、必ず日没まで返さなければならない、とあるほどです。(出エジプト記第22章25節) 現代のように服をいくつも持っている、という時代ではありません。ただ一つの、肌を覆い、寝間着にもなる着物なしでは、眠るときくるまることもできません。寒さに凍えてしまう。 あのペトロでさえ、およみがえりの主に出会ったとき、湖畔におられる主のもとへと上着を着て水に飛び込みました。(ヨハネによる福音書第21章)ところが、主イエスに目を開いていただいたこのバルティマイは、呼ばれて上着を脱ぎ捨てた――。わたしは信じます。かれは、主ご自身を自らの上着としたのです! 「主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」(イザヤ書第61章10節)。かつての預言が、今、このとき、このバルティマイを通して成し遂げられた! 主が立ち止まって出会い、呼ばれ、語りかけられたこの出来事が、これからのちかれを守り、導き生かし、包む、救いの晴れ着となった。キリストご自身が救いそのものとなってくださった…! その奇跡が、今日、わたしに、あなたに起こります。 1517年、501年前の教会改革、ひとりの若き修道士は、重く、自らを縛る修道服を脱ぎ、修道院を後にしつつ、「主なる神こそわたしの砦(とりで)、わたしを守る強い盾」(教会讃美歌450番)と賛美し、こころを高くあげたのです。 どうか、わたしにとっての〈今日〉、あなたにとっての〈今日〉が、かけがえのない喜びの日となりますように。 このページの先頭へ |
慈しんで言われた 2018.10.21 神ア 伸 牧師 |
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。 (マルコによる福音書第10章21節) |
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」もとの聖書の文字ではこうです。「イエスは彼に眼差しを注ぎ、愛を抱かれた。」――そうです! 福音書記者マルコはここに、〈愛〉という言葉をハッキリと記した。この、金持ちのひとをじぃっと見つめたときに、主イエスご自身のなかに愛が燃えあがったのです! 主イエスが誰か特定の、一人ないし複数のひとを愛されたという表現が出てくるのは、十字架の差し迫る中、最後の晩餐を前にして、主は、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ第13章1節)のみ。それとまったく同じ愛がここで語られている。この金持ちのひと、そして直近の弟子たち、また、私どもをじぃっと見つめながら、主の眼差しの中に愛が燃えているのです…! そしておっしゃる。 あなたに欠けているものが一つある――。 そのお言葉を前に、悲しみながら肩を落として立ち去ったこのひとにとっての妨げは、財産でした。けれども、一所懸命、誠実に生きてきたのだと、私は思う。 私どももまたそうです。一所懸命に生きている。人からはもっと頑張れるはずだとか、もっとあそこはこうするべきだ…などと言われることがあるかもしれませんが、そんなこととっくのとうに分かり切っている。一所懸命、自分なりに生きているのです。その私どもの姿を、主イエスはじぃっと見つめていてくださいます。裁きではありません。愛を燃やしてくださる。そして、ひと言おっしゃいます。 あなたに欠けているものがひとつある…! 私どもに求められるただ一つのこと――。それは、どんなことをしてでも主イエスの後に従って行こう、主の愛の中に飛び込んでしまって生き切ろう、という決意です。もしも、その主イエスの愛の中に飛び込むことを妨げている豊かさが私どもにあるとするならば、お金だけじゃない。これは何であれみな財産です。 時に私どもは、自分の悲しみ、傷さえも財産として大切に持ち、手放さないでいることがあります。あるいは憎しみを、つまらぬ誇りをさえ財産として持ちます。 どうか、主イエスの愛の眼差しの中に、全身で、立たせてください。私どもを縛りつけ、こだわらせているさまざまなものを手放して、裸で主イエスの前に立ことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。 このページの先頭へ |
イエスに触れていただくために 2018.10.14 神ア 伸 牧師 |
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。 (マルコによる福音書 第10章13節) |
ある信仰の作家が、子どもであるということは手を差し出すことだ――。そう言っています。わたしは、「人びと」(おそらくおとな)に手をひかれて主のもとにやって来た子どもたちの姿を思い浮かべながら、目の前に情景が広がったのです。ああ…ここでの子どもたちは、まさしくそのような一人、ひとりなのだ…!と。 見なさい…! 神の国はまさにこのような者たちのものなのだ。そう主イエスはおっしゃる。 ただ一途に、信頼するお方に向かって手を差し出せばいい――。そのとき、私たちもまた「子どもである」のです。共に生き、わたしを受けとめてくださる方を求めて、手を、主イエスに向かって差し出す。それは、苦しい時の神頼みなどでは決してありません。わたしたちの生きる力そのものです。 ここで主イエスは、ハッキリとおっしゃいます。「神が、くびきにつないでくださったものを、人が離してはならない」(9節/直訳)。 農耕で働く牛やろばなどを互いにつなぐ「くびき」。この言葉からわたしたちは、どこか束縛された、不自由な生活を思い浮かべて、自由とはこのくびきをなくすことなんだ。そんなふうに考えるかもしれません。 しかし、主イエスが言われる自由とは、むしろ、わたしの人生のくびきを喜んで負えることにある! そうです、人間は、たとえどのような立場にあろうと、おとなであろうと子どもであろうと、結婚していようとしまいと、この地上で生きている限り、わたしたちは皆、くびきを負っているのです。 そして、くびきとは、自分以外の誰かと共に負うもの、共に生きる相手に、「手を差し出す」ことです。 もう一度申します。くびきとは、自分と誰かをつなぐもの、つながるものです。このわたしが「手を差し出すこと」です。誰かが共に負ってくれているから、つながっているから、そして、わたしのためにくびきを負ってくれる人がいるから、わたしはわたしでいられる! もしも、そのくびきを苦しみとするものがあるとすれば、それはくびき(重荷)そのものではなく、あなたの「心の頑なさなのだ」と主はおっしゃいます。 これらの言葉を語っているお方の、真のおこころに触れて、わたしたちは今日も平安のうちに休みたい。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ第11章28−30節) このページの先頭へ |
やめさせてはならない 2018.10.7 神ア 伸 牧師 |
イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」 (マルコによる福音書 第9章39節) |
わたしたちの中で、いちばん偉いのは誰か――。主イエスの背中で議論していた弟子たちが、主イエスにこう報告したところから、今日の出来事は始まります。 先生、お名前を使って悪霊を追い出している(まだあなたを信じていない)者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。(38節) ヨハネが言います。「わたしたちに従わないので」と。そこには、自分たちはすでにこのお方に従っているんだという優越感、したがって、そうではない者がイエスさまの名を勝手に使うなどけしからん、というような――自分たちと異なる存在・相手をのけ者にする思いが働いていたと、わたしは受けとめます。ほんとうに悲しく、愚かなことですが、わたしたちにも、このようなこころが働くときがあるのです。 主イエスはおっしゃいます。 やめさせてはならない。するままにさせておきなさい。かれらの人生を祝福し、救いへと導くのはあなたがたではない。このわたし、〈主イエス〉なのだから! あなたがたがやめさせることではないのだ――。 いったい、弟子たちは、主イエスの「どうかいちばん低いところで、小さくされた相手に仕える者として生きてほしい」という願いを、また、子どもをみ腕に抱き上げ、「わたしの名のためにこのような幼子のひとりを受け入れる者は、わたしを受け入れるのだ。」「あなたが出会う小さな一人、ひとりの顔の中に、わたしが映っていることを受け入れてほしい…!」と言われた主イエスの祈りを、どのように聴き、受けとめていたのでしょうか。 主は、ここで〈わたしの名〉と言われます。そうです!このお方のみ名は、いつも、いつでも、小さくされた者と結びついている! そして、わたしたちが「主イエス・キリストのみ名によって」と祈るとき――そのとき、わたしたち自身がまさに小さい者、このお方の助けがなければ一時も生きてはいけない幼子のような者とされるのだと、わたしは信じます。 わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は……。(37節) わたしの懐に、いま抱かれている子どもは、あなたたちだ。まさしくあなたなのだ――。そのように、わたしに抱かれ、導かれている一人、ひとりとして、今日も祈ってほしい。ただ、「主イエス・キリストのみ名によって」と…! このページの先頭へ |
いちばん先になりたい者は 2018.9.30 神ア 伸 牧師 |
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 (マルコによる福音書第9章35節) |
私どもはしばしば、人の前では一番前に立つことを嫌がります。しかしいったん人から離れると、こころの中では実は自分が一番になりたいと思っている。それなのに、人の前に行くと妙に遠慮してみせたりする。そういう私どもに、主イエスはおっしゃる。 あなたはそのように、こころの中であれこれ取引をするな…! わたしは、「誰も先頭に立つな」と言っているんじゃない。やはり誰かが先になり、責任を引き受けなければならないのだ――。 私どものなかにはさまざまな意味で、力を持っているひと、財産を持っているひとがいるでしょう。しかし、そういう一人ひとりはやはり大切なのです。一番前に立たなければならない。と同時に、財産や、ずば抜けた力など無くても、私ども一人、ひとりに神から与えられているタラント(賜物)が必ずあるのです! それをもって人の前に立つ、人をリードしていく――。そういうよさを皆、誰もが持っているのです。 けれどもしかし、その責任を持ちながらなお、〈仕える〉。ただひたすら目の前の相手に仕える。最も低いところに立つことが求められるのだ…! どうか、よぅく聞き、このとおりに生きていてほしい…! 主は、ご自身の背中で議論していた弟子たちを呼び寄せ、今、私ども一人ひとりへとお語りになる。 そして、カファルナウム(ペトロ)の家で――主はそこにいたひとりの子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げ、言われました。 あなたの周にいる一人ひとり、その一人ひとりの横に、わたしの顔がのぞいているのを見つけて欲しい…! 私どもの周りにも、小さな、自分に厄介をかける子どもたちがたくさんいます。年齢や立場にかかわらず、面倒なことばかり言う、子どもです。イヤなことばかりを言う、また自分の考えを邪魔するご近所の、それこそエプロンをつけた子どもたち。いつでもがみがみ自分を叱りつける、ひげを生やした子どもたち――。いくらでも、私たちの偉さを、私どもの行く道を阻むかのような一人ひとりが登場します。 その一人ひとりに仕えるために、その一人ひとりを解き放つために、十字架へと向かわれた主、イエス・キリストの祈りが、鼓動が、あなたに聞こえますか。 どうか、その一人ひとりを受け入れて欲しい。それがわたしを受け入れることなのだ…! どうか、わたしの顔を、町行く人びと、家のなかにいる一人ひとりの横に見出してほしい――。 このページの先頭へ |
それではあなたがたは 2018.9.23 神ア 伸 牧師 |
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 (マルコによる福音書 第8章29節) |
主は、問うておられます。 ほかの誰かではない。あなたがたはわたしを何者だと言うのか。どうか、わたしをキリストと呼んでほしい、あなたこそ救い主だと呼んで欲しい。そこにこそ、ほんとうにあなたが解き放たれる場所がある。この、異なる教え、このまったく異なる価値観の世界にあっても、はっきり目を覚まして生きて欲しい…! 今日のすぐ前(22-26節)には、主イエスがひとりの目の不自由であった人を癒された出来事が伝えられています。その人に主イエスは、一度だけではない。二度! み手を触れて、何でもはっきり見えるようにしてくださいました。それに続く今日の出来事です。 そうです、主イエスはここで、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねながら、私どもの目を開けてくださるのです! 見るべきものを見ることができるようにしてくださる。そして、このお方がほんとうの救い主であるということが「分かる」。それが、"はっきりと見えるようになる"ということです。 私たちが生きるこの時代は、信じること、望みを抱くこと、愛すること。そんなことは何の意味もない――。そうささやく声に満ちています。きょうの舞台のフィリポ・カイサリア地方の中心であった皇帝の神殿、パーンの神の神殿が、今もなお私たちを騙します。 そこに主イエスは一喝をなさる。 サタン、引き下がれ! あなたは神のことを思わず、人間のことばかりにこころが向いている。この世の声に、惑わされて、この世の声を、自分の声として幾度も繰り返すな。今の自分を見つめ、周りと比べて、自分は駄目な人間だ、自分は役に立たない、必要とされていない人間だ、自分は愚かな人間だ――。そんなふうにつぶやきながら、わたしを見失わないでほしい。 主が向き合ってくださり、ペトロの目、私たちの目を幾度も幾度も触りながら――告げてくださる。あなたはもう自分を、わたしイエス以外の何ものの秤によっても量らなくてよいのだ、と…! あなたの声を、主は聞きたがっておられます。 わたしをキリストと呼んで欲しい。あなたこそ救い主と呼んで欲しい。あなたのために、いのちを棄てたわたしの姿を、あなたと出会うために、死と墓を踏み砕き よみがえったわたしの姿を、決して見失うな! 見える者となってほしい…! このページの先頭へ |
すべて、すばらしい 2018.9.16 神ア 伸 牧師 |
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 (マルコによる福音書 第7章37節) |
わたしは、すばらしいと思います。主イエスのなさる奇跡はいつ も、人びとの賛美を呼び起こさずにはおかないのですから! しかも、この歌を歌っているのは、神に最初に選ばれたユダヤの、信仰の人びとではありません。ユダヤの人びとが神への賛美、主イエスへの賛美を歌う前に、かれらから見れば外国の、異なる神々を信じていた人びとが、ここではみんな声をあわせ、高らかに歌っている。神の子をたたえる歌を――。
そして、その舞台の真ん中にひとり連れ出された、「耳が閉じられ舌のもつれている人」(直訳)。私どもも、時に、言いたいこと、伝えたいことがじょうずに出てこないで、舌がもつれてしまうことがあります。ましてや"この方のなさったことはすべて、すばらしい"とは歌えないときがある。 あるいは、愛すべき隣りびととして与えられているもっとも身近な者がおり、学び舎や職場の仲間、同僚たちがいる。けれど、その一人ひとりに愛の言葉を語りたいと思っても、どうもうまくいかない。その人の言葉をちゃんと聞きたい。その人のほんとうに語ろうとしていることを聞きたいと思っても、耳が閉じられ聴くことができなくなるのです。そして、こころまで深く閉ざされてゆく――。 けれど、そのようにこころ閉ざされてしまっているわたしを、主イエスは放っておかれない! そして、このわたしよりもまず先に、あなたよりもまず先に、周りの者に歌を歌わせてくださるのです。 この方のなさったことはすべて、すばらしい…! 主イエスは歩くお方です。ただ、ひたすらに――(31節)。私どもは何か乗り物を使うとき、どこでもそれが通過点になり、しばしば目的地だけが目的になってしまう。しかし、主イエスは歩かれました。ひとりの人をも、見逃さないようにするためです。こころ冷たくなって、舌ももつれ、耳も閉じられてしまっている、そのひとりを見逃さないためです。そして、ご自身の息吹を感じられるほどすぐ前に立ち、祈ってくださる。 「エッファタ…!」あなたよ、開け――。そして、歌うことができるようにしてくださいます。 この方のなさったことはすべて、すばらしい…! あなたの前に、主イエスがおられる。あなたを通り過ぎないように、きょうも、主イエスは歩いてあなたを訪ねて来られます。 このページの先頭へ |
パン屑はいただきます 2018.9.9 神ア 伸 牧師 |
主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。 (マルコによる福音書 第7章28節) |
今日の出来事の真ん中にいるひとりの女性――主イエスとお会いするのは初めてでしたが、「食卓からこぼれ落ちたパンくず」を、このお方の前にひれ伏す前から、かの女はすでに拾い、いただいていたのだ…! そうわたしは信じます。 かの女が拾ったのは、あの五千人以上の人びとを満たし、なお十二のかごにあふれた、「残りのパンくず」でした! そのような食べ残しのパンが(第6章43節)この女性を立ち上がらせたのです。 一見するとくずのような、しかも、弟子たちには理解できなかった福音、恵みのかけらが(52節)、このひとを立ち上がらせた! そうです、ほんとうに小さな、かけらのようなみ言葉が私たちのこころをとらえ、動かし、立ち上がらせる。くずもまたパン、まったく同じ福音、恵みであるからです! 主は、このとき「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられ」ました(24節)。自分には刻一刻と、時が迫っている。今は喧騒を避け、静かに父なる神と祈りをもって語り、対話したい――。だから主は、かの女だけではない、ここですべての人を退け、関わりを拒もうとされたのだと、わたしは思います。 そして、神のみ子であるイエスは、十字架を目前にして独り、切にこう祈られました。 アッバ、父よ…あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、みこころに適うことが行われますように――。(第14章36節) そうなのです! このとき、ここでは、まさに主イエスご自身がこの女性なのです!「父よ、どうかこの苦しみを取りのけてください…! どうか…」と祈り続けながらしかし、現実には神の「否!」である十字架の死への道を、進まれることとなった主――。だから、このお方だけが、ただこのお方だけが、真実にこの女性の立場に立つことがおできになる! わたしには、そのように福音がぐいぐいと迫ってきます。 私たちとほんとうに真剣に、火花散るような激しさをもって向き合ってくださるのは、私たちを一人も置き去りにすることなく、すべてのいのちを救うために、ご自身のいのちを尽くして「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしたちをお見捨てになったのですか。どうか、お見捨てにならないでください…!」と叫ばれたお方です。 私たちに、わたしに、あなたに、今日も恵みのかけら、福音のパンくずを確かに手渡してくださるのは、およみがえりになった主、イエス・キリストであるのです。 このページの先頭へ |
人の中から出て来るものが 2018.9.2 神ア 伸 牧師 |
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。 (マルコによる福音書 第7章15節) |
今日、主イエス・キリストのほんとうに厳しい、しかし愛に満ちたお言葉を前にして――わたしには次の詩編詩人の祈りが、まさに自分のこととして、圧倒的な迫力をもって迫ってきます。 神よ、わたしはあなたに向かってよい言葉、明るい言葉を語り、何よりも神よ、あなたを賛美したいのです。だから、そういう清いこころを、あなたがわたしの内につくり出してください。そして、あなたがわたしのこの唇を開いてください…! (詩編第51編12、17節) そして、この詩人は、かたく信じているのです。 もし、わたしが自分の中に明るいこころが見出せなくなるときがあり、また、どうも自分の遠くで物事が語られ、関係ないところで多くの出来事が起こっているように思えて苦しむときがあったとしても、神が、必ずこのわたしに清いこころを造ってくださる、と――。 そうです、皆さん! 今日、このわたしにも、あなたにも、神は必ず賛美するこころをくださり、明るい言葉を語れるようにしてくださいます。 私たちは時に、「こころにもないことを言ってしまった…」と後悔し、あるいは決して本意ではないのだけれども、結果として相手を傷つけてしまい「あれは本心ではなかった」と謝ることがあります。けれども、主イエスの眼差しから見れば、私たちはこころに無いことを語るのではない。こころにあることが溢れ出てそれが外に出てくるのだ、とおっしゃるのです。 言葉というのは、ほんとうに重いものです。私たちは、言葉ひとつで相手を悲しませ、傷つけてしまうこともあれば、同じ言葉で相手を生かし、励ます、いのちのことばを口にすることができるのです! 主イエスは、私たちのことを、ほんとうに心配していてくださいます。時に、あまり考えずにいろんなことを語ってしまう私たちを、ほんとうに心配していてくださる。そして私たちに、ことばの重さを教えてくださるのです。私たちを深く深く、心配しながら――。 だから私たちは祈るのです。 主よ、どうかよい言葉を語り、人にいのちを与え、あなたをほめ歌う唇を開いてください。口癖になった暗い言葉を、脱ぎ捨てさせてください。人を喜ばせることがなく、自分さえも悲しませる言葉があるとすれば、あなたが滅ぼしてください。いのちの言葉を運ぶ者とさせてください。あなたを仰ぎ、あなたによって変えられて、歩み続けて行くことができますように。 このページの先頭へ |
漕ぎ悩んでいるのを見て 2018.8.26 神ア 伸 牧師 |
(イエスは)逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。 (マルコによる福音書 第6章48節) |
パンと魚の奇跡ののち、刻一刻と闇が深まり濃くなってゆく中、主イエスはひとり山の上からまた陸地から、逆風のために漕ぎ悩み、進みあぐねる弟子たちを見つめておられました(48節)。ただ漠然とご覧になっていたのではありません。そうではなく、ご自身の祈りの中で、弟子たちを見ておられたのです! そうです、主は、ずっと祈っておられた。かれら一人ひとりのために――。 私どもの人生、現実の生身の生活には、時に向かい風が吹き、一所懸命やっているのにすべてが裏目に出るようなこと、うまく行かないと感じて悩み、苦しむことがあります。そのとき、今日の弟子たちのようにすぐそばで頼るべき主イエスがおられないなら、また「強いて」このお方と引き離さてしまったように感じているなら、ほんとうに心細いことでしょう。目に映るのは、ただただ漆黒の闇しかない。そんなただ中ですから、自分たちの方へと向かって来る主イエスを見て、「幽霊だ…!」と叫んでしまった弟子たちの思いも、わたしにはうなずけるような気がするのです。 けれど、み言葉は今日、声高らかにわたしたちに告げます。 安心しなさい…! 主イエスはあなたを見ておられる。このお方の祈りのまなざしの中に、あなたは確かに置かれ、包まれてあるのだ。それが、私たちの主、イエス・キリストの祈りなのだ――。 そうです、皆さん! いつも、いつでも、どんなときも、私ども一人ひとりは、この主イエスの祈りの中にあるのです。 いつまで経っても明けることのない夜だと感じ、闇の中で、こころは萎えきり、恐怖に駆られることがあります。けれど、どうか信じていただきたい。もし、そのときわたしの目には主イエスのお姿が見えなくても、主イエスのまなざしの中にはしっかりとあなたがいることを! たとえ、そのときには主イエスが自分のそばを通り過ぎて行かれるように思えたとしても、あなたは、このわたしは絶えず主イエスの祈りのまなざしの中にあり、祝福され、愛され、守られていることを―― 主イエスは私どもの、あなたの怖れを決して放ってはおかれません。怖れる者の舟へと乗り込まれます。主が私たちの、あなたの人生へと乗り込まれるとき、波は必ず静まります。 安心しなさい。わたしだ…! 恐れることはない――。 このページの先頭へ |
深く憐 このページの先頭へれみ 2018.8.19 神ア 伸 牧師 |
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 (マルコによる福音書 第6章34節) |
「深く憐れみ」。この小さな文字は、福音書において、主イエスのおこころを表すときにだけ用いられる、特別な文字なのです。 私どもも、ほんとうに辛いとき、心臓の鼓動が速まったり、消化器の弱い方はそれこそ胃がキューっと絞られるようになったりと、さまざまな痛みが、弱い部分に出てくることがあるかもしれない。あるいは、そういう辛さの中にある友を前にして、何とか寄り添いたい、少しでも共感したい、と願います。 わたしは今日、ここで、ルカによる福音書が伝える「善いサマリア人」の物語を鮮やかに想い起こします。追はぎに襲われ、息も絶え絶えになっている人の傍らへ駆け寄り、抱き寄せ「憐れに思った」あのサマリア人の姿を…! そしてキリストの教会が、このサマリア人こそ主イエスご自身である、と聴き取り告白し続けてきた歴史を――。打ちひしがれて倒れ、自分の居場所を求めて迷い出ている者の痛みをほんとうにお感じになることができるのは主イエスのほかにないのだ…! と。 私どもは、どれほど懸命に努めても、目の前にある相手の痛みをそのままに、充分に受けとめきることができません。やがて疲れ切ってきょうの弟子たちのように「群衆を解散させてください」「もう帰ってもらって、自分たちのことは自分たちでやらせればよいでしょう」「主よ、何を言われるのですか。わたしたちがかれらを養うのですか!? この大群衆をいったいどうやって…」と言いたくなる。 しかし私どもの主は、深く、限りなく深く――憐れんでくださった…。この日、主イエスが奇跡をもって用意くださったこの糧(かて)を頂いても、人びとはまたすぐにお腹が空くでしょう。一食でなくなってしまう。けれどもこのお方は、その小さな一食のために、大きな愛の奇跡を起こしてくださった。 私どもの毎日というのは、小さなことの繰り返しや積み重ねによって、過ぎて行きます。そうそう大きなことが起こるわけではない。けれども、そのような小さな、ほんとうに小さな生活の断片を、主は、ご自分のまなざしに収めていてくださる。私どもの、平凡で淡々とした毎日を、主は、大きな奇跡をもって支えようとしていてくださる。 私どもを養うために来てくださった、主イエスを仰ぎます。主のいのちを頂きながら、歩んで行くことができますように。今日の終わりに、私どもが眠るときも、どうかあなたが私どもを養ってください。主イエス・キリストによって、お願いいたします。 このページの先頭へ |
十二人を呼び寄せ 2018.8.12 神ア 伸 牧師 |
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。 (マルコによる福音書 第6章6−7節) |
旧約の時代、ヤコブの息子たち十二人をリーダーとするイスラエル十二部族から、神の民の働きが始まりました(創世記)。 そして、いま、主イエスは、わずか十二人から、新しい神の民をもう一度つくろうとしておられるのです! いま、私どもに、主は語り出される。 これは昔話じゃない。あなたの物語だ…! あなたたちもこの十二人と同じように、わたしによってこの世へと遣わされているのだ――。 この直前に、主イエスご自身は、故郷のナザレで受け入れられないという挫折を味わわれたばかりでした。しかし、ナザレがダメなら、主は、付近の村を巡り歩く。それだけじゃない。何とか神の喜び、よき知らせを伝えようと、小さなキリストとして、十二人を、この付近の村々に遣わすのです。たとえ、どれほど主の言葉に耳を傾けない人びとがあっても、あきらめない。この村々を愛しておられるからです。そして、この日本に対しても、主は決してあきらめない。 帰って来い…!まことの喜びのもとに帰って来い! 主は、私どもを遣わして呼びかけ続けられる。 しかも、このとき主に選ばれたひとたちは、信仰者として、何も立派な人間ではありませんでした。ペトロなどは、実に厳しく叱られています(第8章33節)。十二人だれ一人として主イエスのことをほんとうには理解していない。主イエスに遣わされながらなお、自分の中に不信仰を抱えているのです。 しかしそれでも、語り続けるのです。主イエスの言葉をそのまま真似してみる。主イエスがお語りになった言葉をそのまま、自分の口に繰り返してみるのです。 自分もまた、ほんとうには信じ切れていないかもしれないと、不安を持ちながら語る言葉をも、神が裏打ちしてくださる! 神ご自身がその言葉は、真実だと裏打ちしてくださるのです。十二人は語りながら、「ああ、主イエスの言葉はほんとうだった…!」そのことを幾度も経験しながら旅を続けたに違いない。 私どもも、信仰の旅人として年を重ね、悲しみを味わうにつれ、苦しみを味わうにつれ、人生の課題を与えられるにつれ、「ああ…ほんとうだった」と言えるようになるのです。み言葉のほうが、それがどれほど真実なものであるかを証ししてくださる。 そして、いつの日か、天に召されて主のみ前に立つときに、私どもは報告するのです。 ああ…わたしの主、わたしの神よ、あなたのおっしゃったお言葉は、すべてほんとうでした…! このページの先頭へ |
驚いて言った 2018.8.5 神ア 伸 牧師 |
多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 (マルコによる福音書第6章2節) |
今日の決して長くない箇所には、大きな驚きが満ちています。人びとの驚きと、それだけではない。主イエスご自身も「人々の不信仰に驚かれた」と。(6節a) この人は、幼いころから我々がよく知っている、あの大工ではないか。我々は、そのきょうだいと姉妹、父や母のこともよぅく知っているのだ。いったい、このイエスは何を言っているのか…!? そう言って、誰もこのお方を信じようとしない――。けれど、村人たちは最初から主イエスにつまずいたのではありません。安息日の会堂で、ほんとうにこころ打つ説教がなされたのです。驚くような奇跡が行われたのです。 ああ…! この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何なのだろう!? それに驚き、感動するこころは皆、持っていた。けれども「それが信仰にはなっていない」と主イエスはおっしゃる。 ナザレの村の人びとがどうして、不信仰しかなかったのか。説教を聴いて感動します。奇跡を見て驚きます。しかしこのお方に向かって、「あの大工」とか「マリアの息子」と呼ぶことはできても、「神の子イエス」と、信仰を告白することができなかった――。 この出来事を通して、わたしは、自分自身が主から厳しく問われている、と受けとめます。 あなたはいつも、わたしの言葉に聴いているね。そこで、あるときは感動して涙を流し、あるときはわたしが行うさまざまなみ業に、驚き喜んでいることを、わたしはよく知っているよ。けれども、その先で、あなたは、ほんとうにわたしの前にひざまずいているか? わたしの十字架の前で、告白しているか? あの百人隊長のように――。 ほんとうにこのひとは神の子だった。(第15章39節) 主イエス・キリストの十字架の前で、ぬかずいて、跪いて、ただ、胸打たれながら、 ほんとうにこのお方は神の子だった――。 そう告白した百人隊長に、私どもが続くことを、主イエスは望み、求めておられるのだと信じます。「ここにこそ信仰の姿があるのだ…!」と。 主よ、どうか、あなたの前にひざまずかせてください。自分が知っていることに留まることなく、今、目の前にいてくださるあなたを、あるがままに見ることができますように。それゆえにまた、あなたが愛し、生かしておられる一人、ひとりを真実に敬うことができるよう、助けてください。どうか、私どもを清め、あなたを受け入れる器としてください。 このページの先頭へ |
わたしの服に触れたのはだれか 2018.7.29 神ア 伸 牧師 |
イエスは………群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 (マルコによる福音書第5章30節) |
「あなたが触れてくださったなら娘は生きるでしょう」と懇願し、主と共に愛娘のもとへ向かう会堂長ヤイロ。「この方の衣にでも触れられれば癒される」と群衆の中から求める、長く病にあった女性。主イエスの周りでさまざまに交差する人間の姿が、あるがままに伝えられています。 皆さん、主イエスは、ご自身を求めてすがる一人ひとりを、つまり私どもを、決しておろそかにはなさいません! どうか娘に手当てを…とひれ伏すヤイロ。治癒を望んで全財産を使い果たし、もはや空の手で群衆に紛れる女性――。主は、"あなたはちょっと待っていなさい。今はこちらの番だ"などと言われることは決してないのです。このお方は、一人ひとりのもとに足を止め、まなざしを注ぎ、ゆっくりゆっくりと歩んでくださる。私ども一人ひとりを、同じひとつの仕方で、大きないのちへと包み込んでくださる。 この女性もそうです。主イエスがどのようなお方であるのかも、癒しの確信もまだハッキリしないままだったでしょうけれど"せめて、少しでもみ衣に触ることができれば…"と、群衆の中からそっと手だけを伸ばすのです。すると、 いったいだれがわたしに触ったのか。わたしから癒しの力を、受け取った者は誰か――。 主イエスは急にぱったり足を止め、周りを忙しなく見回し出す。弟子たちの言葉もよそに、だれだ、あなたか。いや、あなたか? それともあなたなのか…!? そうです! 主イエスが、この女性を、そして、今、私どもを捜してくださるのです! 私どもは、時に主イエスがどこにおられるのか、わからなくなることがあるかもしれない。主イエスのお姿を見失ってしまうことがあるかもしれない。だから、だからこそ! 触れるか触れないかわからない中であっても、ただ懸命に、手を伸ばすのです。主イエスの後ろから―― その私どもの精いっぱいの想い、願い、生々しいうめきを捕まえて、主は、"あなたの信仰"と呼んでくださる…! 何とありがたいことでしょう。 あなたの信仰があなたを救った。平和の中を、歩みなさい。悲しみの中、苦しみの中ではない。わたしがあなたを捜している。そこにまことの平和がある。安心して、生きなさい――。 主よ、私どもが、あなたを探すより前に、あなたが、私どもを捜していてくださいますことを、感謝を致します。どうか、あなたに捜し求められながら生きる人生の喜びを味わいながら、日々を過ごしていくことができますように。 このページの先頭へ |
静まれ 2018.7.22 神ア 伸 牧師 |
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。(マルコによる福音書第4章39節) |
さあ、向こう岸に渡ろう――(35節) 主イエスは今朝、弟子たち、そして私たちを、新しい冒険の旅へと誘われます。旅を続けよう。さあ、わたしと一緒に新しい場所へ行こう…! その主のみ声をこころに置いて私どもは、このお方と共に奉仕の旅、愛の旅へと舟出をするのです。 弟子たちにとっては、漁師という熟練の舟乗りとしての、いつもの舟出だったでしょう。しかし、激しい突風と波をかぶるほどの事態に、眠っておられる主イエスを起こしてまでも窮状を訴えます。 先生、私たちが溺れても構わないのですか…!? ようやく起きあがった主イエスは、一喝をなさる。 黙れ! 静まれ…! 風に向かって、また湖を叱ったとあります。けれども弟子たちにとっては、自分たちが叱られたように感じたに違いないとわたしは思う。主は、ここで私どもの、ご自身に対する信頼を問うておられます。 なぜ怖がるのか――。わたしが今、ここで一緒にいるではないか。あなたのすぐ傍らで眠っているではないか。まだ信じないのか。わたしが、あなたを贖ったことを。そして、わたしがあなたに信頼し、安心して事を委ね、あなたを今、用いていることを。わたしがあなたを誰よりも愛していることを、まだ信じられないのか――。 主イエスは、舟の中におられます。あなたの舟の中、わたしの舟の中で寝ておられる。だから、わたしはわたしで、ほかの何とも、誰とも比べることなく、なすべきわざを、コツコツとなしてゆけばよい。今しばらく、悲しみが続くかもしれません。苦しみも続くかもしれない。しかし、眠っておられる主イエスのすぐ傍らで、私どもはそれぞれ、自らの舟を、きょうも漕ぎ続けるのです。 主なる神よ、私どもの日々に、あなたが、み子イエス・キリストをお与えくださっていることを、感謝を致します。どうぞ、み子がいてくださるのですから、わたしはどのような波にも溺れることがないと、信頼させてください。主イエスが眠って、すぐ傍にいてくださることに、私どもが目覚めて、気づき続けてゆくことができますように。 主よ、あなたがお望みならば、今しばらく私どもの傍らでお休みください。しかしどうか主よ、私どもに耐えきれない試練を、お与えにならないでください。 このページの先頭へ |
夜昼、寝起きしているうちに 2018.7.15 神ア 伸 牧師 |
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
(マルコによる福音書第4章26、27節) |
夜昼、寝起きしているうちに――。これは当時の、そして今でも、ユダヤの人びとの一日は日没・夜から始まるのです。日が沈むと新しい日が始まる――。不思議な気がします。私どもの感覚では、一日は朝に始まり、そして夜、終わると思っている。けれどもユダヤの人びとは夜、眠るときに、 "さあ、これから一日が始まる…寝るぞ!"と言って眠るという。 私どもはなかなかそうはいきません。今日も一日何もできなかったと思いながら、寝つけないことが時にあるでしょう。あるいは、あれこれと気になること、やり残したことがあるような気がして、落ち着かない。また、眠っている時間というのは非生産的で、無意味な時だと感じてしまうことがあるかもしれない。 けれども、主イエスがきょう、おっしゃっているのは違う。夜昼、寝起き――。まず眠るのです。そして、眠っている間に、種が芽を出す。眠っている間に、根は茎となり、穂となり、そして豊かな実ができる――。安心して眠ったらいいのです。私どもが眠っている間に、必ず!種は芽を出すのです。私どもは、100パーセント自分で働き続ける必要はありません。ことをなしてくださるのは、神だからです! その神に身をゆだねて、ゆっくり眠ったらいい。 預言者イザヤは、その神のみこころを、こう伝えました。(第55章10、11節) 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。 雨も雪も、天から降るときに必ずその役割を果たすのです。神の言葉もそう。神の言葉は虚しくご自身のもとへと戻ることはない。必ず私どもの中で、あなたの内で出来事を起こし、何かを始めてくださいます。何ごとかをし続けていてくださる。 主よ、どうか私どもの内に、あなたに信頼するこころを育み続けてください。しばしばかたくなになり、やわらかさを失ってしまう私どものこころの中から、主よ、あなたに信頼するこころを、呼び覚ましてください。主イエス・キリストによって、お願いいたします。 このページの先頭へ |
イエスが家に帰られると 2018.7.8 神ア 伸 牧師 |
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 (マルコによる福音書第3章20節) |
主イエスは、私たちに"家"についてお語りになります。きょうのところには"家"という言葉がたくさん出てくる。 神の国、神の愛によるご支配が近づいた…! さあ、わたしのもとへ帰っていらっしゃい――。 そうです。初めに、こう私たちを招かれた主イエスが(第1章15節)今、私たちになさろうとしていることがある。それは、愛そのものである神が中心におられる家、神の恵みに満ちた新しい家を、私たちの中に、ご自身とともに築こうとしておられるのです! 都エルサレムから下って来た律法学者たちは、その主イエスをけなし、悪しき噂をしました。「あの男は家を支配する者。人のこころの家、こころの平和を乱し、支配してしまう者(ベルゼブル)だ」と――。 それに応えて、主イエスはユーモアあるたとえをお語りになった。ここで主はご自分を強盗にたとえておられる(23-27節)。 どうかよく聞いてほしい。たとえ、どんなにあなたのこころの平和を乱す者であっても、その者たちですら身内で争うことなどしない。一致団結してやって来るだろう。その者たちを神のみ手によって追い出しているわたしが、どうしてベルゼブルなどであるだろうか。まず、家の真ん中にいる、あなたのこころの平和を力で乱すものを働けなくするために、外からまことの、真実の支配者がやって来なければならない。そしてその家を、真実の家として、愛によって取り戻す者がやって来なければならない。それがわたしなんだ…! そのようにして、あなたの家に、こころに、主イエスが入って来られます。愛の強盗として――。主イエスはまず、食卓に我がもの顔で座っているあなたの不安を、迷いを、痛み苦しみを捕まえ、動けなくする。そしてもう一度、あなたを愛のご支配のもとに、神の許へ取り戻しに来てくださった。 そのためにこそわたしは来た…! まことの安らぎを、休息を、赦しを、家の中に、私たちの生活の真ん中にもたらすために、主イエスご自身が、食卓の真ん中に主人として、愛の主として座るために来てくださった――。 たとえ私どもがどんな罪を犯しても、何をしても、もしかしたら自分の良心さえもゆるすことができないとしても、主イエスは赦してくださる。くつろぎの家に迎えてくださいます。 どうか主よ、私たちのこころの家に来てください。どうか主よ、私たちの家を愛によって満たしてください。私たちの教会を、赦しの家とし続けてくださいますように。主イエス・キリストによってお願いいたします。 このページの先頭へ |
手を伸ばしなさい 2018.7.1 神ア 伸 牧師 |
そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 (マルコによる福音書第3章5節) |
神は、いのちをお望みになるお方です。その神のみこころを、主イエスはもちろん、聖書の専門家・リーダーであるファリサイ派もよく弁えていました。神はあなたが生きることを欲したもうお方である!と。 ただし、今いのちが脅かされているのでないなら、安息日の明けるのを待ってから癒したらよい。それが律法の定めでした。 これはわたし自身のこととして申しますが、ある身体的ハンディ、多少の不便があっても、それを補うことを経験的に覚えます。このひとも、そうであったかもしれません。生活に不便はあっても、それをひっくるめて神がお創りくださった作品として、日々を歩むのです。まして緊急なことでなければ主イエスもまた、 よく来たね…。けれど、日が暮れたらもう一度わたしのところへいらっしゃい。礼拝が終わり、安息日が明けたらわたしが癒してあげよう。――そうおっしゃることもできた。しかし、主イエスはここで、 真ん中に立ちなさい…! 手を伸ばしなさい――。 このひとは、礼拝堂の後ろの方に座っていたのでしょうか。ともかく、人びとからいちばん見えるところに引きずり出しておしまいになるのです。 そうして癒されると、皆で喜び祝宴が開かれた…のではなく、民のリーダーたちは、主イエスを殺そうとすぐさま相談を始める。何ということでしょう!(6節) 安息日に癒すことが善いか、悪いか――。そのことを自分の正しさを物差しとして問うているとき、身体に痛みを負って、そのためにこころまでもしかしたら傷んでいるかもしれない相手が、すぐそばいることに気づかなくなるのです。安息の礼拝に集っている者たち自身が、すでにこころを失っている。頑なになり、裁きのこころを抱え続けている。 その私どもを、主はじぃと見回し、おっしゃいます。 真ん中に立ちなさい…! わたしの前に来なさい。手を伸ばしてごらんなさい。あなたが、手を伸ばすことができるように、わたしは、あなたのかたくななこころを解きほぐし、覆う。冷たくなってしまっているこころに、わたしのいのちを注ぎ込もう…! 主よ、あなたのお顔さえも、私どもの好みに変えてしまおうとする、私どもの罪を、どうか赦してください。今、愛ゆえに怒り、ふかく悲しんでおられるあなたの前に、跪きます。主よ、どうか、私どもをあわれんでください。こころを伸びやかにし、解き放ってください。 このページの先頭へ |