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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

夕礼拝のメッセージ 「ペトロの手紙T」より
petorono
petoronotegami  今週の聖句バックナンバー
weekly message

2017年9月〜

「この恵みに踏みとどまりなさい」2019.3.3
「キリストの受難の証人」2019.1.6
「キリストの苦しみに」2018.12.3
「愛し合いなさい」2018.11.4
「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから」2018.10.7
「捕らわれていた霊たちのところに行って」2018.9.2
「幸せな日々を過ごしたい人は」2018.8.5
「尊敬しなさい」2018.7.1
「柔和でしとやかな気立て」2018.6.3
「ののしり返さず」2018.5.6
「主のために」2018.3.4
「恵み深い方」2018.2.4
「深く愛し合いなさい」2018.1.7
「キリストの尊い血によって」2017.12.3
「新たに生まれさせ」2017.11.5
「喜びに満ちあふれて」2017.10.1
「仮住まいをしている選ばれた人たちへ」2017.9.5

この恵みに踏みとどまりなさい
神ア 伸 牧師  2019.3.3
わたしは…………あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。
(ペトロの手紙一 第5章12節)
この手紙で、わたしはただひたすら〈神のまことの恵み〉を証ししてきた。あなたたちはどうか、その恵みのなか、神の力強いみ手のなかにもぐり込んで、しっかりと踏みとどまってほしい。あなたの立つべき場所はここだ…! ほかの場所にはない。

今も、深いこころの痛みをもって想い起こす。主が十字架につけられる裁きを受けておられたとき、「あなたはあのひとの仲間だろう」と迫られて、慌ててあの方との関わりを否定してしまった自分の姿を。しかも三度も――。ああ…ところが主は、そのわたしをさげすむことなく、裁くのでもなく、振り返って見つめてくださった…!

ペトロよ、神はほんとうに、あなたのことをこころにかけていてくださるのだ。このわたしの目を見て、そのことに気づかないか。かつてわたしが山の上で語ったあの言葉を、想い起こさないか――。神があなたのことを、ほんとうにこころにかけていてくださるのだ。思い煩うことはない。いや、あなたの思い煩いは、すべて神へと投げつけなさい。心配しなくてもよいことがある。しかし、心配すべき現実が多くあることも、わたしは知っている。だから、そのすべてを、投げつけるべきお方に、ちゃんと投げつけなさい。ほかのところに投げてはダメだ。神はそれを、両のみ手でしっかりと受けとめていてくださる…!

このまなざしに気づいたとき――このときだけではない。わたしはずっとこのお方のまなざしのもとに置かれていたのだということに気づいたとき、わたしは泣いた。泣き崩れた。今よりのち、もうこれ以上の涙は出ないのではないかというほどに…。わたしは、この主のまなざしを忘れない。

思い煩いを戒められた主イエス・キリスト。しかしご自身、十字架で息を引き取られるときには、ほとんど泣き叫ぶようにして、わたしたちの誰も経験したことのないような絶望のなかで、ひたすら神のみ名を呼び続けられたのだ――。

わたしの神よ、わたしの神よ…! なぜわたしを…!

死の恐れも、絶望も、自分のいのちについての思い煩いもすべて、思いっきり、神へと投げつけられた主。わたしは、この主のお姿を忘れない。

これが、主イエスというお方に現された、ほんとうの人間の生き方、神の力強いみ手を本気で信じて生きる者の、いちばん自然な生き方なのだと、わたしは信じてやまない。この神を信じよう、わたしと一緒に、神の力強いみ手を信じよう・・・!

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キリストの受難の証人
神ア 伸 牧師  2019.1.6
さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人…………として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。
(ペトロの手紙一 第5章1-2節)
キリストに愛されて生きるってどういうことか――。このペトロの姿を見ればよくわかると思います。キリストの苦しみの証人として生きるってどういうことか――。ペトロを見ればよくわかると思います。謙遜になるっていったいどういうことか――。ペトロの姿を学べば、わたしたちはそれがよくわかると思います。主イエスは、よくペトロという人物を見いだし、用いてくださったものです。

ご一緒に想い起こしたいのです。福音書記者ヨハネが伝える、およみがえりの主とペトロの、愛の対話を。

ヨハネの子シモン、最後にもう一度聞くが、あなたはわたしを愛しているのか…!?(第21章17節)

ペトロは、ふかい悲しみと共に、しかし、力をこめて申しました。主の愛の迫りから、もう逃れることのできない自分であることが、よくわかったのです。

主よ、あなたは何もかもご存じです。――わたしがあなたを愛していることは主よ、あなたが一番、よくご存じであるはずではないですか…!
そこで主はおっしゃった。「わたしの羊を飼いなさい。」

その主の愛が、このペトロを立たせました。"ああ、こんなわたしに、主はご自分の大切な羊を委ねてくださるんだ…!"。そしてこう言われた、その主のみこころを生涯問い続け、確かめ続けながら、弟子として、伝道者として、長老のひとりとして歩んだペトロ。そのかれが、ここでは同じ言葉を、自分の後輩たちに口移しのようにして伝えるのです。

あなたたちもわたしと同じように生きてほしい。キリストの受難の証人として、神の教会を、そこに生き、連なる一人ひとりを牧しなさい。あなたがたがそれをするのだ…! 今わたしがわたしとして生きているのは、あのお方の苦しみのおかげ、そのようなものとして今わたしは生きている。あなたたちは皆、このわたしとまったく同じなんだ…!

主を否み、肝心要のところで逃げ回り、主への誠実と愛に挫折して、このお方にだけは、頭があがらなかったペトロ。しかし、それにも関わらず愛され、ゆるされ、弟子として用いられ生かされ続けたかれの証しに、わたしたちはこころを注ぎたい。

わたしと同じように生きてほしい…! このわたしを見てほしい。そうすれば、キリストにゆるされ、愛されて生きるということがどういうことか、よくわかるはずだ――。

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キリストの苦しみに
神ア 伸 牧師  2018.12.3
キリストの苦しみに与れば与るほど、喜びなさい。
(ペトロの手紙一 第4章13節)
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない、すばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを、受けているからです。(ペトロの手紙一 第1章8節、9節)

教会の暦では、新年を迎えました。私どもはこの年も、この主、イエス・キリストが私どもと共にいてくださることを、幼子のようなこころで、その事実を慰めとして、生きていきます。新しい年の歩みが、お一人おひとりにとって祝福された歩みであることができますようにと、こころから祈り、挨拶をいたします。

そして今日ペトロは、そのように私どもと共にいてくだるキリストが、わたしたちのために「苦しみをお受けになったお方である」事実を、まっすぐに伝えます。

キリストの苦しみは、人ごとじゃない。それはほかならない、あなたのため、このわたしが癒されて生きるための苦しみであったんだ――。その事実を、どうか忘れないでほしい…! 今、このわたしが、あなたがここに生きているために、そのために、キリストがどんな苦しみを負ってくださったか。このわたしのために、どれほどの愛と犠牲が払われたか――。

キリストの苦しみを見つめてごらん…。それは、あなたのための苦しみなんだ、だからこの苦しみを、よぅく見つめてほしい。このキリストの苦しみと、もう切っても切れない関わりに生かされているあなたであることを、もう一度受け入れてごらん…。あなたがたはこのお方に、愛されているんだ。そして、あなたがたはこのお方を、愛しているんだ。

私たちも、そのキリストの苦しみを、一緒に担わせて(共有=あずかる/13節)いただこう。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになった」(第2章23節)そのような主の歩みを、祈りを分けていただこう…!

わたしたちの主のご生涯は、苦しみのただ中で、ひたすら神にご自身を委ね続ける歩みだった。「神よ、わたしの霊をみ手にゆだねます…!」というあの叫びを、どうかこころに刻み直してほしい――。

大丈夫だ! 安心しなさい。たとえ自分では、どんなに取るに足らないような歩みや、行いに思えることがあったとしても、神は、キリストを通して、あなたの全存在を、祝福のみ手、愛のみ手のうちに、しっかりと抱きとめていてくださる。

神よ…! 今、どうかこのわたしをあなたに委ねさせてください。このわたしがあなたのものであることを、改めて受け入れさせてください――。

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愛し合いなさい
神ア 伸 牧師  2018.11.4
万物の終わりが迫っています。…………何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。
(ペトロの手紙一 第4章7-8節)
きょう、直接に記されてはいませんが、ここでペトロが語るのは、キリストの再臨(主が再び来られること)です。救い主、イエス・キリストは、いまは復活なさって天におられるけれども、もう一度、必ずわたしたちのもとへぐいぐいと「迫って」おいでになる! そのキリストの〈愛の迫り〉を感じながら、あなたたちは今、ここでどういう生活をするのか、と。

キリストは、怖れを与えるために再臨なさるのではありません。わたしたちを整え、愛によって造りあげる(完成させる)ためにこそ、やって来られます。そして私たちもまた、愛する主を待っているのですから、そこに生まれる生活もまた、互いに仕え合い、愛し合う喜びの生活へ定められてゆくと信じます。

そのように、わたしたちがこころを込めて愛し合うために必要なもの、そのすべては神が与えていてくださる。ペトロはそれを、「賜物」と言います。(10節以下)

わたしたちは、神からそれぞれ賜物を頂いている! 一人ひとりはそれぞれ、そのひとにしかない、違うものを必ず頂いている。賜物をもらっていないひと、同じものをもらっているひとはひとりもいないんだ。だからこそあなたたちは、互いに挑み、けなし合い、相手の罪を暴き立てるようなことをするのではなくて、その賜物を用いて、互いに愛し合いなさい。

ある説教者が語っていた次のメッセージに、わたしはほんとうにこころ打たれ、震え、涙しました。ああ…ほんとうにそのとおりです! と――。

決して治らないと告げられた病の、あるいは怪我をして寝たきりになってしまったこどもがいる。そのときたとえひとがどう言おうと、親からしてみたら、生きていて欲しい! ただただ生きていてくれればいいと願う…。神はこの子に惜しみなく賜物を与え、この上なく愛し抜いておられるのだから――。たとえこどもが"もうイヤだ"と言ったとしても、親は、自分のこどもには、絶対にいなくなってもらったら困るんだ!
 
その説教者は――まさに自分のこととして、生活のただ中で、このメッセージをしています。自分に対しての、そして愛するわが子への神の親心を、全身全霊で語っていたのです。

主イエス・キリストよ、どうか、あなたのこころをこころとして、互いに仕え、愛し合うことができる者としてください。わたしが出会い、共に生きる一人ひとり、存在のすべてが、神の愛を証ししています。主よどうか、いま新しい想いで祈らせてください――。あなたに栄光が、世々限りなく、ありますように。アーメン

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キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから
神ア 伸 牧師  2018.10.7
キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも、同じ心構えで、武装しなさい。
(ペトロの手紙一 第4章1節)
ペトロは、ひたすらにうったえてやみません。あなたは、キリストの苦しみを思え…! 私どもの心の構えを支えるのは、キリストの苦しみだ、と。

このお方が苦しまれたのは……そうだ! あなたのため、このわたしのためなんだ。それほどの神の想い、熱情を、我々は知らされているではないか――。そのような一人、ひとりとして、神のみこころに従おう。

私どもの生活というのは、自分がいったい何を一番大事にしているか、ということで、定まると思います。たとえば、スポーツに打ち込む。寝る間も惜しんで勉強する。それが自分にとって大事だからです。あるいは「お金が大事だ」と、「健康がいちばん大事だ」、「家族がいちばん大事だ」と思えば、その生活はやはり、そのように定まり、つくられていくでしょう。

今申し上げたこれらを大事にする生活が悪いと聖書が言ったことは、ただの一度もありません。けれどもそこで、神のみこころが一番大事なのか。それとも、もっと大事なものがあるのか…!?

私どもはみな、それぞれに、良心というものをもっています。そして、自らの良心に従って、誠実に、地道に、日々の生活をつくりあげているひとは、たくさんいるのです。そこでこそしかし、とペトロは問う。いったい、誰があのキリストを殺したのか――。

キリストを殺した人びとは、良心の呵責(かしゃく)に苦しんだのではありませんでした。これこそが正義だ、と自分たちを最後まで貫いて、「どうしてもこのイエスという男は殺さなければならない…!」と信じて、あの十字架を立てたのです。――その意味ではキリストの十字架とは、私ども人間の良心というものが決定的に裁かれた出来事でありました。しかし、まさにその十字架のもとで、私どもは、新しい、正しい良心を神に求めるのです。(第3章21節)

神さまどうか、このわたしのこころを、あなたのみこころにかなった、よいこころとしてください…!

このお方は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。(第2章23節)

私どもは、ペトロのメッセージの中心である、この聖句に繰り返し、繰り返し立ち帰り、神の深い思いを知り続ける…! そこに私どもの心の構えをつくり、与えられている日々を、神のみ前に、悔いなく過ごしたいと願います。どうか、みなさん一人ひとりの生活の中に、キリストの苦しみ、神の深い想いが見えている歩みができていきますように。

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捕らわれていた霊たちのところに行って
神ア 伸 牧師  2018.9.2
そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
(ペトロの手紙一 第3章19節)
牧師として、わたしがしばしば尋ねられることは、洗礼を受けずに死んでしまった自分たちに連なる先祖たち、また愛する者たちの、救いについてです。これは、いろいろな表現をとることがありますが、結局同じようなことを、問われます。

そして今日、ここでは、主イエスが宣教の相手としてくださったのは、ただたまたま教会に行く機会がなかったというのではなくて「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに、なお従わなかった者」(20節)だと言われています。

創世記の第6章以下が伝える、ノアと同じように神の愛の言葉を聴き続けていたはずなのに、それを無視し、受け入れず、拒んだために、ついに、洪水によって流されてしまった人びと――そのような人びとさえ、見よ、主イエスは死の国まで追いかけてきてくださって、福音を告げてくださったのだ…! と――

わたしは信じます。この事実こそが、このわたし、私たちにとっての希望であると! 深い慰めの福音なのだと…。そうです、信じる機会がなく死んでしまった人びとのためにも、主イエスは「捕らわれていた霊たちのところ」(死んだ者が行く世界=陰府/よみ)にまで降ってくださって、"わたしを信じなさい…! わたしを信じる者は死を超えて生きる…!"と、今、このときも宣べ伝えていてくださるのです。私たちの主は、そのように死の世界すらも、自らの足あとの残る場所、自らの愛の恵みの支配の及ぶ場所としてくださって、なおそこから天へと昇られた――。

ペトロはここで、いいえ、この手紙全体を通していつも、ただひたすらにキリストの十字架を見つめています。「キリストも(私たちの)罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。」(18節)

ああ…キリストの苦しみは、こんなに深かったのだということを思いながら、その苦しみは、このわたしのための苦しみであったということを思いながら――キリストの恵みのご支配の広さ、祝福の深さを、全身全霊をもって語っているのです。

主なる神よ。あなたのみ子、キリスト・イエスのいのちの光の届かない場所は、どこにもありません。あなたの祝福のご支配を、こころから確信し、私どももまた、祝福を受け継ぐために召された者として、新しく、立つことができますように。私どもの隣人について、広やかな思いに生きることができますように。この暗い世界について、なお明るい望みを抱くことができますように。

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幸せな日々を過ごしたい人は
神ア 伸 牧師  2018.8.5
命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、/悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。(ペトロの手紙一 第3章10−11節)
「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は」。ここでペトロは詩編第34編を引用し、幸いへの招きを語ります。素朴ですが、ほんとうに慰めに満ちた言葉です。

どうか、自分の命を愛してほしい。どうか、あなたには、幸せになってほしい。幸せな日々を生きてほしいのだ…!

神の深い願いが込められた言葉は、こう続きます。

舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。

難解なことは何も書いてありません。単純すぎて、かえって困ってしまうほどです。「あなたの幸せは、あなた自身の語る言葉にかかっているのだ…!」と。

この詩編の引用は、9節のペトロの言葉と、深くかかわっています。

ペトロはここで、悪口を言われても泣き寝入りしなさいとは言いません。こころを鍛えて何を言われても平常心でいろ、ということでもないのです。侮辱に対して祝福を返せ、と言う。その人の幸せをこころから願って、何よりも、神がその人の幸せを願っていてくださることを、こころを込めて語ってあげるのだ、と。

悪口を言い返しても、決して幸せにはなれない。そして、あなたがどんな悪口を言われても、あなたに与えられた神の祝福は決して揺るがない! その揺るぎない幸せに支えられて、あなたもまた、祝福を受け継ぎ、祝福を語り継ぐことができるんだ。そこに立て…!

ただひたすらに、幸いへの招きを語るペトロ。かれは、主イエスのお姿について、第2章23節で既にこう語っていました。

ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

そうです! このお方の愛によって赦されて、今ここに生かしていただいている私どもです。まず主イエスが、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、ただ私どもを赦して、神の子として受け入れてくださいました。

神が、それほどまでに、私どもの幸せを願ってくださるという祝福の事実を、私どもは今日も知ります。そして、すべての人に語り続けます。そのようにしてつくられる、私どもの日々の歩みであり、キリストの教会の歴史なのです。

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尊敬しなさい
神ア 伸 牧師  2018.7.1
同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
(ペトロの手紙一 第3章7節)
ここでこの手紙は、自分よりも強い人、自分よりも立派な人を尊敬しなさいって言っているんじゃない。あるいは、自分よりも弱い人を守ってあげなさい、かばってあげなさい、その弱さを理解してあげなさいと言っているのでも、ないのです。ペトロがこころを込めて私どもに伝えている福音は、自分よりも弱い人を、尊敬しなさい。敬いなさい、と――。

わたしにとって、はげしくこころを揺さぶられ、突き刺される言葉です。ほんとうに、そうなのです。ペトロをとおして、主イエスから迫られているからです。

自分よりも弱い人を、あなたはほんとうに尊敬しているか。敬っているか…!? そうでなくては、祈ることもできないよ、と――。

私どもが共に生きていくとき、その一緒に生きている人のために、自分が重荷を背負いこまなければならないということが時に起こります。この重荷とは、明らかに、もし独りで生きていたなら、負わずに済んだ重荷のことです。けれどもこの人と一緒になったがゆえに、負わなければならなくなった重荷のことです。けれどもそれを負い合いなさい、と同じ聖書は言うのです。(ガラテヤの信徒への手紙第6章2節)

わたし自身のこととして申します。一緒に生きている人の、肉体的な弱さのために、自分がその人の重荷を一緒に担わなければならないということが、あります。一緒に生きている人の、こころが弱いために、"もうそんなことでくよくよするなよ…""そんな小さいことでいらいらするんじゃない"、"もうおれは先に寝るぞ"というようなことが、時に起こります。一緒に生きている人が要領を得ないために、そのしわ寄せがこっちに来るということが、起こるかもしれない。

私はこの人と一緒に生きるのだ、というとき、いちばん大事なのは、ただ、ひたすらに尊敬する。その人の尊厳を重んじることだというのです。

ある、説教者が、この言葉を説き明し明かしながら、「わたしたちは、こころの天窓をもっている」と言いました。天井についている窓から光が射してくる――そのような、こころの天窓です。

その天窓から注がれる主の恵みの光を仰ぎ続けることによってしか、共に生きることはできないし、ほんとうは祈ることもできないのです。

主イエス・キリストよ、どうか、私どもの歩みを、もう一度恵みの光の中においてください。真実の祈りをする者とさせてください。私どもの傲慢によって、祈りが妨げられることが、ありませんように。主の恵みの中で、共に生きる者を真実に、重んじることができますように。共に、あなたに愛されていることを、互いに尊び合うことができますように。


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柔和でしとやかな気立て
神ア 伸 牧師  2018.6.3
むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。(ペトロの手紙一による福音書第3章4節)
『ペトロの手紙一』を説いてきて、ここにはたいへんきつい言葉が綴られていると感じます。とりわけ第2章の13節、さらに第2章の18節、そしてきょうの第3章1節から6節。どう読んでも、現代を生きる私どもに受け入れやすい言葉であるとは思えません。

説教者として、わたしは訴えたくなる。神よ、なぜ教会に来てまで、こんなにつらい言葉を聴かなければなりませんか。こういう言葉を聴いて、とてもつらい思いになる友がいるのではありませんか。主よ…理不尽ではありませんか――。

ただ、きょうも、私どもが耳を澄ましこころを注いで、どうしても聴き取りたい言葉がある。ペトロが主イエス・キリストを紹介する言葉です(第2章23節)。

(主は)ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方に、お任せになりました。

み言葉を信じない人たちに取り囲まれ、み言葉を聴き取ることができなかった人たちの不当な裁きによって十字架に殺されたこのお方を、どうか、どうか想い起こしてほしい…! そして、「その足跡に続くようにと、模範を残された」(第2章21節)この主イエスに、あなたも従ってほしい。

〈その足跡に続くように〉。そうだ、あなたがたはまさに、キリストの生き写しとして生きるのだ…! どうかそのことを、確信を持って受け入れてほしい――。

こう語ってきたペトロは〈柔和で多くの言葉を用いない〉という表現を用います(第3章4節直訳)。これは何よりも主イエス・キリストのお人柄であり、神の子としてのお姿そのものであると、わたしは信じます。

皆さん…! キリストは、どこまでも柔和なお方です。このお方のみあとに私どもは従い、このお方のやさしさに倣って生きるのです。ペトロの、共に生きる仲間たちへのこころのこもった語りかけに応えるようにして――。

主イエスのやさしさを、装いとしなさい。あなたがたは、この主イエスの柔和さ、やさしさによって、救われたのだから。あなたたちは、主イエスのように、相手に仕えてごらんなさい。わたしがどれだけ言葉を重ねるよりも、あなたのやさしさの方が、はるかに説得力を持つのだから。必ず神の恵みが勝つのだから…!

主イエスが、ペトロを通して皆さん一人ひとりを招いてくださっていると、わたしは信じます。

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ののしり返さず
神ア 伸 牧師  2018.5.6
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
(ペトロの手紙一 第2章23節)


きょうのみ言葉は、使徒パウロが生涯を賭して語り続けたただひとつの福音と、ふかく共鳴し合っています。(コリントの信徒への手紙一 第2章2節)

わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外、何も知ろうとは思わない。何も語ろうとは思わない――。

このパウロと共に、私どもは生涯、十字架のイエス・キリストを見つめ続ける。生活のすべての局面で、十字架の主の前に立ち、その言葉を聴き続けます。

ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず――。

きょうのみ言葉のとおり、すべてのひとが、主を罵りました。そこを通りがかった人たち、民を代表する指導者たち、それまで主に従ってきた多くの人たち、そして主イエスと共に十字架につけられることになったふたりのうちのひとりもまた、このお方を罵り続けたのです。

"お前神の子だってなぁ…。他人を救ったじゃないか。だったら今自分を救ってみたらどうなんだ。十字架から降りて来い、そうしたら信じてやる。そうしたら認めてやるよ。"

人びとの罵りの声だけが聞こえているような、その中で、かすかに聞こえてきた主イエスの祈りを、福音書記者ルカはこう記録しています。(第23章34節)

父よ、彼らを赦してください。自分が何をしているのか知らないのです。正しくお裁きになる神よ。しかしどうかこの人たちのことを、裁かないでください…!

私どもの、私のためにこのように祈ってくださった主 キリスト――。そしてペトロの手紙は語るのです。十字架にかけられた主がお受けになった傷によって、あなたたちは癒された…!(第2章24節)

ここでペトロの手紙ははっきりと言う。我々もまた、癒されなければならない傷を負っていたのだ――と。主は、そのような私どもの傷を、よくご存じであったのです。そのような私どものこころを、主イエスはご存じいてくださったのです。

このわたしの魂の監督者は、主イエス・キリストであると信じます。このわたしの魂の牧者は、十字架につけられた、主 キリストであると信じます。

ここに私どもの帰るべき場所がある! そして、今すでに帰るべきところに帰らせて頂いていることを畏れつつ、感謝をもって受け入れ直したいと祈ります。

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主のために
神ア 伸 牧師  2018.3.4
主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。そうすれば、彼らは………あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります
(ペトロの手紙一 第2章12-13節)

きょうの聖句はなんと厳しく強烈で、複雑な抵抗のこころを呼び起こすものであることでしょう! そして、これほど誤解されてきた聖書の言葉もありません。

この手紙は、私どもが〈美しく(立派に)〉生きるとは、人間的なこの世の制度に従うことだと言います。しかも、ローマ皇帝への崇拝を拒否して迫害されたキリスト者たちのことを念頭に置きながら、私どものこころを揺さぶるようにして、いま、呼びかけるのです。

あなたがたは、主のために生きるのだ――。

けれども、わが国の教会は〈主のために〉と高らかに謳いながら、この聖句を歪曲し誤って受けとめ、先の戦争に協力するという、取り返しのつかない過ちを犯しました。かけがえのない〈神の作品〉であるいのちが、十把一からげにして失われたのです。主がいとおしみ、養ってくださるいのちが――。決して過去のことではない。今なお、神が愛しておられるこの世界で繰り返されている過ちです。

主イエスは、実にやわらかで、しなやかなこころを持ったお方です。このお方こそ、まことの慰め主です。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」と説かれ、ご自身そのようになさったお方です。決して自らが暴力に訴えることをなさらなかった。

けれど、それは国家の批判をするなとか、悪を黙認せよということではありません。ほんとうは、このお方ほど激しく人びとを批判なさった方もないのです。ひとりの存在が、たとえ少しでも傷つけられることに対して、またそのような過ちに加わってしまう人びとに対しては、そこにいかなる理由があろうと断固たる〈否!〉を突きつけられた方――。それが私どもの主です。

人間の立てた制度というものが、本来欠陥だらけだということは、誰よりも神ご自身がよくご存じでした。けれども、その誤った、欠陥だらけの、人びとの立てた制度の中で、間違った判断によってご自身の愛する独り子が殺されることを神は良しとなさり、そのただ中で、ひたすら祈る主イエスのお姿を私どもに示してくださいました。

父よ、どうかこの人たちをお赦しください…! どうかこの人たちを、あなたが訪れてください――。このお方が私どもの主です

このイエス・キリストに従って歩む、すべての者たちのうちに、〈美しさ〉があるのです! 正しいか正しくないか、間違っているかいないか、ということではない。神がご覧になり、良しとしてくださる〈美しさ〉です。キリストに従う私どもの美しい生き方が、私どものすべての隣り人に、この日本に、この世界に、神の訪れの日が与えられる証しとして、必ず用いられてゆく――。

この確かな約束、確かな希望の中を、今日も新たに、ご一緒に歩み出したい。こころからそう祈ります。

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恵み深い方
神ア 伸 牧師  2018.2.4
あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
(ペトロの手紙一 第2章3節)

この「恵み深い」という言葉の意味は広く、たとえば食べ物について用いられると、「おいしい」という意味になる。「ああ、あの時のごちそうはおいしかったな……」と、理屈ではなく身体で覚えてしまうのです。「あなたがたは、主のおいしさを味わいました」。そう訳してもよいかもしれません。

かつて、詩編詩人もこう歌いました。

味わい、見よ、主の恵み深さを。主の恵みは、わたしのこころと身体と魂の全霊をもって〈味わう〉ものなんだ…! そのようにして、神の恵みの味わいを忘れることができなくなった私たちは、何と幸いなことだろう…!(詩編第34編9節)

「恵み深い」という言葉はしかし、私はほんとうにびっくりしたのですが、「あの人は単純でばか正直だ。お人好しだ」。「だからあの人は愚かだ」。そういう意味で使われることもある、というのです。

「主は恵み深い」。そうだ、神はばか正直だ。

私はうなだれ、そして打たれました。"ああ…ほんとうにその通りだ…!"と――。悲しいことですけれども、私どもの内側からは時に、自分でもどうしようもないほどの、悪意にもとづく偽りと偽善、ねたみや悪口が顔を出してしまうことがあります(第2章1節)。本意ではないのだけれども、傷つけ、傷つき、痛む中で、自分を守ろう、守ろうとするからです。

そのような私どもに向かって、神は、ただ神だけが、ただひとり、ばか正直な生き方を貫かれた――。そこに主の十字架が立ったのです!

キリストは、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。(第2章23節)

ののしり返さず、人を脅さず、あらゆる悪意と偽りを捨てて、ばか正直を貫かれた神の愛は、この主イエスの十字架のお姿に現れている! ペトロは、こころを込めて呼びかけます。

あなたたちは神のもの。キリストがお召しになり、光の中を歩んでいる者。どうか、主イエスの生き方に倣ってほしい。いや、もうすでに、あなたたちの存在そのものが、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」という主の愛のお姿を、そのままに映し出しているんだ――。

こころを高くあげて、今、再び歩み出したいと願います。

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深く愛し合いなさい
神ア 伸 牧師  2018.1.7
あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
(ペトロの手紙一 第1 章22節)

ここに出てくる「魂を清め」という言葉は、人間の存在すべて、この私の存在が丸ごと新しくなることを語っています。また「真理を受け入れて」というのは、口語訳聖書では「真理に従うことによって」と訳されておりました。

真理に従う――。聴いて、受け入れ、そして従う。真理を学ぶとか、探究するとか、それだけでは足りない。

神が、主イエス・キリストを通してこの私を愛してくださっている…! ただ、その真理を受け入れ、その事実に聴き従って、生きるのです。そのとき、私の生活そのものが新しくなる。必ず、新しく生まれ変わるのです。

ある説教者の、次の言葉を忘れたことはありません。

人間が新しくなるというのは、そのひとが、人を愛するようになることだ…!

私は、ほんとうに身震いするような思いがしました。

人が新しくなるということは、相手を愛するようになることだ――。

私どもは、愛の理屈や概念ではなく、「愛すること」に伴う喜びを、楽しみを、またその困難さも、悲しみ痛みもよく承知していると思います。

その私たちに、ここでペトロが伝えてくれている愛は、たいへん具体的です。「偽りのない兄弟愛」。偽りのない兄弟愛を、あなたがたは抱くようになった。いや、もうすでに抱いている…!

私どもはただ、神の愛という真理を受け入れ、聴き従う中で、神の子とされた。兄弟、姉妹とされたのです。私だけじゃない。この人も、あの人も、神にゆるされ愛された、神のこどもとして受け入れられた人ではないか――。

たとえ、口に出して呼ぶことはなくても、私は、その神の愛の事実に根ざして、教会に連なる仲間と、これまでに出会った一人ひとりは、兄弟姉妹なのだと信じています。そして、その先頭に立つのは、私どものために命を棄ててくださった、神の独り子、主イエス・キリストです。

私とあの人とは、兄弟同士なんだ、姉妹同士なんだ。神に愛され、そのような者として神に愛され、受け入れられたのだ…!

まさに、私どもの存在を、丸ごとつくり変える神の言葉です。私どもの教会が、ここで聴き続け、運び届けている神の言葉です。この神の言葉の力を知ろう。この神の言葉の力を信じよう…!

ペトロは今も、私どもに語りかけてくれます。
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キリストの尊い血によって
神ア 伸 牧師  2017.12.3
知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
(ペトロの手紙一 第1章18、19節)

私は、今日、ある教会改革者が語った〈神の前に〉、より丁寧には〈神のみ顔の前に〉という表現を想い起こしました。

神を信じて生きる我々の生活のかなめは、このひと言に尽きる! 誰かに、あなたはなぜそういう生き方を、そういう考え方をするのですか、と問われたら、いつも答えは同じ。

神のみ顔の前に、私は生き、生かされているからです。

この〈神の前に〉という一点に、私どもの存在、人生、生活がかかっているのです。

そのことを、ペトロの手紙は「あなたがたは先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのだ」と改めて語り直します。

私どもの先祖は、聖書の理解に従うならば、アダムとエバというパートナー、そしてそこから生まれたカインとアベルという、二人の兄弟に遡ります。この最初の兄弟がそれぞれに、神へ献げものをした。ところが、弟のアベルの献げものを神は省みてくださったのに、兄のカインの献げものには目を留められなかった。それがなぜであったかはよくわかりません。

そこでカインは――創世記第4章がたいへん印象深く伝えるところによれば――「顔を伏せた」という。神から目をそむけ、顔をそむけた。しかし、そのようなカインに向かってなお、神は語りかけてくださいました。

なぜ顔をそむけるのか。正しいことをしているのであれば、顔を上げるかよい。もう一度まっすぐに、わたしの顔の前に立ちなさい…!

けれどもカインは、その神の呼びかけに応えぬまま、おそろしい行動に出てしまった。そしてまさにそこから、私どもの先祖伝来の生活が始まったのです。やられたらやり返す、と。しかしペトロの手紙は明確に語ります。

あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは………きずや汚れのない、小羊のような、キリストの尊い血によるのです。

キリストが、血を流してくださったのです。

かつては、カインのようであった私どもが、しかし今はもう一度、神のみ顔の前に、立たせて頂いているのです。古い生き方ではなく、新しい生き方へと召し出されたのだ。十字架のキリストの血潮によって――。
ここに、私どもの存在が明確になります。私どもの教会の、伝道の使命も、明確にされると信じます。
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新たに生まれさせ
神ア 伸 牧師  2017.11.5  
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神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ……。   (ペトロの手紙一 第1章3節)
この手紙は、私どもキリスト者のことを、新しく生まれた存在、もう一度生まれ変わった、それまでの自分ではない新しい自分に生まれ直した存在として語ります。

ほんとうに新しくなれたらどんなにいいことでしょう。人生は一度かぎり。やり直しはできない。そのことを私どもはよく承知している筈ですけれども、生まれ変わりたい、というのはまことに自然で、素朴な憧れではないかと思います。

しかし、私がこの説教の備えの中で出会い、ほとんど冷や水を浴びせられたような思いで立ちすくんでしまった、福音の説教者の言葉があるのです!

当然、この聖句が示す道筋から言えば、キリスト者はむしろ新しく生まれ変わらなければならないのではないかと思うところで、この福音の説教者ははっきりとこう言う。

一度生まれた人間が、生まれ変わりたいと思うことは、悲惨なことであります。

強烈な言葉です。が、この「新しい生まれ変わり」というのは、既に起こったことだ。もうこれ以上新しくなる必要はない、とこの説教者は訴えるのです。そのことを、この手紙は3節の後半で「生き生きとした希望を与え」という言葉で語ります。これは「生きた希望のただ中へと向かって」という意味の言葉です。

神が示してくださる、明確な希望の中に入りなさい!この希望は死んではいない。神は生きておられるのだ。そう言うのです。

そうです! 私どもは、主イエス・キリストの復活によって、新しい希望、決して朽ちず、汚れず、しぼむことのない命を与えていただきました。

あの2000年前に、神が主イエス・キリストをよみがえらせてくださったとき、すでに神はそこで、私ども一人ひとりのことを、確かに覚えていてくださったのです。あのキリストの復活が起こったときに、もうすでに、この私が、生きた希望の中へと引きずり込まれていたのです! だから8節で言うのです。

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

このお方に愛され、このお方を愛して生きる私どもは、もう、死んだ希望に取りすがることはありません。ただひたすらに、この〈私のため〉の主 キリストを愛し、終わりまで愛し抜いて人生の旅路を歩みたい。
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喜びに満ちあふれて
神ア 伸 牧師  2017.10.1 
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あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
(ペトロの手紙一 第1章8節)
 
今日、共に聴いた福音で、たいへん興味深いのは、信仰と(5節)、希望と(3節)、愛という(8節)、三つの言葉が出てくることです。

これを、あの伝道者パウロが書いた『コリントの信徒への手紙一』、第13章の「信仰と、希望と、愛。この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という言葉と重ねあわせて聴くことが、今日はよりふさわしいと信じます。「神の愛は永遠。キリストの愛は決して滅びない…!」という、あの胸を打つ言葉を――。

ペトロは、ここで、死の力にうち勝つ生き生きとした希望に歩むのが信仰であること、そしてその信仰の具体的な内容を、8節で改めて、こう語ります。

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

ペトロは、驚きをもって、目を見張るような思いで、この言葉を語りかけていると、私は思います。

1節のところにある、今日で言えば小アジアと呼ばれる諸地域の、当時の世界では経済的にも政治的にも、さして気にも留められず、ほとんど影響をもたないような、小さな小さな群れに向かって語りかける。しかも迫害の危機にある教会に向かって、

何ということだろう…。あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じている…!

これは、主イエスの弟子、ペトロの言葉です。この目で主イエスを見、もっとも主イエスのおそばにいた者の言葉です。同時に弱さも脆さも十分すぎるほど併せ持つペトロが、なお、教会の伝道者として立たされたときに、

この人たちはキリストを見たこともないのに愛しているではないか…!

そうだ――主イエスがこの人たちに、このような愛を与えてくださったのだ。主イエスが希望を、信仰を与えてくださったのだ。これこそ神の賜物だ…! ほかの何が滅びても、神がこの人たちに与えてくださった信仰と希望と愛は滅びない!

目を見張るような思いで、その同信の友たちを見ていたのではないかと思います。

このようなキリストの教会が、今日まで、至るところに存在してあるということを、私どもも今、驚きをもって受け入れ直したい。こころからそう願います。


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仮住まいをしている選ばれた人たちへ
神ア 伸 牧師  2017.9.6

イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
(ペトロの手紙一 第1章1節)
『ペトロの手紙一』。これは、主イエスの12弟子のひとりペトロが、信頼する「シルワノ」という助け手と共に、身の危険、迫害の危機を肌で感じつつ、自らの信仰の言葉を伝えた手紙です。(第5章12、13節)。

ペトロは、ガリラヤの漁師でした。ある日、漁の仕事をしていたとき、主イエスに突然声をかけられた。

わたしについて来なさい…!

すると、彼はすぐに舟を捨て、網を捨て、家族を捨て、そして故郷を捨てて、主イエスに従って行った。そのペトロの言葉を、今私どもは改めて聴き取り直したいと願います。

離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。

こう呼びかけるペトロ自身が、既に深い感慨に捕らえられ、同信の友たちへ呼びかけていたに違いないと私は信じます。どうして自分は、故郷のガリラヤを離れ、言葉も十分でないのに、今ローマに住んでいるのだろう。――それは、〈神に選ばれたからだ〉としか言いようがない。
わたしは、主イエスに声をかけていただいた。「あなたはこっちに来なさい…!」。漁の仕事中に声をかけられ、突然、まるで引き抜かれるようにして、このお方に従う者とされたのだ――。

ペトロ。主イエスが十字架にかけられようとするあの夜、「わたしは知らない」と、明確に三度この方を否んでしまった弟子です。そして、およみがえりのキリストに三度、「あなたはわたしを愛しているか」と問われたひとです。この手紙を書きながら彼は、あの夜の出来事を、絶えず想い起こしていたに違いない。

「主よ、わたしを選んでくださったのはあなたです。わたしが、あなたを選んだのではありません。あなたが、わたしを選んでくださった。だから、わたしがあなたを愛していることをいちばんよくご存じであるのも、主よ、あなたであるはずです…!」。

私どもは皆、ペトロと同じです。主イエスに声をかけられたから、主イエスがこの私を選んで、まなざしを注いでくださったから――。だから、私どもは今、この教会に生き、生かされている!

この教会の存在そのもの、あなたの存在そのものが、神の切なる思いの結晶のような存在なのです。

今、改めて、新しくその事実に立ち戻りたい。

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