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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

夕礼拝のメッセージ 「ペトロの手紙T」より
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petoronotegami  今週の聖句バックナンバー
weekly message

2017年9月〜

「キリストの尊い血によって」2017.12.3
「新たに生まれさせ」2017.11.5
「喜びに満ちあふれて」2017.10.1
「仮住まいをしている選ばれた人たちへ」2017.9.5

キリストの尊い血によって
神ア 伸 牧師  2017.12.3
知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
(ペトロの手紙一 第1章18、19節)

私は、今日、ある教会改革者が語った〈神の前に〉、より丁寧には〈神のみ顔の前に〉という表現を想い起こしました。

神を信じて生きる我々の生活のかなめは、このひと言に尽きる! 誰かに、あなたはなぜそういう生き方を、そういう考え方をするのですか、と問われたら、いつも答えは同じ。

神のみ顔の前に、私は生き、生かされているからです。

この〈神の前に〉という一点に、私どもの存在、人生、生活がかかっているのです。

そのことを、ペトロの手紙は「あなたがたは先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのだ」と改めて語り直します。

私どもの先祖は、聖書の理解に従うならば、アダムとエバというパートナー、そしてそこから生まれたカインとアベルという、二人の兄弟に遡ります。この最初の兄弟がそれぞれに、神へ献げものをした。ところが、弟のアベルの献げものを神は省みてくださったのに、兄のカインの献げものには目を留められなかった。それがなぜであったかはよくわかりません。

そこでカインは――創世記第4章がたいへん印象深く伝えるところによれば――「顔を伏せた」という。神から目をそむけ、顔をそむけた。しかし、そのようなカインに向かってなお、神は語りかけてくださいました。

なぜ顔をそむけるのか。正しいことをしているのであれば、顔を上げるかよい。もう一度まっすぐに、わたしの顔の前に立ちなさい…!

けれどもカインは、その神の呼びかけに応えぬまま、おそろしい行動に出てしまった。そしてまさにそこから、私どもの先祖伝来の生活が始まったのです。やられたらやり返す、と。しかしペトロの手紙は明確に語ります。

あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは………きずや汚れのない、小羊のような、キリストの尊い血によるのです。

キリストが、血を流してくださったのです。

かつては、カインのようであった私どもが、しかし今はもう一度、神のみ顔の前に、立たせて頂いているのです。古い生き方ではなく、新しい生き方へと召し出されたのだ。十字架のキリストの血潮によって――。
ここに、私どもの存在が明確になります。私どもの教会の、伝道の使命も、明確にされると信じます。
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新たに生まれさせ
神ア 伸 牧師  2017.11.5  
new
神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ……。   (ペトロの手紙一 第1章3節)
この手紙は、私どもキリスト者のことを、新しく生まれた存在、もう一度生まれ変わった、それまでの自分ではない新しい自分に生まれ直した存在として語ります。

ほんとうに新しくなれたらどんなにいいことでしょう。人生は一度かぎり。やり直しはできない。そのことを私どもはよく承知している筈ですけれども、生まれ変わりたい、というのはまことに自然で、素朴な憧れではないかと思います。

しかし、私がこの説教の備えの中で出会い、ほとんど冷や水を浴びせられたような思いで立ちすくんでしまった、福音の説教者の言葉があるのです!

当然、この聖句が示す道筋から言えば、キリスト者はむしろ新しく生まれ変わらなければならないのではないかと思うところで、この福音の説教者ははっきりとこう言う。

一度生まれた人間が、生まれ変わりたいと思うことは、悲惨なことであります。

強烈な言葉です。が、この「新しい生まれ変わり」というのは、既に起こったことだ。もうこれ以上新しくなる必要はない、とこの説教者は訴えるのです。そのことを、この手紙は3節の後半で「生き生きとした希望を与え」という言葉で語ります。これは「生きた希望のただ中へと向かって」という意味の言葉です。

神が示してくださる、明確な希望の中に入りなさい!この希望は死んではいない。神は生きておられるのだ。そう言うのです。

そうです! 私どもは、主イエス・キリストの復活によって、新しい希望、決して朽ちず、汚れず、しぼむことのない命を与えていただきました。

あの2000年前に、神が主イエス・キリストをよみがえらせてくださったとき、すでに神はそこで、私ども一人ひとりのことを、確かに覚えていてくださったのです。あのキリストの復活が起こったときに、もうすでに、この私が、生きた希望の中へと引きずり込まれていたのです! だから8節で言うのです。

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

このお方に愛され、このお方を愛して生きる私どもは、もう、死んだ希望に取りすがることはありません。ただひたすらに、この〈私のため〉の主 キリストを愛し、終わりまで愛し抜いて人生の旅路を歩みたい。
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喜びに満ちあふれて
神ア 伸 牧師  2017.10.1 
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あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
(ペトロの手紙一 第1章8節)
 
今日、共に聴いた福音で、たいへん興味深いのは、信仰と(5節)、希望と(3節)、愛という(8節)、三つの言葉が出てくることです。

これを、あの伝道者パウロが書いた『コリントの信徒への手紙一』、第13章の「信仰と、希望と、愛。この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という言葉と重ねあわせて聴くことが、今日はよりふさわしいと信じます。「神の愛は永遠。キリストの愛は決して滅びない…!」という、あの胸を打つ言葉を――。

ペトロは、ここで、死の力にうち勝つ生き生きとした希望に歩むのが信仰であること、そしてその信仰の具体的な内容を、8節で改めて、こう語ります。

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

ペトロは、驚きをもって、目を見張るような思いで、この言葉を語りかけていると、私は思います。

1節のところにある、今日で言えば小アジアと呼ばれる諸地域の、当時の世界では経済的にも政治的にも、さして気にも留められず、ほとんど影響をもたないような、小さな小さな群れに向かって語りかける。しかも迫害の危機にある教会に向かって、

何ということだろう…。あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じている…!

これは、主イエスの弟子、ペトロの言葉です。この目で主イエスを見、もっとも主イエスのおそばにいた者の言葉です。同時に弱さも脆さも十分すぎるほど併せ持つペトロが、なお、教会の伝道者として立たされたときに、

この人たちはキリストを見たこともないのに愛しているではないか…!

そうだ――主イエスがこの人たちに、このような愛を与えてくださったのだ。主イエスが希望を、信仰を与えてくださったのだ。これこそ神の賜物だ…! ほかの何が滅びても、神がこの人たちに与えてくださった信仰と希望と愛は滅びない!

目を見張るような思いで、その同信の友たちを見ていたのではないかと思います。

このようなキリストの教会が、今日まで、至るところに存在してあるということを、私どもも今、驚きをもって受け入れ直したい。こころからそう願います。


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仮住まいをしている選ばれた人たちへ
神ア 伸 牧師  2017.9.6

イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
(ペトロの手紙一 第1章1節)
『ペトロの手紙一』。これは、主イエスの12弟子のひとりペトロが、信頼する「シルワノ」という助け手と共に、身の危険、迫害の危機を肌で感じつつ、自らの信仰の言葉を伝えた手紙です。(第5章12、13節)。

ペトロは、ガリラヤの漁師でした。ある日、漁の仕事をしていたとき、主イエスに突然声をかけられた。

わたしについて来なさい…!

すると、彼はすぐに舟を捨て、網を捨て、家族を捨て、そして故郷を捨てて、主イエスに従って行った。そのペトロの言葉を、今私どもは改めて聴き取り直したいと願います。

離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。

こう呼びかけるペトロ自身が、既に深い感慨に捕らえられ、同信の友たちへ呼びかけていたに違いないと私は信じます。どうして自分は、故郷のガリラヤを離れ、言葉も十分でないのに、今ローマに住んでいるのだろう。――それは、〈神に選ばれたからだ〉としか言いようがない。
わたしは、主イエスに声をかけていただいた。「あなたはこっちに来なさい…!」。漁の仕事中に声をかけられ、突然、まるで引き抜かれるようにして、このお方に従う者とされたのだ――。

ペトロ。主イエスが十字架にかけられようとするあの夜、「わたしは知らない」と、明確に三度この方を否んでしまった弟子です。そして、およみがえりのキリストに三度、「あなたはわたしを愛しているか」と問われたひとです。この手紙を書きながら彼は、あの夜の出来事を、絶えず想い起こしていたに違いない。

「主よ、わたしを選んでくださったのはあなたです。わたしが、あなたを選んだのではありません。あなたが、わたしを選んでくださった。だから、わたしがあなたを愛していることをいちばんよくご存じであるのも、主よ、あなたであるはずです…!」。

私どもは皆、ペトロと同じです。主イエスに声をかけられたから、主イエスがこの私を選んで、まなざしを注いでくださったから――。だから、私どもは今、この教会に生き、生かされている!

この教会の存在そのもの、あなたの存在そのものが、神の切なる思いの結晶のような存在なのです。

今、改めて、新しくその事実に立ち戻りたい。

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