本文へスキップ

1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

賀茂川教会タイトルロゴ  聖壇クロスの写真

2026年2月礼拝説教


★2026.2.8 「ただキリストにだけ依り頼む」 マタイ5:13-20
★2026.2.1 「新しい幸いに生かされる」 マタイ5:1-12

「ただキリストにだけ依り頼む」 マタイ5:13-20
2026.2.8 顕現節第5主日 大牧陸孝牧師
「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節)
 先週の日課マタイ5章1節から12節のところで、イエスは十字架の主に従って生きる者の幸いを語られまして、特に11節と12節とで、神の義を求めてイエスに従って生きる者に生じる迫害や中傷にもかかわらず、それに抗して主イエスの御名を告白し、その信仰を守り通す人々への神の国の約束と喜び、すなわちイエスと信仰者の群れとの命の一層の堅い結びつき・人格的な絆が語られました。今ここに、迫害者として迫るユダヤ教の人々は、自分たちこそ聖書の伝統を保持する者として、あなた方(イエスに従っている人々)を迫害し、断罪しているのですが、それは根本的な間違いであって、実は今迫害されているそのキリスト信徒こそ、旧約の預言者の伝統に正しく繋(つな)がる人々である、とイエスは宣言されたのでした。だからイエスに従う信徒たるもの「躍り上がって喜べ」とイエスは呼びかけ、そして、本日の日課13節以下のところでは、そのイエスに従う群れに対してさらに新たな使命が与えられて行くという流れになっているのです。

 13節から16節でイエスは改めてイエスに従う弟子たちを、旧約の預言者たちと同列に置いて、だからあなたがたはその崇高な使命を遂行しなければならない、と語られるのです。そこで「あなたがたは地の塩である」(13節)、「あなたがたは世の光である」(14節)と、塩と光の隠喩を用いて、神の民・預言者の使命を与えておられるのです。これらの言葉は、教会の伝承の中では多様な文脈の中で様々な意味に解釈されていますが、元来はイエスの告知あるいはイエス自身を指していた塩と光の比喩が、語り伝えられて行く過程で弟子たちに適用されて行ったと見られます。マタイはここで一四節の言葉「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と、この適用を改めて明確にしているのです。

 ローマの著作家プリニウス(AD二三頃〜七九年)が「塩と太陽ほど必須なものはない」と語っているように、塩は古代世界においては人間の生活においては無くてはならないものと見做され、清めるもの、腐敗から防ぐもの、そしてまた味付けるものの象徴として広く用いられておりました。旧約の世界では、さらに律法あるいは契約の比喩にも用いられておりました。塩が何を比喩しているのであるにしても、その文意は明確であります。弟子たちは地、すなわち人間世界に対して働きかけるべき使命があり、その使命を遂行しない限り存在する意味を持たず、神の裁きを受けることになるというのです。

 これと対をなす光の比喩も、弟子であることは自分自身のためではなく、人間世界のためであることを明らかにしています。旧約聖書においては、神のほか、主の使いが諸民族の光と呼ばれ、またユダヤ人は自らを「闇の中にいる者の光」と自負しておりました。(ローマ書2章19節参照)。神の民である弟子は、当然この使命を課せられて行くとイエスは宣言しているのですが、神の民のイメージを「幸い」と描写しながら、同時にそれが、そのような神の民であれという指針を含んでいますように、ここでも、この使命がイエスの弟子であることの定義として述べられていることにこそ注目すべきであります。つまり、ここでは地の塩、世の光りであることは、地の塩、世の光りとなるべきであるという、断言と奨励の意味とを併せ持つものとして、直接に結ばれているのです。

 地の塩、世の光とは、元来はイエスご自身のメシアとしての働きを象徴するものであると、先ほど申しました。パウロは「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」(Uコリント2:14)と語っています。このキリストを知る知識というのは、キリストがわたしたちのために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださったことを知る、神の救いを知る知識のことです。このことを知らないならば、他のどんな深い知識があったとしても、味がなくなってしまう。わたしたちがキリストの救いの出来事を知り、信じるならば、誰でも地の塩であり、キリストの弟子であるということです。マルコ福音書9章50節では「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい」とイエスは言われています。それは言い換えるならば神の救いの恵みをしっかりと受けなさいということです。わたしたちの罪の力が支配する現実の中で、いったいわたしは何のために生きているのだろうかと、人生が虚無的で、無味乾燥に思えて、人生の意味がわからなくなってしまう。そのような失われた状態の中から救い出され、命の主であるイエスに再び結びつけられて、生きる意味と使命とを与えられる、そのような祝福に満ちた主の語りかけをここで改めて受け止めることが重要であります。

 「山の上にある町は、隠れることができない」(14節)。この言葉はある写本ではこの後に、「この町は堅固に固められていて倒れない」という言葉が付け加えられ、町の強さが強調されているのに対して、ここでは町の目立つ存在という点が強調されています。それに続いて語られる光のたとえはこの公共性という点をさらに明瞭に言い表して「ともし火は家の中のものをすべて照らし出す」ためにあると語られます。マタイはこのたとえを16節でより具体的に「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父を崇めるようになるためである」と語ります。イエスの弟子は迫害の中にあっても、くじけて逃げ隠れしてはならず、積極的に世に対して良い行いをもって信仰を証ししなければならない。それは自分が賞賛を得るためでも、その行いを通して自己の救いを獲得するための功績とすることでもなく、人々を神に立ち帰らせるためであります。特にユダヤ教の選民意識と特権意識に抗して、真の神の民が福音の宣教の使命に生きることを自覚して行くことを促す言葉となっているのです。

 17節以下では、イエスの弟子たる者の土台とすべき考え方の基準はどのようなものなのかを語ります。この主題は7章まで続きます。イエスはここで自分たちの考え方の土台となるものは、旧約の律法であると言われます。本日の日課の17節から20節はその短い導入部であり、イエスと「律法と預言」の関係が命題的に述べられて、この後に本論で展開されるイエスの律法の提示と、園実践を総括する一般原則が命題的に提示されて行きます。そこで先ず17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と語られ、モーセの律法と対立的になされるイエスの律法の提示が招きかねない誤解を予め取り除こうとしておられるのです。

 17節から19節で「天地が消え失せるまで、・・・律法の文字から一点一角も消え去ることはない」と律法の遵守を強調していますが、これは初期キリスト教教会での律法理解と評価を巡る論争を反映している断片伝承がまとめられたものであります。ここには律法に関する緻密な論理的展開があるわけではないのですが、しかし、マタイは「律法や預言者」と記すことによって、イエスの教えもまたイスラエルの旧約の救いの歴史の繋(つな)がりで、その究極的な実現とみなされるべきであることを主張しているのです。イエスの出来事において、旧約の律法と預言が本来意図し、目指していたことが実現を見るのであり、律法もこの原則のもとに理解されなければならないと主張しているのです。ですから、旧約の律法はイエスの出現によって有効性を失ったのではなく、世の終わりまで拘束力を持つ(一八節)ことを強調するために、終末論的な出来事に言及して「すべてのことが実現し、天地が失せるまで」という句が付加されているのです。

 イエスは「はっきり言っておく、すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一角も消え去ることはない」イエスは人々に律法を守るように教えただけではなく、ご自分も律法を完成させるべく働くのです。律法というのは、神が人間に与えてくださって、それを人間であるわたし自身が自分のものとして受け止め、わたしが神に対し、また人間に対していかに生きるべきなのか、そういう神の意志を示されたものであります。イエスご自身律法を守ると言うことにおいて欠けたところはありませんでした。両親を敬い、安息日を守り、祈り、施しをする。それだけではなく、他の人がしたこともないことをもなさった、それが十字架によって表れてきたのです。イエスは律法の成就者として来てくださいました。キリストは契約の実現という意味で、旧約聖書に書かれている律法や預言のことばの中にさらにはっきりと神の本来の約束の言葉、神のご意思を読み取ってそれを示されるのです。それは何か、人間を救う働きのことです。

 イザヤ書55章11節に「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と記されています。神のことばは空しく終わらないで、完全に神のご意思を達成するとイザヤは預言しています。それはイエスによる人間の救いの働きのことです。罪人の目には見えない神の働きは確実に進んでいるのです。神が語られる言葉とは、メシアのこと、すなわちイエスのことです。預言者イザヤは、この世に来られ、神の救いの福音を語り、十字架で死んで復活されるイエスのことを知りませんでした。しかし、神の言葉はキリストにおいて完全に成就します。旧約聖書はそのことを証ししている書物であるとマタイ福音書は言っているのです。天地は崩壊して行くであろう。しかし、神の言葉は永遠に変わることはない。人間の作った法も変わって行きます。しかし、神の言葉、神の契約の言葉は、その一点一画も変わることはない。イエスにおいて必ず、人間を救うと言う神の意志は成就するのだとの宣言なのです。

 このように旧約の律法の有効性は、イエスにおいて確定されているのですから、それはただちに弟子たちも実践すべきことであるとの結論が19節から20節において引き出されます。律法はその全体が、最小の戒めであろうともおろそかにされず行われるよう教えられ、また行われなければならず、さらに、弟子たちの律法を守ることにおいての正しさは、自称神の民と銘打つ旧約の律法学者やファリサイ派の人にまさっていなければならない(19節〜20節)と語られます。それは、行為と内面的な動機においてバランス良く主体的に神の意志に従うものであることが要求されているということです。

 この説教を聞いていた弟子たちは、旧約の律法学者やファリサイ派の人を、名だたる旧約の教師として尊敬していました。それに対して、あの人たちにまさって、とイエスは言われているのです。それは弟子たちを驚かせる言葉でした。自分たちには学問もないし、あの人たちの足もとにも及ばない。それなのにどうしたら「わたしたちの義」が「律法学者やファリサイ派の義」にまさるものとなるのか。それは「律法学者やファリサイ派の義にまさる『キリストの義』が『わたしの義』とされることによって初めて、「わたしたちの義」が「律法学者やファリサイ派の義」にまさるものとなるということです。それはまさしく、主イエスのあの十字架と復活の出来事によって、可能となったということです。律法を成就するのはただイエスだけなのです。わたしたちは律法の完成者であるイエスにのみ依り頼むこと、これは、自力で律法を行う律法学者やファリサイ派の人たちの未完成の義に当然まさっています。そのように「律法の完成者であるイエスへの服従こそ律法学者やファリサイ派にまさる義」なのだと、弟子たち及びその周りにいる群衆に向かってイエスは呼びかけられているのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

ページの先頭へ

「新しい幸いに生かされる」 マタイ5:1-12
2026.2.1 顕現節第4主日 大牧陸孝牧師
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5章3節)
 マタイ四章の最初の弟子召命の記事に続きまして、本日の日課は、イエス・キリストの弟子であろうとするものがどのように生きるべきかを教えられたいわゆる「山上の説教」の最初の部分、1節から12節のところです。「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座に着かれると、弟子たちがみもとに近寄って来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」とあります。語られた場所はガリラヤ湖畔の小高い山であったと思われます。腰を下ろすと弟子たちが近寄って来ました。聞き手はこの弟子たちです。しかし、イエスの評判を聞いて、方々から集まって来た群衆も聞き手として加わっていたようですが、しかし、「弟子たちが身元に近寄って来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」とありますので、この説教を語られたのは、「弟子たちに対して」であるということになります。直前の四章で、わたしについて来なさいと言われ、イエスに召し出された人たち、少なくとも、弟子として生きようとしてイエスの許に来ている人々に、イエスに正しく従って生きることの祝福と厳しさを教えられる、そのような目的をもって語られたのだということです。

 イエスは弟子たちに開口一番「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と教えられます。「わたしに従って来なさい」と召し出され、それに応答して、一切を捨ててイエスに従って生きようとしている人たちに、イエスはまず、「あなたがたは幸いである。神の国はあなたがたのものだから」と祝福を語られます。イエスに従って生きることによって直面する苦難、困難を覚悟している弟子たちに、祝福を語られます。イエスの弟子として生きるために「貧しくなった」弟子たち、そのために今「悲しみ」や苦難に耐え、「柔和な人」「憐れみ深い人」として人々に接し、「義に飢え渇き」「義のために迫害を受け」「平和を実現する」「心の清い」弟子となる人たちを祝福されます。

 「心の貧しい人々」とは、誰のことなのか。「心の」という言葉は、マタイが付け加えた言葉で、それまでイエスが語られた言葉として伝えられていたのは、「貧しい人々は幸いである」というものでした。ルカ福音書6章20節では、そのようになっています。これにより、イエスの祝福は一般的に「貧しい人々」「悲しんでいる人々」への祝福であると考えることも出来まして、そのような理解と主張がしばしばなされ、こうした理解には根拠がないわけではありません。

  旧約聖書と新約聖書を読む者に与える強い印象の一つは、「聖書の神」は貧しい者、弱い者、悲しみに打ちひしがれている者を特別に思いやる神、人間の苦しみの現実に眼を注ぐ神であると言うことです。神は最も小さく弱い民イスラエルを選んでご自身の民とされました。イザヤ書61章1節には「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」と書かれています。救い主は、貧しい人に福音を知らせ、捕らわれ人には開放を告知するために来られるというのです。

 新約聖書では、牢の中に捉えられていたバプテスマのヨハネが、イエスの所に来て「来たるべき方は、あなたなのでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」と尋ねたときに、イエスは「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまづかない人は幸いである」(マタイ11章2節〜6節)。困っている人の障害が取り除かれ、貧しい人に福音が告げ知らされていることが、キリストが来ておられることの「しるし」であるというのです。救い主なる神の目は、確かに、「貧しい人」「困窮している人」の上に注がれているのですが、しかし、聖書では福音が語られる状況とは関係のない、いつでも何処にでも当てはまる、人生をどう生きていくかという倫理の体系を語ろうとしているのではありません。特に本日の日課マタイ5章の山上の説教では、群衆を横目に見ながら、山に登って、近くに寄ってきた弟子たちに語られたのですから、これは、イエスに従おうと決意したものに与えられる「服従の道」(ナッハフォルゲ)の道を示したものであると見ることが出来ます。

 イエスはこの弟子たちを見つめながら、「貧しい人々は幸いである」と語られたのは間違いありません。弟子たちは、イエスの招きに直ちにすべてを捨てて従いました。イエスに従って行くことの結果としての「貧しさ」という犠牲・損失を被ることをも意に介することはありませんでした。あるいはそこまで考え及ぶこともなかったのかもしれません。マタイ福音書19章16節以下に、イエスに「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問う「金持ちの青年」のことが書いてありますが、この問いに対してイエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われ、この言葉を聞いた青年は、イエスの前から「悲しみながら立ち去った」と書かれています。青年は、イエスに従うための犠牲、損失を受ける決断が出来ませんでした。それで、どう生きて行けば良いのかと言う大変重要な問いをイエスに出しながら、イエスの前から「立ち去る」ほかはありませんでした。そして、それとともに、「天に宝を積む」すなわち、「永遠の命」を得る道を自分から失うことにもなったのです。

 それに対して、使徒たちの場合は、イエスに「わたしについて来なさい」と招かれた時、すぐに網を捨て、父と雇い人と舟を残し、生活の資の何もかも捨ててイエスの後について行きました。このようにしてイエスに従って行った弟子たちは実際に貧しくなるほかはなかった、そうなのですが、しかし、マタイはただ「貧しい人」とは言わないで「心の貧しい人」と言いました。この世の富『生活の資』と栄誉とをすべて捨てて、それ故に今貧しく生きている弟子たちの姿は一途にイエスに従って生きていることの結果なのです。この当時のユダヤ教では、「心の貧しさ」とは、信仰のゆえに神に従う厳しさを受け入れ、すべての希望を神に置く「正しい人」の「しるし」と考える者もあったということです。そのことから、イエスに従い、その故に貧しくなり、すべての希望を神に置くこの弟子たちこそが、まことに「貧しい人々」であるという意味になり、このような弟子たちに対して、イエスは「心の貧しい人々は幸いである」と言われ、また弟子たちもすべてのものを捨てて、イエスに従って行くと言う構図が見えてきます。

 「幸い」と訳されたギリシャ語「マカリオス」の本来的な意味は、「最高度の幸福と幸福感」を現します。旧約聖書の中にも、「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩編1章1節〜2節)とか、「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆って頂いた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない者は」(詩編32章1節〜2節)の例があります。これらは、神の掟を守る者や神に罪赦された者のさいわいというように、神との交わりがもたらすさいわいに力点が置かれています。つまり、神から与えられた「祝福」「救いの喜び」を表すもので、人格的な神との深い交わりの喜びを軸としていて、人間が幸福追求的に生きるのではなく、神とそのご意志に従って生きようと努めるときに、神から与えられるたまものとしての喜びのことであります。「まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6章33節)目的として追求される幸福ではなくて、結果として与えられる幸いです。

 ここに挙げられております九つの「祝福」のうち、10節までの八つは「・・・する人々は幸いである」と三人称で語られているものと、「あなたがたは幸いである」と二人称複数でいわれている一句とがありますがこれは二つの伝承がつなぎ合わされた結果生じた表現の違いです。内容的には6節までの部分では、祝福された人間の状態、その人たちの環境的側面が示されており、7節から12節では祝福された人間の態度、その人の主体的側面が示されています。

 「こころ」プネウマは「霊」と訳した方が適切であろうと思われます。根源から見られた人間の全体を指していて、「その存在の内奥に至るまで徹底的に貧しい人」ということです。自分の内側によりたのみ誇りとすべき何者をも持っていない。神の祝福はこのような者に注がれるのです。ここには神の恵みの徹底的な無償性が示されています。神の愛が支配するところでは、人間の側からは何も生まれ出ないような無価値な捨てられた人間をこそ、神はご自分の民として迎え入れられる。これは旧約以来の約束でありました(イザヤ書61章1節〜3節)。

 「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」への四つの祝福は絶望的な状況の中で神を待つ者に向けられています。彼らは全く不幸な人たちであります。この世で現在最も不幸な者が幸いであるというのです。これは貧しさ、悲しみ、賤しさ、虐げがそれ自体として価値があると言っているのでありません。それらはまったくわたしたちの生活から取り除かなければならない不幸であり悲惨であります。しかし、人間の闇が深ければ深いほど星の輝きは明るさを増して感じられますように、この世の罪の陰惨さと悲惨のどん底に於いてこそ、神の約束は切実さをもって受け止められ、その約束を与えたもう主イエスの力の大きさ、恵みの深さを知らされることになるのです。「彼らは、その悲惨の中にあって神の国に直面し、人間イエスによって革新さるべき世界の淵に立っているのです。彼らの悲惨において、そのような世界の破れは表れ、世界は神の恵みの内に保たれていることを発見するのだ」。それが悲惨の中でのさいわいなのである。(カール・バルト和解論)

 7節から10節までは祝福を受ける人間の主体的な態度が取り上げられます。「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」は、「清い」ということばがキーワードとなるでしょう。旧約聖書では「清い」はコーデッシュ「聖」という言葉で言い表されます。汚れがないという意味であると同時に、取り分けられて神に属するものとなるという意味で、純粋に神の恵みに心を開き、依り頼んでいる人のことを表しています。ボンヘッファーは言います。「心の清い人とはだれであろうか。自分の心をイエスに全く捧げ、そうしてイエスのみが心の支配者であるような、そういう人、その心を自分自身の悪によって、さらに自分自身の善によっても汚さないような、そういう人だけである。清い心とは、善悪を知らない幼児の無邪気な心であり、堕落前のアダムの心、そこでは人間の良心ではなくてイエスのみ心が支配している心、そういう心である」

 真の人間解放と人間回復のために神は憐れみと恵みをもってわたしたちの所に来てくださった。その神の働きへと神はわたしたちをも恵み深く呼び出していてくださる。マタイ5章3節〜12節に示されているのは、神の国をもたらす働きをしている主である方の御心を自らの心として生きる証人の姿であります。それは具体的には主イエス・キリストご自身の姿です。「イエスが人間に対して何を求めたもうかをわたしたちに語りたもうた時、それによってイエスは、自分がどのような道を選んだかを明らかにされたのである」(シュラッター)。主イエスは十字架の道を辿(たど)って勝利の祝福を語られた。イエスの民もまたこの道を辿(たど)ることによって、主の祝福に与る者とされるのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

ページの先頭へ

 ◆バックナンバーはこちらへ。





information


日本福音ルーテル賀茂川教会


〒603‐8132
京都市北区小山下内河原町14

TEL.075‐491‐1402


→アクセス