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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2026年2月礼拝説教


★2026.2.22 「試される主の言葉」マタイ4:1-11
★2026.2.15 「イエスの他には誰もいない」
★2026.2.8 「ただキリストにだけ依り頼む」 マタイ5:13-20
★2026.2.1 「新しい幸いに生かされる」 マタイ5:1-12

「試される主の言葉」マタイ4:1-11
2026.2.22 四旬節第1主日 大牧陸孝牧師
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ4章4節)
 先週わたしたちはマタイ福音書17章1節〜9節の主の変貌の箇所を読みました。主であるイエスがわたしたちの中に栄光の主として来てくださり、わたしたちと共にいてくださることを学びました。本日はマタイ4章1節以下の所に戻って、主イエスが荒れ野に導かれて、サタンの誘惑に遭われるところです。

 マタイ福音書が書かれたのは紀元後70年半ばから110年までの間と推定されます。書かれた場所はシリア地方で、ユダヤ人キリスト教会が主要な構成員であり、律法を重視するユダヤ教の特徴を継承しておりました。ユダヤ人キリスト者と言いましても、いくつかのタイプがありまして、その多くは異端的なキリスト教でありました。その中にはユダヤ教より継承する律法遵守を強調するあまり、これを救いに不可欠な条件として外国人信徒にも強要するものであったり、ペトロよりもヤコブを重要視して「真の預言者、使徒」であるとして、ヤコブに使徒的最高権威を認め、パウロの使徒性を否定し、イエスの神性を否定するもの、グノーシス的な神秘主義に陥る教会など、後の時代に異端的キリスト教とされたものが存在していました。当時のユダヤ人キリスト教会には、統一された正統的な信仰や神学がまだ確立しておりませんでした。

 そのような中で、マタイ福音書を信仰の基準として受け入れたシリアのキリスト教会でも、教会を構成していたのはユダヤの地を追放されたユダヤ人キリスト者や、いわゆるディアスポラ(散らされた)・ヘレニストのユダヤ人キリスト教徒、また外国人キリスト教徒でありました。この教会はエルサレムの教会との結びつきはなく、独立しておりましたが、ここにもラビ的ユダヤ教の厳格な律法解釈に立ってイエスの教えを再解釈する者や、反対に反律法主義的立場の者もおりました。

 マタイはこうした状況のもとでユダヤ人キリスト教会に使徒的伝承を伝え、また継承させようと努めているのです。そのためにマタイはイエスの言葉と働きに関係している証言を旧約聖書から引用して、正統派キリスト教の成立を促進させます。そしてまた、マタイは外国人の救いも宣教の視野に入れ、彼らを「真のイスラエル」に迎え入れています(28章19節)。当時のシリアの原始キリスト教会はシリアのアンティオキアを中心としていました。ここはローマ、アレキサンドリアに次ぐ大商業都市で人口は五〇万、そのうちでユダヤ人が約10パーセントを数え、ユダヤ教の会堂もありました。この地域にキリスト教が伝えられたのはイエスの死後間もない紀元33年ごろで、伝道者パウロはその数年後にこの都市で宣教活動を始めています。教会はユダヤ教からは裏切り者扱いをされ、頻繁にユダヤ教からの迫害に遭い、ユダヤ教に対する宣教はほぼ不可能となっていました。さらにキリスト教会はヘレニズムの世界の異教徒からも不穏分子と見做されていました。マタイは「種を蒔く人のたとえの説明(13章18節〜23節)で、教会に「御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまう人」が現実にいることを反映させているのです。このような憂慮すべき深刻な状況の教会に対してマタイは〈荒れ野の誘惑〉物語を語り、旧約聖書から引用してサタンの試みを退けるイエスの言葉を信仰の模範とし、イエスに倣って神の誠実な信仰者、「真のイスラエル」であれと説諭しているのです。

 マタイはこの誘惑物語でイエスを、旧約の律法の伝授者モーセと類似させて、モーセ像にイエスの原型を求めながら、しかもイエスがモーセを超えるメシア〈救い主〉であると宣教しています。荒れ野で誘惑を受けるイエス像は、エジプト脱出(紀元前13世紀)を遂げた後シナイ半島とユダの荒れ野の長途の旅を導いたイスラエルの指導者モーセを原型としています。モーセはイスラエルの民に神から律法を授与するために四十日四十夜シナイの山に入りますが、イエスも荒れ野に行き、四十日間、昼も夜も断食をし、律法を弟子と民衆に伝授するために山に登られます。また神の律法を民に伝授しようとシナイ山を下る時のモーセに顔の変貌があった(出エジプト34:29〜35)ように、山上のイエスの姿にも変容が起きたと記します。しかし、マタイはイエスをイスラエルに律法を賦与し、その民を神の約束の地に導いたモーセを遙かに超えた神の「愛する子」そして終末の時に現れる天的存在メシアであると宣言します。

 マタイ福音書のイエスの誘惑の中には、イスラエルの世界征服を達成できないイエスにメシア性を認めようとしないユダヤ教の激しい反対に対して、イエスをこそ「神の子」真実のメシアであるとする信仰の展開が認められます。そして、ここにはローマ皇帝の権力に対する無力抵抗、すなわち力尽くでイスラエルを神の支配下に置こうとする熱心党を中心とするユダヤ人の氾濫に荷担することをしなかった原始キリスト教会の立場を弁明する意図もあって、マタイは彼独自のキリスト論をここに展開しています。

 メシアの救い主の徴として「石がパンになるよう命じて見よ、そしてモーセとその民に神がなされたマナの奇跡(出エジプト16:15〜36)を再現して見せよ、メシア出現の場所と伝え聞く神殿の屋根(エゼキエル47:1〜12)から下へ身を投げて見ろ、そこで衆目を得て奇跡を行いメシア出現を万人に納得させたらどうか、サタンに屈し、その力を借りて世界支配を達成させて、イスラエルの民の賞賛を独り占めしてはどうか」など、三つの誘惑をすべて退けたイエスこそ真実のメシアであると、マタイは主張しているのです。これらの誘惑を退けたイエスの言葉を、マタイはルカ福音書と同じく旧約聖書から引用しています。

 マタイ福音書はここのイエスの言葉については、ルカ福音書と共通のイエス語録集に拠っています。この語録集はイエスの奇跡よりもイエスの言葉を主に収録したもので、イエスを単なる奇跡行為者とせず、経済的、政治的、宗教的誘惑を拒否するイエス、またユダヤ教が期待する民族的、現世的メシアとは全く違うイエスを伝承し、イエスの死よりも彼の言葉を重視して、迫り来る終末と裁きに備えよと宣教するのがこの資料の特徴であります。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉からは、これを聞く人々の社会的階層は、主に都市に住む自営の商工業者や自営農民であり、メシアに奇跡を期待するよりもイエスから神の言葉(福音)を聞くことに関心を持ち、イエスが示す新しい律法を遵守する「真のイスラエル」であろうとする人たちであったと推測されます。この市民は、当時「地の民」(アム・ハー・アーレツ)と呼ばれたユダヤ社会最下層の人々を主とする教会とは異なる独自の教会を形成していた人々と考えられます。

 マタイはここで、イエスが「すべての義を満たす」〈神のご意志を完全に成就する〉ため(3:15)、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、霊に満たされた者となって悪魔の権力と戦い、試練に耐えて、自分を救うのではなく、(27:40)、死に至るまで父なる神に忠実であり続け、試練に遭っても主なる神の救いを堅く信頼したイエスをもって、原始キリスト教会の模範としていると見ることが出来ます。

 10節では「サタン」とも呼ばれる「悪魔」がイエスを試みるのですが、この悪魔はマタイでは、誹る(そしる)者、敵対者、破壊者のことであり、悪魔どもの最高位者、君主として悪霊どもの王国を支配して、天の御国とその支配に対立する存在のことを言っています。これは元来古代ユダヤ教に見られる神に対抗する悪魔の存在を認める二元論的思想であり、天の王国を支配する神に敵対し人間を神から離反させ、不従順に誘い込んで危険にさらし、汚れをもたらす悪の根源とされる者のことです。こうした悪魔の存在は新約聖書にも多く見られ、悪魔とその支配下の悪霊どもは終末時には完全に滅ぼされるとする古代ユダヤ教の終末論を継承し、イエスが地上に現れて悪魔を徹底的に滅ぼして天の王国の始まりをもたらすと宣教しています。

 このようにマタイは、メシアの徴を奇跡に求める態度を悪魔の業とし、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことの重要性を説いているのです。当時のローマ帝国の直轄地となっていたシリア地方は、ローマ帝国の最重要国境地域でありました。ここに居住するディアスポラ・ユダヤ人(離散のユダヤ人)はユダヤ教徒であれ、キリスト教徒であれローマの権力に抵抗し、奇跡を行うメシアの出現によって奇跡的な勝利をもたらすことを期待していたのでした。この対ローマへのユダヤ人の武力的反抗は、イエスにとっては、まさにサタンの誘惑の現実化そのものでありました。それは奇跡的な救いを与える神への信頼を装いながら、実は神に奇跡を強要するサタンの業に他ならないことを示唆し、マタイはこのとき教会に対し、〈霊によって荒れ野に導かれたイエス〉が「神の霊で悪魔を追い出し」神の国を信仰者たちにもたらすと宣教し、終末の時を待望するようにと説き、メシアに求めるべきは奇跡行為ではなく、神の霊の働きであると説いているのです。

 こうしてマタイの誘惑物語はわたしたちの今の時代を問うことを教え、全世界を混乱と争いに巻き込んでいる悪魔的な力に勝利するイエスの道を示しているのです。わたしたちにとってイエスは終末の時に「来たるべき方」であり、神の国到来の徴であり続けるのです。この「時の徴」を見分けるわたしたちは、悪魔の誘惑に勝利したイエスをメシアと信じ、御国の福音を受け入れて、「真のイスラエル」となり、イエスの御言葉、御国の福音を述べ伝え、人々に来たるべき終末のメシア到来を待望させる宣教にいそしむことを使命として与えられているのです。

 荒れ野をイスラエルの風土で言うならば、岩と砂が象徴する荒涼とした場所のことで、住む人のいないところ、見捨てられた町、住民の少ない地域であります。また人里離れた寂しいところをあらわします。人であれ、事柄であれ、それを捨てるところ、また捨てられる場所、捨てるために出て行く場所であります。イエスは人々から離れた寂しいところで独り祈られました。公生涯が始まる荒れ野での試みはそのことと対応している重要な内容を含んでいます。そのことをイエスの霊性と呼んでよいかと思います。

 聖書は人間の誘惑やその克服については余り多くのこと語っていません。ボンヘッファーによりますと、「イエスの誘惑は、父なる神が、戦いに備えてあらゆる力と武器とをみ子に与えたということによって始まるのではなく、聖霊がイエスを荒れ野に、孤独の中に、見捨てられた状態の中に導いたことによって始まるのである。・・・誘惑を受けたとき、イエスは弱く、孤独で、しかも空腹である自分を見出さなければならなかった。このように、誘惑において神は、人間を一人にしておく」。と語ります。荒れ野は人間の弱さを担わなければならない場所でありました。イエスは、経済的な豊かさ、宗教的な名望、政治的な権力を捨てることによって、人間である弱さの限界のただ中で、神の言葉に生き、神を試みることをしないで、神にのみ仕える生き方をしたのです。神の子としての使命を遂行するために、万民を魅了する手段を用いることをサタンの誘惑として退け、神の意志にのみ聞き従い、神によって定められた道を忠実に歩むことを選びました。

 この誘惑に勝利したイエス自身は、神への信従と言う律法の根本的要求に応えた忠実な真の信仰者として、自分に従う者たちへの規範とみなされてもいるのです。イエスは、旧約時代にイスラエルが荒れ野の放浪中に挫折した誘惑を、真のイエスラエルとして克服したのです。イエスの神の子たる身分は、真のイスラエル人として律法を忠実に実行したことにおいて証明されることになったのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「イエスの他には誰もいない」
2026.2.15 主の変容主日 大牧陸孝牧師
「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」(マタイ17章7-8節)
 本日の礼拝は、教会歴では主の変容主日です。次週からは四旬節(受難節)に入ります。十字架に向かって歩み始める時に「主の変容」の出来事があったからです。先ず始めに本日の日課の前後の文脈を確認して、キリストの変貌の意味、それがわたしたちの信仰生活に対して持っている意味について考えて行きたいと思います。

 本日の日課を含む前後の16章13節〜17章27節を一つの主題で表現するならば『苦難のメシアの啓示』ということになるでしょう。十字架への道の第一歩が踏み出される。カイザリア途上、「それではあなたがたはわたしを何者だというのか」と尋ねたイエスに対してシモン・ペトロが答えた「あなたはメシア、生ける神の子キリストです」というキリスト告白は、マルコと同様に、受難への出立の文脈に置かれます。しかし、この告白の意味は八〇年代の教会の状況に照らして理解される必要があります。ペトロの告白は教会の完全な告白であり、「キリスト」に「生ける神の子」が付け加えられ、「キリスト」という独立した伝承に結びつけて、神から直接的に与えられた啓示として次のようなイエスの祝福を受けます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(16章17節)と、教会の基礎である地上と天国の鍵の授与がペトロに約束されます。

 この付け加えによって、ペトロに天からの救済の根拠が与えられこと、しかもペトロの特別な職務への任命を強調しているのです。それは、ユダヤ教の権威からの自由と独立の表明でもありました。「あなた(ペトロ)が地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(19節)と言われている「つなぎ、解く」とは、ユダヤ教のラビが持つ法の拘束力の有無を布告する教権と懲戒権を意味した表現で、そのような権威を排他的に主張していたヤムニアのラビたちに対して、ペトロこそが神からのそのような権威を与えられ、ペトロの決定こそが天上で、すなわち神の御前で有効なのだ、と主張しているのです。

 そしてマルコ福音書では「自分について誰にも言ってはいけない」(いわゆるメシアの秘密)と記されていた沈黙命令が、マタイでは「自分がキリストであるという」内容規定が付け加えられ(20節)、それに続いて「エルサレムに行き、多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」(21節)という予告が続くのです。沈黙命令は、メシア的な威厳の認識が、イエスの苦難を自らの苦難として引き受ける覚悟のある者たちにだけ与えられることを示しているのです。ユダヤ教の熱烈な政治的メシア待望がもたらした不幸な結果(ユダヤ教指導者層による教会迫害とローマ帝国による弾圧)を体験し、なお冷めやらぬその力を実感するマタイにとって、この沈黙命令は意味深長でありました。ですから、受難予告にすぐ続く「十字架の苦難の道への信従」(24節〜28節)は弟子に対してのみ与えられた教えであり、これを理解しない人は、教会の土台であると宣言されたばかりのペトロでさえも、「サタン」(神に逆らう者)として叱責されることになるのです。イエスを救い主として告白する信仰告白と十字架への苦難の道を歩む主イエスの後に従うこととの密接な繋がりを示された後で初めて、「人の子は誰か」の完全な答えが与えられて行きます。それは、終末時に来臨し、この世を審判する「人の子」であります。(27節〜28節)このようにイエスへの信仰において神に従うということを終末論的に表現されているのです。

 このようにして、本日の日課17章1節「六日の後」と続く「山上の変貌」は、直前ののイエス告白と受難予告と密接に結びつく形で記されて行きます。六日とは一週間の枠の中に入り、これから起こることは16章からのつながりで理解すべきであるということを示しています。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」(2節〜3節)このイエスの栄光の啓示は、イエスの受難、すなわち、ユダヤ民族の指導者たちに捨てられるメシアについての予告とは対象を成した構成になっていて、神の子・キリストの栄光は弟子たちの知るところとなるのですが、しかし、弟子たちは「非常に恐れ」ます。その弟子たちの恐れは変貌の光景に恐れたのではなく、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と語る天上からの声に対する恐れでありました。この天上からの声は、申命記18章15節を想起させるものであります。マタイは単に直前の受難予告だけではなく、真の律法であるイエスの教え全体を念頭に置いていると推測されます。

 これでわかりますように、マタイの山上の変貌は、イエスのメシア性が神から認証された出来事であったことを明示しているのです。しかし、ユダヤ教の学者は、旧約の預言者エリヤによってなされた、すべてのものが更新されるという預言は、まだまだ先の将来に起こることだと教えているのですが、イエスはそれに対して、洗礼者ヨハネとエリヤをはっきりと同定しています。(13節)これにより、弟子たちは律法学者の教えの誤りを知ることとなります。

 以上のように本日の日課の前後を通して読んでみますと、イエスとは誰かが明確に語られているということが分かります。「キリストの変貌」は変化したという意味ではなく、その本質が示されたということです。「復活」と関係し、明確に復活する方を意味しています。地上のイエスは十字架へと歩んで行き、苦しみを身に受けるのですが、そこでは、しかし同時に復活の栄光をも先取りしているということでもあります。主イエスとは誰か。それはわたしたちのために、わたしたちに代わって十字架におかかりになる方、おかかりになった方であり、またわたしたちのために復活なさった方であります。「キリストの変貌の意味」それは主イエスが、イエスを主と信じて、今日もその主が共にいてくださると信じる時に、どういう主が共にいてくださるのか、それを聖書は示しているのです。

 本日の日課の直前の16章27節に「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちとともに来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」と言われています。再臨のキリストは、父の栄光に輝いて天使たちと共に来て、最後の審判を行うというのです。そういうことで「光輝く栄光のキリスト」は「復活の主」であり、また終わりの時の審判の主でもあると言われているのです。地上に来られたイエスに、その本質がすでにあることを示したのが「変貌の出来事」であったのです。

 「光輝く雲の中から声が聞こえた」(5節)は、出エジプト記24章のシナイ山でモーセが体験した神の啓示を想起させるものですが、ここでは雲は同じく神の臨在を示していると同時に、これを人の目から隠す働きもしています。この雲によって、モーセとエリヤの姿は見えなくなり、その背後から「神の言」だけが聞こえて来たのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5節)という言葉は、同じくマタイ福音書が語るイエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時に、水の中から上がられたイエスの上に、天から臨んだ呼びかけと全く同じであります。あのときの宣言が、ここで更新され、再確認され、さらに「これに聞け」という言葉が付け加えられています。神が直接ご自身を啓示し、その中で求めていますことは、霊的な高揚を体験している中で天的な存在と一つに結ばれて、宗教的な恍惚を楽しむことではなく、イエスの言葉に聞き従うこと、そして、死に至るまでの服従を貫くことであります。そのようにイエスに聞き従う道は十字架の道を辿るイエスの後に従う以外にはあり得ません。

 「弟子たちはこれを聞いて倒れ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」(6節〜8節)この恐れは神の臨在に対する恐れであると先ほど申しました。弟子たちはイエスの死後、さまざまな困難に直面し、何度も何度も倒れ伏すのでありますが、その度に、この慰めと激励の言葉を繰り返し聞くことになります。イエスの言葉はそれだけではなく、わたしたちの人生の現実に力と方向を与えます。イエスの言葉に従うことによってこそ、わたしたちの現実に確かな命の根拠が与えられることになる。主イエスの言葉は、わたしたちが神の御心を尋ね求め、それに聞き従い、その神の御旨を実現する新たな道を歩む基盤である。だからこれに聞けと、神はわたしたちに呼びかけられているのです。

 このようにして、再びイエスと三人の弟子だけが後に残され、幻は跡形もなく消え去りました。弟子たちの心には、神の深い真実が刻み込まれたに違いありません。それは今、目の前にいるイエスは、現在される救い主なのだという真実です。わたしたちの時間と空間の中に、神の永遠が入って来た、というのがこの「イエスの姿の変貌の出来事」の意味でありました。今日も神である主が、わたしたちと共にいてくださるということです。神はあえてわたしたち人間の現実の世界に降りて来られ、人間の苦悩、重荷、罪と連帯し、苦難と死を味わう道を選ばれたのでした。この後の17章12節には「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」と語られます。

 わたしたちは弟子たちのように、二千年前の地上のイエスの時代にいるわけではありません。主が復活され、やがて終わりの時に栄光の主として来臨される、その間の「中間の時」にいるのです。主の復活と最後の来臨との間にわたしたちは生きています。ですから、地上のイエスを弟子たちが目で見たようには見ることができません。しかし、目で見ることはできませんが、イエスの言葉を通して主イエスに結ばれています。また聖礼典を通して主イエスに結ばれています。それはわたしたちのために苦しみと死をかわって受けられた主であり、光り輝く栄光の主です。本日の福音書の日課の箇所は、今日生ける実在の主イエスが栄光の主であることを知らせてくれます。

 主イエスは今朝もわたしたちに手を触れていわれます。「起きなさい。恐れることはない」。神の臨在を恐れなくてもよい。それは主イエス・キリストがわたしたちのために存在し、わたしたちを神との和解に入れてくださり、平安を与えてくださるお方だからです。「恐れることはない」というのは、あなたの罪は購われ、赦されたということです。神との平和の中に入れられているということです。そして、「起きなさい」というのは、神の新しい命に生きなさいということです。イエスはそのように言われて、わたしたちを助け、立たせてくださるのです。そして、「イエスのほかにはだれもいなかった」と結ばれます。キリストを信じ、栄光のキリストと共にいるということは、キリストに聞きつつ、キリストの手に触れられて起き上がり、立たされて、恐れることなく生かされることであります。イエスのほかだれもいない、というのは孤独で寂しいということではありません。他には誰もいないという仕方で栄光の主がわたしと共にいてくださるという大いなる恵みがそこにはあるのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「ただキリストにだけ依り頼む」 マタイ5:13-20
2026.2.8 顕現節第5主日 大牧陸孝牧師
「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節)
 先週の日課マタイ5章1節から12節のところで、イエスは十字架の主に従って生きる者の幸いを語られまして、特に11節と12節とで、神の義を求めてイエスに従って生きる者に生じる迫害や中傷にもかかわらず、それに抗して主イエスの御名を告白し、その信仰を守り通す人々への神の国の約束と喜び、すなわちイエスと信仰者の群れとの命の一層の堅い結びつき・人格的な絆が語られました。今ここに、迫害者として迫るユダヤ教の人々は、自分たちこそ聖書の伝統を保持する者として、あなた方(イエスに従っている人々)を迫害し、断罪しているのですが、それは根本的な間違いであって、実は今迫害されているそのキリスト信徒こそ、旧約の預言者の伝統に正しく繋(つな)がる人々である、とイエスは宣言されたのでした。だからイエスに従う信徒たるもの「躍り上がって喜べ」とイエスは呼びかけ、そして、本日の日課13節以下のところでは、そのイエスに従う群れに対してさらに新たな使命が与えられて行くという流れになっているのです。

 13節から16節でイエスは改めてイエスに従う弟子たちを、旧約の預言者たちと同列に置いて、だからあなたがたはその崇高な使命を遂行しなければならない、と語られるのです。そこで「あなたがたは地の塩である」(13節)、「あなたがたは世の光である」(14節)と、塩と光の隠喩を用いて、神の民・預言者の使命を与えておられるのです。これらの言葉は、教会の伝承の中では多様な文脈の中で様々な意味に解釈されていますが、元来はイエスの告知あるいはイエス自身を指していた塩と光の比喩が、語り伝えられて行く過程で弟子たちに適用されて行ったと見られます。マタイはここで一四節の言葉「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と、この適用を改めて明確にしているのです。

 ローマの著作家プリニウス(AD二三頃〜七九年)が「塩と太陽ほど必須なものはない」と語っているように、塩は古代世界においては人間の生活においては無くてはならないものと見做され、清めるもの、腐敗から防ぐもの、そしてまた味付けるものの象徴として広く用いられておりました。旧約の世界では、さらに律法あるいは契約の比喩にも用いられておりました。塩が何を比喩しているのであるにしても、その文意は明確であります。弟子たちは地、すなわち人間世界に対して働きかけるべき使命があり、その使命を遂行しない限り存在する意味を持たず、神の裁きを受けることになるというのです。

 これと対をなす光の比喩も、弟子であることは自分自身のためではなく、人間世界のためであることを明らかにしています。旧約聖書においては、神のほか、主の使いが諸民族の光と呼ばれ、またユダヤ人は自らを「闇の中にいる者の光」と自負しておりました。(ローマ書2章19節参照)。神の民である弟子は、当然この使命を課せられて行くとイエスは宣言しているのですが、神の民のイメージを「幸い」と描写しながら、同時にそれが、そのような神の民であれという指針を含んでいますように、ここでも、この使命がイエスの弟子であることの定義として述べられていることにこそ注目すべきであります。つまり、ここでは地の塩、世の光りであることは、地の塩、世の光りとなるべきであるという、断言と奨励の意味とを併せ持つものとして、直接に結ばれているのです。

 地の塩、世の光とは、元来はイエスご自身のメシアとしての働きを象徴するものであると、先ほど申しました。パウロは「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」(Uコリント2:14)と語っています。このキリストを知る知識というのは、キリストがわたしたちのために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださったことを知る、神の救いを知る知識のことです。このことを知らないならば、他のどんな深い知識があったとしても、味がなくなってしまう。わたしたちがキリストの救いの出来事を知り、信じるならば、誰でも地の塩であり、キリストの弟子であるということです。マルコ福音書9章50節では「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい」とイエスは言われています。それは言い換えるならば神の救いの恵みをしっかりと受けなさいということです。わたしたちの罪の力が支配する現実の中で、いったいわたしは何のために生きているのだろうかと、人生が虚無的で、無味乾燥に思えて、人生の意味がわからなくなってしまう。そのような失われた状態の中から救い出され、命の主であるイエスに再び結びつけられて、生きる意味と使命とを与えられる、そのような祝福に満ちた主の語りかけをここで改めて受け止めることが重要であります。

 「山の上にある町は、隠れることができない」(14節)。この言葉はある写本ではこの後に、「この町は堅固に固められていて倒れない」という言葉が付け加えられ、町の強さが強調されているのに対して、ここでは町の目立つ存在という点が強調されています。それに続いて語られる光のたとえはこの公共性という点をさらに明瞭に言い表して「ともし火は家の中のものをすべて照らし出す」ためにあると語られます。マタイはこのたとえを16節でより具体的に「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父を崇めるようになるためである」と語ります。イエスの弟子は迫害の中にあっても、くじけて逃げ隠れしてはならず、積極的に世に対して良い行いをもって信仰を証ししなければならない。それは自分が賞賛を得るためでも、その行いを通して自己の救いを獲得するための功績とすることでもなく、人々を神に立ち帰らせるためであります。特にユダヤ教の選民意識と特権意識に抗して、真の神の民が福音の宣教の使命に生きることを自覚して行くことを促す言葉となっているのです。

 17節以下では、イエスの弟子たる者の土台とすべき考え方の基準はどのようなものなのかを語ります。この主題は7章まで続きます。イエスはここで自分たちの考え方の土台となるものは、旧約の律法であると言われます。本日の日課の17節から20節はその短い導入部であり、イエスと「律法と預言」の関係が命題的に述べられて、この後に本論で展開されるイエスの律法の提示と、園実践を総括する一般原則が命題的に提示されて行きます。そこで先ず17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と語られ、モーセの律法と対立的になされるイエスの律法の提示が招きかねない誤解を予め取り除こうとしておられるのです。

 17節から19節で「天地が消え失せるまで、・・・律法の文字から一点一角も消え去ることはない」と律法の遵守を強調していますが、これは初期キリスト教教会での律法理解と評価を巡る論争を反映している断片伝承がまとめられたものであります。ここには律法に関する緻密な論理的展開があるわけではないのですが、しかし、マタイは「律法や預言者」と記すことによって、イエスの教えもまたイスラエルの旧約の救いの歴史の繋(つな)がりで、その究極的な実現とみなされるべきであることを主張しているのです。イエスの出来事において、旧約の律法と預言が本来意図し、目指していたことが実現を見るのであり、律法もこの原則のもとに理解されなければならないと主張しているのです。ですから、旧約の律法はイエスの出現によって有効性を失ったのではなく、世の終わりまで拘束力を持つ(一八節)ことを強調するために、終末論的な出来事に言及して「すべてのことが実現し、天地が失せるまで」という句が付加されているのです。

 イエスは「はっきり言っておく、すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一角も消え去ることはない」イエスは人々に律法を守るように教えただけではなく、ご自分も律法を完成させるべく働くのです。律法というのは、神が人間に与えてくださって、それを人間であるわたし自身が自分のものとして受け止め、わたしが神に対し、また人間に対していかに生きるべきなのか、そういう神の意志を示されたものであります。イエスご自身律法を守ると言うことにおいて欠けたところはありませんでした。両親を敬い、安息日を守り、祈り、施しをする。それだけではなく、他の人がしたこともないことをもなさった、それが十字架によって表れてきたのです。イエスは律法の成就者として来てくださいました。キリストは契約の実現という意味で、旧約聖書に書かれている律法や預言のことばの中にさらにはっきりと神の本来の約束の言葉、神のご意思を読み取ってそれを示されるのです。それは何か、人間を救う働きのことです。

 イザヤ書55章11節に「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と記されています。神のことばは空しく終わらないで、完全に神のご意思を達成するとイザヤは預言しています。それはイエスによる人間の救いの働きのことです。罪人の目には見えない神の働きは確実に進んでいるのです。神が語られる言葉とは、メシアのこと、すなわちイエスのことです。預言者イザヤは、この世に来られ、神の救いの福音を語り、十字架で死んで復活されるイエスのことを知りませんでした。しかし、神の言葉はキリストにおいて完全に成就します。旧約聖書はそのことを証ししている書物であるとマタイ福音書は言っているのです。天地は崩壊して行くであろう。しかし、神の言葉は永遠に変わることはない。人間の作った法も変わって行きます。しかし、神の言葉、神の契約の言葉は、その一点一画も変わることはない。イエスにおいて必ず、人間を救うと言う神の意志は成就するのだとの宣言なのです。

 このように旧約の律法の有効性は、イエスにおいて確定されているのですから、それはただちに弟子たちも実践すべきことであるとの結論が19節から20節において引き出されます。律法はその全体が、最小の戒めであろうともおろそかにされず行われるよう教えられ、また行われなければならず、さらに、弟子たちの律法を守ることにおいての正しさは、自称神の民と銘打つ旧約の律法学者やファリサイ派の人にまさっていなければならない(19節〜20節)と語られます。それは、行為と内面的な動機においてバランス良く主体的に神の意志に従うものであることが要求されているということです。

 この説教を聞いていた弟子たちは、旧約の律法学者やファリサイ派の人を、名だたる旧約の教師として尊敬していました。それに対して、あの人たちにまさって、とイエスは言われているのです。それは弟子たちを驚かせる言葉でした。自分たちには学問もないし、あの人たちの足もとにも及ばない。それなのにどうしたら「わたしたちの義」が「律法学者やファリサイ派の義」にまさるものとなるのか。それは「律法学者やファリサイ派の義にまさる『キリストの義』が『わたしの義』とされることによって初めて、「わたしたちの義」が「律法学者やファリサイ派の義」にまさるものとなるということです。それはまさしく、主イエスのあの十字架と復活の出来事によって、可能となったということです。律法を成就するのはただイエスだけなのです。わたしたちは律法の完成者であるイエスにのみ依り頼むこと、これは、自力で律法を行う律法学者やファリサイ派の人たちの未完成の義に当然まさっています。そのように「律法の完成者であるイエスへの服従こそ律法学者やファリサイ派にまさる義」なのだと、弟子たち及びその周りにいる群衆に向かってイエスは呼びかけられているのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「新しい幸いに生かされる」 マタイ5:1-12
2026.2.1 顕現節第4主日 大牧陸孝牧師
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5章3節)
 マタイ四章の最初の弟子召命の記事に続きまして、本日の日課は、イエス・キリストの弟子であろうとするものがどのように生きるべきかを教えられたいわゆる「山上の説教」の最初の部分、1節から12節のところです。「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座に着かれると、弟子たちがみもとに近寄って来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」とあります。語られた場所はガリラヤ湖畔の小高い山であったと思われます。腰を下ろすと弟子たちが近寄って来ました。聞き手はこの弟子たちです。しかし、イエスの評判を聞いて、方々から集まって来た群衆も聞き手として加わっていたようですが、しかし、「弟子たちが身元に近寄って来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」とありますので、この説教を語られたのは、「弟子たちに対して」であるということになります。直前の四章で、わたしについて来なさいと言われ、イエスに召し出された人たち、少なくとも、弟子として生きようとしてイエスの許に来ている人々に、イエスに正しく従って生きることの祝福と厳しさを教えられる、そのような目的をもって語られたのだということです。

 イエスは弟子たちに開口一番「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と教えられます。「わたしに従って来なさい」と召し出され、それに応答して、一切を捨ててイエスに従って生きようとしている人たちに、イエスはまず、「あなたがたは幸いである。神の国はあなたがたのものだから」と祝福を語られます。イエスに従って生きることによって直面する苦難、困難を覚悟している弟子たちに、祝福を語られます。イエスの弟子として生きるために「貧しくなった」弟子たち、そのために今「悲しみ」や苦難に耐え、「柔和な人」「憐れみ深い人」として人々に接し、「義に飢え渇き」「義のために迫害を受け」「平和を実現する」「心の清い」弟子となる人たちを祝福されます。

 「心の貧しい人々」とは、誰のことなのか。「心の」という言葉は、マタイが付け加えた言葉で、それまでイエスが語られた言葉として伝えられていたのは、「貧しい人々は幸いである」というものでした。ルカ福音書6章20節では、そのようになっています。これにより、イエスの祝福は一般的に「貧しい人々」「悲しんでいる人々」への祝福であると考えることも出来まして、そのような理解と主張がしばしばなされ、こうした理解には根拠がないわけではありません。

  旧約聖書と新約聖書を読む者に与える強い印象の一つは、「聖書の神」は貧しい者、弱い者、悲しみに打ちひしがれている者を特別に思いやる神、人間の苦しみの現実に眼を注ぐ神であると言うことです。神は最も小さく弱い民イスラエルを選んでご自身の民とされました。イザヤ書61章1節には「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」と書かれています。救い主は、貧しい人に福音を知らせ、捕らわれ人には開放を告知するために来られるというのです。

 新約聖書では、牢の中に捉えられていたバプテスマのヨハネが、イエスの所に来て「来たるべき方は、あなたなのでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」と尋ねたときに、イエスは「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまづかない人は幸いである」(マタイ11章2節〜6節)。困っている人の障害が取り除かれ、貧しい人に福音が告げ知らされていることが、キリストが来ておられることの「しるし」であるというのです。救い主なる神の目は、確かに、「貧しい人」「困窮している人」の上に注がれているのですが、しかし、聖書では福音が語られる状況とは関係のない、いつでも何処にでも当てはまる、人生をどう生きていくかという倫理の体系を語ろうとしているのではありません。特に本日の日課マタイ5章の山上の説教では、群衆を横目に見ながら、山に登って、近くに寄ってきた弟子たちに語られたのですから、これは、イエスに従おうと決意したものに与えられる「服従の道」(ナッハフォルゲ)の道を示したものであると見ることが出来ます。

 イエスはこの弟子たちを見つめながら、「貧しい人々は幸いである」と語られたのは間違いありません。弟子たちは、イエスの招きに直ちにすべてを捨てて従いました。イエスに従って行くことの結果としての「貧しさ」という犠牲・損失を被ることをも意に介することはありませんでした。あるいはそこまで考え及ぶこともなかったのかもしれません。マタイ福音書19章16節以下に、イエスに「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問う「金持ちの青年」のことが書いてありますが、この問いに対してイエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われ、この言葉を聞いた青年は、イエスの前から「悲しみながら立ち去った」と書かれています。青年は、イエスに従うための犠牲、損失を受ける決断が出来ませんでした。それで、どう生きて行けば良いのかと言う大変重要な問いをイエスに出しながら、イエスの前から「立ち去る」ほかはありませんでした。そして、それとともに、「天に宝を積む」すなわち、「永遠の命」を得る道を自分から失うことにもなったのです。

 それに対して、使徒たちの場合は、イエスに「わたしについて来なさい」と招かれた時、すぐに網を捨て、父と雇い人と舟を残し、生活の資の何もかも捨ててイエスの後について行きました。このようにしてイエスに従って行った弟子たちは実際に貧しくなるほかはなかった、そうなのですが、しかし、マタイはただ「貧しい人」とは言わないで「心の貧しい人」と言いました。この世の富『生活の資』と栄誉とをすべて捨てて、それ故に今貧しく生きている弟子たちの姿は一途にイエスに従って生きていることの結果なのです。この当時のユダヤ教では、「心の貧しさ」とは、信仰のゆえに神に従う厳しさを受け入れ、すべての希望を神に置く「正しい人」の「しるし」と考える者もあったということです。そのことから、イエスに従い、その故に貧しくなり、すべての希望を神に置くこの弟子たちこそが、まことに「貧しい人々」であるという意味になり、このような弟子たちに対して、イエスは「心の貧しい人々は幸いである」と言われ、また弟子たちもすべてのものを捨てて、イエスに従って行くと言う構図が見えてきます。

 「幸い」と訳されたギリシャ語「マカリオス」の本来的な意味は、「最高度の幸福と幸福感」を現します。旧約聖書の中にも、「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩編1章1節〜2節)とか、「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆って頂いた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない者は」(詩編32章1節〜2節)の例があります。これらは、神の掟を守る者や神に罪赦された者のさいわいというように、神との交わりがもたらすさいわいに力点が置かれています。つまり、神から与えられた「祝福」「救いの喜び」を表すもので、人格的な神との深い交わりの喜びを軸としていて、人間が幸福追求的に生きるのではなく、神とそのご意志に従って生きようと努めるときに、神から与えられるたまものとしての喜びのことであります。「まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6章33節)目的として追求される幸福ではなくて、結果として与えられる幸いです。

 ここに挙げられております九つの「祝福」のうち、10節までの八つは「・・・する人々は幸いである」と三人称で語られているものと、「あなたがたは幸いである」と二人称複数でいわれている一句とがありますがこれは二つの伝承がつなぎ合わされた結果生じた表現の違いです。内容的には6節までの部分では、祝福された人間の状態、その人たちの環境的側面が示されており、7節から12節では祝福された人間の態度、その人の主体的側面が示されています。

 「こころ」プネウマは「霊」と訳した方が適切であろうと思われます。根源から見られた人間の全体を指していて、「その存在の内奥に至るまで徹底的に貧しい人」ということです。自分の内側によりたのみ誇りとすべき何者をも持っていない。神の祝福はこのような者に注がれるのです。ここには神の恵みの徹底的な無償性が示されています。神の愛が支配するところでは、人間の側からは何も生まれ出ないような無価値な捨てられた人間をこそ、神はご自分の民として迎え入れられる。これは旧約以来の約束でありました(イザヤ書61章1節〜3節)。

 「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」への四つの祝福は絶望的な状況の中で神を待つ者に向けられています。彼らは全く不幸な人たちであります。この世で現在最も不幸な者が幸いであるというのです。これは貧しさ、悲しみ、賤しさ、虐げがそれ自体として価値があると言っているのでありません。それらはまったくわたしたちの生活から取り除かなければならない不幸であり悲惨であります。しかし、人間の闇が深ければ深いほど星の輝きは明るさを増して感じられますように、この世の罪の陰惨さと悲惨のどん底に於いてこそ、神の約束は切実さをもって受け止められ、その約束を与えたもう主イエスの力の大きさ、恵みの深さを知らされることになるのです。「彼らは、その悲惨の中にあって神の国に直面し、人間イエスによって革新さるべき世界の淵に立っているのです。彼らの悲惨において、そのような世界の破れは表れ、世界は神の恵みの内に保たれていることを発見するのだ」。それが悲惨の中でのさいわいなのである。(カール・バルト和解論)

 7節から10節までは祝福を受ける人間の主体的な態度が取り上げられます。「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」は、「清い」ということばがキーワードとなるでしょう。旧約聖書では「清い」はコーデッシュ「聖」という言葉で言い表されます。汚れがないという意味であると同時に、取り分けられて神に属するものとなるという意味で、純粋に神の恵みに心を開き、依り頼んでいる人のことを表しています。ボンヘッファーは言います。「心の清い人とはだれであろうか。自分の心をイエスに全く捧げ、そうしてイエスのみが心の支配者であるような、そういう人、その心を自分自身の悪によって、さらに自分自身の善によっても汚さないような、そういう人だけである。清い心とは、善悪を知らない幼児の無邪気な心であり、堕落前のアダムの心、そこでは人間の良心ではなくてイエスのみ心が支配している心、そういう心である」

 真の人間解放と人間回復のために神は憐れみと恵みをもってわたしたちの所に来てくださった。その神の働きへと神はわたしたちをも恵み深く呼び出していてくださる。マタイ5章3節〜12節に示されているのは、神の国をもたらす働きをしている主である方の御心を自らの心として生きる証人の姿であります。それは具体的には主イエス・キリストご自身の姿です。「イエスが人間に対して何を求めたもうかをわたしたちに語りたもうた時、それによってイエスは、自分がどのような道を選んだかを明らかにされたのである」(シュラッター)。主イエスは十字架の道を辿(たど)って勝利の祝福を語られた。イエスの民もまたこの道を辿(たど)ることによって、主の祝福に与る者とされるのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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