本文へスキップ

1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

賀茂川教会タイトルロゴ  聖壇クロスの写真

2026年4月礼拝説教


★2026.4.5 「命の応答への方向転換」ヨハネ20:1-18

「命の応答への方向転換」ヨハネ20:1-18
2026.4.5 主の復活主日 大宮陸孝牧師
「わたしは主を見ました」(ヨハネ20章18節)
  過ぐる受難週の日々をわたしたちは、十字架への道を歩まれたイエス・キリストを仰ぎ、その御苦しみと死とを心に刻んで、それがわたしたちの罪の赦しと救いのためであることを、深く受け止めて参りました。こうして、主と共に「死の陰の谷」を歩んだわたしたちにとって、今日、復活祭(イースター)を迎えることは、この世の闇の中に光が差し込んで来る、喜ばしく望みを新たにする出来事であります。

 19章38節以下で、アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を取り下ろすことを願い出ました。祭司長たちは、イエスがユダヤ人の王とみられることを恐れていましたが、ヨセフはそれとは反対に、イエスを王として丁重に葬ることを願ったのです。アリマタヤのヨセフはニコデモと同じく最高法院の議員であり、ヨハネ福音書はこの人物をニコデモと同様にイエスの隠れた信奉者と見ています。ニコデモは高価な没薬と沈香(じんこう)を持って来ました。墓は王を葬るのにふさわしい新しい墓でありました。二人の行動は祭司長たちやローマの兵士たちとは対照的であります。安息日を避けて前日に埋葬したのは、ユダヤ教の律法に従ったという意味です。そしてそれがイエスの復活によって全く無意味になったのでした。ここでヨハネ福音書記者は、三共観福音書のように墓を石で塞いだとも、婦人たちが夜通し番をしていたとも書いていません。墓に葬ることはそもそも神の御心ではないとの思いがそこにはあったと見受けられます。それですから、ヨセフもニコデモも次の20章の復活の出来事には登場して来ないのです。

 最後の晩餐から復活して弟子たちに現れるまでの時間経過は、はっきりと記されております。復活は「週の初めの日」で、最後の晩餐の翌々日でありました。そして復活なさった主イエスが弟子たちに現れたのはその翌日でした。早朝の空虚な墓から書き始めていますが、ここには天使の知らせやそれを聞いた者の恐怖あるいは喜びについては何も記されていません。ただ、復活を聖書に基づく信仰の事柄として述べています(9節)。しかし、この信仰は復活者である主イエスご自身が与えてくださるのでなければ得られないものでした。そこでヨハネ福音書は、最初に墓へ行ったが空しく帰って泣くだけであったマグダラのマリアに、イエス自ら現れて復活を告げたという特別の物語を付しています(11節以下)。マグダラのマリアはイエスの十字架のもとに立っただけではなく、さらに復活を弟子たちに伝える者とされます。天使の告知ではなく、復活者自ら復活の信仰を与えたとするヨハネ福音書の記事は大変重要な意味を持っています。

 ヨハネ福音書では、朝早くに墓に来たのはマグダラのマリア一人であります。マリアは墓の入り口を塞いであった大きな石が取りのけてあるのを見ました。恐らく盗人が墓を暴いて死体を持ち去ったものと考え、大きな衝撃を受けたと思われます。マリアは墓をのぞいてみる心の余裕もなく、気が動転し、ペトロともう一人の弟子のもとに駆けつけます。二節後半「主が墓から取り去られました」は直訳すると「彼が主を墓から取って行きました」で、マタイ27章64節が伝える遺体窃盗の伝承が暗示されていると見ることが出来ます。そしてこの部分には、マリアがまだ復活の事実を知らないことが示されていて、そちらの意味のほうが重要であり、恐らくヨハネ記者はそのことを強調する意図であったと推測されます。

 マリアの知らせを聞いてペトロともう一人の愛弟子が墓へと駆けつけます。そしてイエスの愛された弟子がペトロを追い抜き真っ先に墓に尽きました。彼は最初は恐れて中へは入らず、ペトロの到着を待ちます。そこで、ペトロは真っ先に墓の中に入り、亜麻布がたたんでおかれ、イエスの頭部を包んでいた覆いが別の場所に丸めておいてあることを確認しました。しかし、この状況を見て確認しながらも、二人の弟子はイエスの復活を信じることはできなかったのです(九節参照)。そして、二人はこの事態を他の弟子たちに知らせることもなく、家に帰ったままでした。

 1節〜18節は、最初に来たマリアは、墓のふたがないのを見て、外に立って泣くだけでありました。しかし、イエスが現れて、彼女を復活の最初の証人とします。16章16節以下で「悲しみが喜びに変わる」とイエスは言われていますが、ここでその言葉の真意が明らかにされているのです。

 ペトロと愛弟子が去った後、マリアは墓の外で泣いていました。イエスの死体が墓の中になかったからです。マリアは墓の中をのぞきこんで見ると、白い衣を着た二人の御使いが、死体の置かれていた頭の所と足の所に座っていたと言うのです。「座っていた」という表現によって、かつてはそこにあったイエスの死体が、明らかに今はそこにはないということを示しています。そして天使たちはイエスの復活をマリアに伝えたのではなく、マリアもそのことを悟ったのではないので、マリアの嘆きは続いています。マリアにはここで起こっている状況の意味を考える余裕がないのです。それほど絶望感と悲しみが彼女を圧倒していたということです。

 そして「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」(13節)。といって「後ろを振り向く」と、「そこに一人の人が立っていた」(14節)そしてそれがイエスであったと劇的な展開となるのですが、マリアはそれがイエスだとは気がつかないだけでなく、イエスが「婦人よ」と声を掛けた時も、園丁だと思い、なおも「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください」と言うのです。イエスに出会ってもそれがイエスだと分からないのです。18章のイエスとポンテオ・ピラトとの出会いを想起させます。ピラトはイエスという人物に興味を持ちました。しかし、その出会いは全くイエスと出会ったことにはなっていません。「真理とは何か」とイエスに尋ねますが、真理であるイエスの人格には触れようとしないで、ただ興味を持ち、何かの知識を引き出そうとしているに過ぎないのです。そして、それはこの世の多くの人のイエスに対する態度を象徴しているとも言えます。そうでありながらマリアは、心の深い所ではイエスに感謝し、イエスを深く愛し、イエスの存在を必要としていたのですが、イエスに出会ってもそれをイエスと認めることができませんでした。イエスの「誰を捜しているのか」との言葉は極めて象徴的であります。


 マリアは必死でイエスを捜していながら本当には捜していないのです。ただ尊敬し愛するイエスの死体を捜しているのです。わたしたちも過去の偉大なイエス、そして過去のその生きざまを想起しているだけということが多いのではないだろうか。そこで、イエスは「マリアよ」と呼びかけられるのです。生きて名前で呼びかける主がそこにおられました。イエスはご自分の羊の名を呼ぶ羊飼いとしてマリアの前に立たれているのです。その時マリアは信仰の眼を開かれ、救い主イエスを悟り、生ける救い主イエスと出会ったのです。ちょうどこの箇所はヨハネ福音書10章14節を思い起こさせます。良い羊飼いは自分の羊を一人一人よく知り、これを愛し、これを名前で呼びかけ、そして羊のために命をも捨てるお方であるというのです。イザヤ書43章1節を思い起こします。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ」。キリストは命を捨てて、一人一人の名を呼んでくださり、そのような出会いにおいて、命の存在としてわたしたちを新しく呼び出してご自分の羊としてくださるのです。わたしたちも一人一人主から名を呼ばれ、わたしたちはその声を聞き、その声に信仰の眼を、耳を開かれるのです。

 ここでマリアは初めて新しく復活し生きたもうイエス・キリストと出会ったのでした。マリアは再び振り向いて、アラム語で「ラボニ」と呼びかけます。「先生」という意味だと説明が加えられます。これは生前のイエスに対するマリアの関係を表す言葉であります。つまり、マリアの前に立っているのは、未知の神秘的な存在ではなく、かつてラボニとして知っていたイエスであり、つい先日十字架に付けられて死んだ筈のイエスであるということが認識されています。しかし、イエスはそのかつてのラボニとしての存在に留まる者ではなく、ここで、イエスは復活者として、マリアの前に現れているのです。イエスは今やラボニではなく、永遠の復活者なのだと次の言葉で宣言いたします。

 17節「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われます。イエスの復活はこの世的な存在のあり方への帰還ではありません。今やイエスとわたしたちの関係は、以前のような視覚的・感覚的に確認するような関係ではなく、信じるという信仰においての関係として、生ける復活の主と出会うということなのです。ロゴス・神の意志を表す神の言葉であるイエスは、「肉体を取り、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)顔と顔を合わせ、お互いの存在を確かめ合う者となられた。それが具体的な人間関係であるのですが、しかし、イエスは十字架に掛けられて死んで、生前の関係は終止符を打たれ、今やイエスは父なる栄光の神のもとに帰って行く、そこでのイエスとの関係は、感覚的な関係を超えた、魂の深い所で、霊的な関係や絆で深く結ばれたものになるというのです。

 「まだ父のもとへ上っていないのだから」ロゴスとして「下って来た」者がまた「上って行く」、これはヨハネ福音書の主題であります。しかも父のもとへ上っていくことは、また「助け主」という形で再び弟子たちのところへ戻って来て、共に留まる備えとなる。父の元へ一旦帰らなければ、また来られない(ヨハネ福音書14章〜17章)。マリアがイエスにすがり続けるということは、このイエスの昇天と再臨を妨げることになる。イエスが「上っていく」ということは、イエスが新しい場所に移ると言うことを表し、それは単に場所の移動を意味するのではなく、イエスのあり方、存在様式が変えられることを意味しています。そうしますと、そういう復活のイエスに向き合う者も、今までとは違うあり方をもって関わって行くことが要請されます。復活されたイエスが生前のイエスの再臨ではないように、イエスに出会う者にも新しい姿勢を取ることを迫って来ます。

 「マリヤよ」という呼びかけに対して「ラボニ」と答えてすがろうとした時、マリアはイエスを、生前のイエスに対するのと同じ思いで向き合おうとし、またそのようにイエスに寄りかかろうとしました。しかし、それでは、イエスの新しい命の意味も、マリアの新しい生き方も生まれては来ないのです。イエスはここで、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と語ることによって、マリア自身が新しい命のあり方へと一歩踏み出して行くことを迫っているのです。復活の主を信じるとは、イエスに依存してぶら下がって生きるということではなく、イエスの御言葉によって新しくされ、イエスの御言葉を、生きる力として聞き、その御言葉に主体的に従って生きるということこそ重要であるということです。このような方向転換をすることなくイエスに出会おうとしたり、この世のあらゆるものにしがみついたままで復活の命に与ろうとするわたしたちの都合の良さをイエスは問題にしているということなのです。

 さてそれで、マリアは一つの使命が与えられます。「わたしの兄弟のところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。この言葉は地上のイエスとの最後の別れの言葉として語られ、今や地上のイエスとの決別の時であると同時に、イエスと、父なる神と信仰者たちの群れとが、天上において永遠に一つとなる命の共同体の再会への時である、とイエスは宣言されています。そして、その上にさらにその方向をこの世に向けて転換し推し進めて、地上での永遠の命の共同体の始まりになるのだと宣言され、地上においてもすべての信仰者たちが一つになるという使命を遂行するために、御子イエスも、父なる神も、これから新しい存在様式、聖なる助け主として働き続けるためにこの世に再び来られると宣言されます。復活の主が約束されていること、語っておられることは、地上で主イエスが既に繰り返して言われて来たことであります。イエスが父のもとに栄光をうけるために帰り行くことは、決別の時であると同時に、彼と父なる神と教会の信仰者の群れとの永遠の生活共同体、天上とともに地上での始まりの時となるということです。マリアの「主を(確かに)見ました」(18節)は、父なる神のみもとに帰ろうとしておられる「復活のイエスの顕現」を垣間見たことを意味する言葉です。イエスの復活の最初の証言者は、他のどんな人でもない、一人の女性マリアでありました。19節以下は次週の日課として続きます。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。


ページの先頭へ

 ◆バックナンバーはこちらへ。





information


日本福音ルーテル賀茂川教会


〒603‐8132
京都市北区小山下内河原町14

TEL.075‐491‐1402


→アクセス