誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」
マタイ福音書4章3節~4節
quality of life略称QOLとは、1947年の世界保健機関(WHO)の健康憲章から「・・・単に疾病がないということではなく、身体的にも精神的にも社会的にも完全に満足のいく状態にあること」と定義され、もともとは健康関連の概念であり、たとえば、医療の分野で、病状が及ぼす病人の生活への影響を指標化する尺度をあらわし、これをもとに病者の生活支援の課題と取り組んで生活の質の向上を図る取り組みをするということでありました。また、QOLは、個人の収入や財産を基に算出される生活水準とは分けて考えられるべきものでありました。
1970年代にはQOLの概念が注目されるようになり、健康以外にも拡張されるようになり、健康に関するQOLは、健康関連QOL(HRQOL、Health=relatedQOL)と呼ばれるようになります。一人一人の人生の内容の質や社会的に見た『生活の質』のことを指し、ある人がどれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り、人生に幸福を見出しているか、と言うことを尺度として捉える概念です。驚くべきは、規律性の高い人は長生きする傾向はあるが、規律性の低い人よりも生活の質が低くなる可能性もあるということです。1998年には「身体的にも精神的にも社会的にも完全に満足のいく状態にあること」という定義にさらに、「spirituality(霊的)」という文言が加えられています。
日本に於いては、2000年に旧厚生省大臣官房障碍保健福祉部会が公表した「障碍者・児施設のサービス共通評価の用語解説で「日常生活や社会生活のあり方を自らの意思で決定し、生活の目標や生活様式を選択できることであり、本人が身体的、精神的、社会的、文化的に満足できる豊かな生活をQOLとする」と、定義が成されております。
本来は健康関連に関する概念だったものが、最近では道路や公園などの環境整備状況に関する市民のQOL評価や、町づくりそのものに関してもQOL評価が導入されて来ています。このように、QOLは、国家の発展、個人の人格・自由が保証されている度合い、居住の快適さとの関連も指摘され、様々な分野での指標として人間開発指数、世界幸福度指数などが提案されています。
今、これほどまでにQOLが注目されているのはなぜかと言いますと、やはりその背景のひとつには高齢化があります。医療や福祉、介護に関連する現場では、高齢化に伴い、状況が一変し、加齢による身体的な機能の衰えが増加して来ています。そのような状況の中で「何を重視してどう生きるのか」を本人が選択し、治療と生活の質の向上との両方を見定めて、最善の方法を選定していくこと、つまり、高齢化が進む日本に於いては、「単に生きるだけではなく充実した人生を過ごすこと」いつまでも健やかで快適な人生をおくるための生活の向上をはかるためには、このQOLの視点が極めて重要になって来ているということです。以下次号(9月)に続きます。
誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」
マタイ福音書4章3節~4節
保育園では、子どもたちの健康や心身の成長を支える重要な要素として食育があります。食育の導入によって、子どもたちに規則正しい食事のリズムを身につけてもらうこと、食の大切さや食材の由来、栄養のバランスなど、子供の発達段階に応じて食に対する習慣や理解が深まるよう工夫しながら取り組んでいます。
そして今、それらの子供への食事の支援活動が脅かされるような事態-令和の米騒動-が勃発しています。ここ数年の間に物価の高騰が続き、昨年秋頃から大切な主食である米が品薄となり、スーパーの棚には高騰した米が並ぶようになり、今では5キロで4千円台と以前の倍以上の値段に高騰してしまいました。
こうした事態を受けて、江藤宅農林水産相は今年2月14日、備蓄米21万トンを放出すると表明しました。それによりスーパーで販売する米の価格は前の週より19円と僅かながら値下がりし、3月から農水省は価格が安い備蓄米を一定量放出し、それらが徐々にスパーなどの棚に並び始め、米の値段は下がる傾向になると予測していました。しかし、米の高止まりは4月に入っても収まらず、政府がさらなる対策に追い込まれ、2回目の備蓄米の入札を終えてしばらくした4月9日首相官邸で石場首相と江藤拓農林水産相ら農水省幹部と協議をします。
卸、小売りなどの数段階の御業者を経る流通過程での滞りが理由だと説明する農水省とのやりとりは、1時間に及んだという。首相はその場で、備蓄米の追加放出を指示します。農政通として歴史的な米価高騰への対応を期待された江藤拓農林水産相は5月18日に「米は支援者からいただくので、買ったことがない。売るほどある」と発言し、この発言を巡り、農家や価格高騰に喘ぐ消費者からの憤りや反発の声が相次ぎました。新米が出回っても、備蓄米を放出しても米価は下がらず、最後は消費者の感情を逆なでする自らの失言で江藤拓農水相は退くこととなった。
東京都下のある「フードバンク」の理事長は、寄付を頼りに、原則月2回、計3キロの米などを約200の困窮家庭に配ってきたが、米不足のあおりで、4月から大口の寄付がなくなり、個人からの寄付も減った。今月末には倉庫の米が尽きる見通しだ。余っているなら分けてくれと言うのが本音です、と語る。
新たに指名された小泉進次郎農林水産相は21日の就任会見で、今月に予定していた備蓄米の放出の4回目の入札を中止し、任意の業者に売り渡し「随意契約」への切り替えを検討すると表明しました。5月22日から23日にかけて、テレビ各局の番組に次々出演し、「備蓄米の扱い方の発想を大胆に変える」「価格破壊のような形を一定程度起こさないと」と新たな政策の狙いをアピールし、米の流通状況を確認するために、都内のスーパーと精米点の売り場を視察し、「これだけ棚が空いているのを見て、改めて備蓄米を6月上旬には2千円台で店頭に並ぶ環境をつくっていかなければならないとの認識を強くした」と、放出する備蓄米の店頭価格を「5キロ2千円程度」にする目標も示しました。
今回の米騒動はなぜ起きたのか、処方箋はあるのか。現在の米政策は、生産を抑制して需給をタイトに保ち米価を維持することが基本となっているので、少しの生産変動が市場を不安定にさせてしまう。今回の事態は一昨年の秋から予測できたことで、農水省は早めに手を打つべきだったとの指摘もあります。
次回は米の安定供給もさることながら、昨今、単に食や健康だけでなく個人個人の生活の満足度や充実感、自分らしさを見出しているか、私たちひとりひとりの人生の内容の質や社会的に見た『生活の質』を評価する尺度として、世界保健機構が提案している【QOL26(クオリティー・オブ・ライフ】(生活の質、生命の質、人生の質等と訳す)について取り上げたいと思います。
2025年6月1日
前回はマルティン・ルターの宗教改革にともなう讃美歌(コラール)と礼拝式文作成について書きましたが、今月はその関連で、バッハの音楽のことを書きます。
ルターの宗教改革からおよそ168年後の1685年3月31日、ヨハン・セバスティアン・バッハは、アイゼナッハの町のルター派の教会音楽の楽士及び宮廷音楽家であったヨハン・アンブロジウス・バッハの8人兄弟の末っ子として生まれました。生誕2日後にこの町の聖ゲオルグ教会で幼児洗礼を受けます。1692年にバッハ7歳でこの教会付属のラテン語学校に入学します。この学校はマルティン・ルターが15歳から17歳まで学んだ学校でもあります。
アイゼナッハはバッハの生誕地であるとともに、その郊外には、ルターが新約聖書をドイツ語に翻訳したヴァルトブルグ城が聳えています。
バッハはルター派の教会を主な仕事場にしていた音楽家一族の出身であり、アイゼナハ周辺の中部ドイツには、音楽家であったバッハ一族80余名が生活しておりました。幼少時恐らく父アンブロジウスの指導のもと楽器を演奏し始め、ゲオルグ教会に務めていた父の従兄ヨハン・クリストフ・バッハのオルガン演奏も聴いていたと思われます。ルター派の教会で歌われるコラール(讃美歌)も、バッハにとって最も身近な音楽で、幼少時のバッハはルターの影響を大きく受けたと思われます。
1723年、バッハはライプツィッヒの聖トマス教会のカントル「トーマスカントル」に就任します。カントルとは、教会音楽の指導者のことで、礼拝の時に会衆の歌にオルガン等の伴奏を奏楽したり、聖歌隊の合唱指揮者を務めたり、更に礼拝のカンタータの演奏では合唱と管弦楽の双方の指揮者を務めたり、ドイツ中部ではカントルと音楽教師は同一概念で、教会付属学校の教師の役割も果たさなければなりませんでした。そしてなお、多くのカントルが作曲家を兼ねていました。バッハがトーマス教会のカントルとして採用された最大の理由はルターの教理問答とラテン語文法の授業を担当することを引き受けたからでありました。バッハは音楽教育と宗教教育にも熱心に取り組みました。バッハはカントルの中でも最も評価された著名なカントルとして名を馳せるようになります。
ルターの宗教改革によってもたらされた福音の再発見とそれを民衆のレベルで共有するコラール(讃美歌)創成を、さらに充実させて行くこととなります。ルターにとって「神の義」とは神に逆らう者を罰する審判者の手に握られた善悪の物差しではなく、相応しくない者に無条件で与えられた「赦しの恵み」のことであるという福音を音楽で表現したのがコラールであり、礼拝式でありました。バッハはそれを引き継いで礼拝音楽を発展させ、カンタータを作成して行きます。バッハはそのルターが発見した福音をさらに礼拝において教会共同体の響きとしてそれを充実させ、対位法に則った多声音楽を思考して行く音楽活動を展開してゆきます。その一つの結実を1707年の、葬儀あるいは死者を記念するために作成されたカンタータ106番に見ることが出来るようにわたしには思われます。表題は「神の時は最良の時-哀悼式典-」となっています。
カンタータ106番の2bで死の宣告を受けた後「アーメン 来てください、主イエスよ」と歌われ、3aアリア(アルト)「あなたの手にわたしの霊を委ねます。あなたはわたしを贖って(あがなって)くださった。主よ、まことを尽くされる神よ」と歌われ、ここには自らに恃む(たのむ)ことなく、専ら(もっぱら)神の唯一の救いの恵みの御手に依り頼んで行く信仰の純粋な姿が言い表わされています。そのような魂の姿勢を十字架上のキリストが受け止めて行く言葉が3bに続きます。「今日あなたはわたしとともに天の国にいるであろう」実はこれはバッハがルターのコラールを引用したものなのです。バッハは若き頃にルターのテキストを数多く用いています。バッハの曲造りに当たってどれほど深くルターの発見した福音を聖書に深く読んでいたかが覗われます。
カンタータ106番はさらに展開して3cへと続きます。ここもルター作コラールの引用です。「平和と喜びとともにわたしは彼方へ駆けて行く 神の欲するままに。わたしの心と思いは慰められて、穏やかに静まっている。神がわたしに約束してくれたように 死はわたしの眠りとなった」コラールの歌詞は「穏やかに静まり」そして「死はわたしの眠りとなった」と安らかに告げて、曲は静かに終わります。
そしてこの告白を受けて、終曲の4.コラール合唱が、讃美を一言一言斉唱で歌います。楽器は一句ごとに反復するようについて行き、全身全霊をもってする同意を表しています。そして最後の一行「死はわたしの眠りとなった」がフーガに転じるのです。
フーガとは「遁走曲」と訳されています。もはや死の結びを解かれ、軽々と弾む命の「追いかけっこ」が描きだされます。
去りゆく者は足取りが軽くなり、その最後の時を駆けて行きます。見送りながら伴う者は、前になり後になりしてしばしの道程をともに走る。最後のアーメンは、安らかに息を引き取るその息を表現しているようで、これを笛が谺(こだま)のように引き取り、まるで、思い出の中にその駆けっこが続いて行くように曲は終わり、響きは止むけれども、見送った者たちを生かすリズムとして谺(こだま)は響き続けて行く。立ち去った先輩たちの歩みを模範にして、自分も精一杯、世の終わりの希望を目指して生きて行こうと。
このカンタータ106番の後半にルターのコラールが用いられているのは偶然ではありません。ルター派教会の形成につれ、教会歴に則って秩序だった曲の創作、集成が行われて行き、哀悼用の曲もその一つの柱となったということです。その哀悼曲の祖型としてルターのコラール「平和と喜びとともに」が用いられたということです。バッハの教会オルガニストとしての出発に際して
、バッハはルターのコラールに深く傾倒し、その本質である聖書の本質的な真理に触れようとしたということであります。
106番と同じころ、このオルガン・コラールへの取り組みの他に、バッハが作ったカンタータに、ルターのコラール全節に曲付けしたものがあります。カンタータ第四番「キリストは死の縄目に捕らわれたり」です。詩節は、死を制圧するキリストの十字架と復活を歌って、ルター派教会の死生観を簡勁(かんけい)な言葉で言い尽くしています。
2025年5月1日
ルターの宗教改革にともなう、コラール(讃美歌)の作成について、先月の牧師メッセージの続きです。カールシュタット、ミュンツアー、エラスムスらとルターとの決裂後に、ルターは礼拝で歌うドイツ語コラールを1523年に集中して23曲作成し、それに続いて、同年『ミサの聖餐と原則』を発表します。そしてその3年後1526年に、民衆のために『ドイツミサと礼拝順序』を発表します。ルターは礼拝において福音を見いだせるようにと礼拝改革に着手して行くのです。そしてルターは、それまでのカトリック教会のミサを、「自ら主を拝みに行くと言いながら実際には反対に幼子をなき者にしようとしたヘロデの態度」にたとえてヘロデの礼拝だと批判します。そして、新しい礼拝の基本指針としてルターは、1523年に『会衆の礼拝式について』という短いパンフレットを出版し、その序文で以下のように述べます。
「今日(カトリック教会の)いたるところで行われている礼拝は、キリスト教の立派な由来をもっており、同時に説教のつとめを持っている。しかし説教のつとめが聖職者たちの暴虐によって荒廃しているように、礼拝もまた偽善者たちによって荒廃している。私たちはいま説教のつとめを廃止するのではなく、むしろふたたびそこに正しい位置を与えることを欲しているのであり、そしてまた、礼拝を廃止するのが私たちの考えではなく、むしろもう一度それを正しい方向に持って行こうというのである。」
ルターが表明していることは、それまでのカトリック教会の説教や礼拝を、ただ単に廃止するのではなく、礼拝を正しい方向に軌道修正することを目的としている。そして、礼拝は、神のみことばこそが根本原理であり、毎日の朝祷、夕祷、が続けられるが、それも聖書朗読とその講解(神の言葉が正しく語られること)が含まれていることが前提となっている。このパンフレット出版後に、もっと詳しくて具体的な礼拝内容を要請する多くの人々に答える形で『ミサと聖餐の原則』を公表しました。これは、礼拝の意味と神学の根本的な再評価を目標としたものであることを、ルーテル学院大学教授であられた石井正巳先生は以下のようにまとめています。
「ルターによる礼拝改革の意義は、それは、鐘を鳴らし、立派な祭服を着て、仰々しい儀式を行っても、そこに肝心な福音のメッセージが伝えられなくてはなんにもならないということである。そしてルター自身は、礼拝が華美や贅沢にならない限り、それらの使用を自由に認めた」、とそれまでのカトリック教会のミサのあり方、外形ばかりで内容のない礼拝であったことを述べている。(石井正巳訳『ルター著作集第一集第五巻』275頁)
ルターの思いはローマカトリック教会のミサを廃止して、それとは別に新たな礼拝式を設けることではなかったということです。ルターが目指した礼拝形態は、基本的には、福音が透徹した礼拝ということに他なりませんでした。ですから、ラテン語の典礼をドイツ語に翻訳してことが済む問題ではなく、改革の意図はカトリック・ミサの福音化ということでありました。
そしてルターの考える礼拝は、「神の働き」であります。つまり、礼拝は"神の恵みにおける働き"とする福音とイエス・キリストを意味し、カトリック・ミサでの犠牲と奉献という考え方とは対照的なものであります。カトリック・ミサでは「カノン」(聖化)、パンとぶどう酒による儀式が核心を成すもので、犠牲と供え物となるキリストの存在に意味を置いているのに対して、ルターの考える礼拝は、神の働きとしての礼拝へそれぞれの人々が与ることに大きな意味があったということです。
ルターは、「ドイツ・ミサ」を1525年の終わり頃から準備しているのですが、実際には、その殆どがカトリック・ミサの文言通りにドイツ語に翻訳したもので、ただ、ミサの「カノン」などいくつかを省略したものでした。したがって、ルターは基本的にはカトリック・ミサの構成を認め、それを継承しているのです。しかし、ルターは同じ時期に、継続して礼拝改革を行い、一気に改革し完成させたというのではなく、伝統的なミサの構造を柔軟な姿勢で、新しい神学のもとに礼拝式を作成し改革し続けたとも言えます。
ルターは『ドイツミサと礼拝順序』の序文で次のように述べています。「何よりも先に、私が親しく、また神のゆえにもお願いしたいことは、この私たちの礼拝の順序を見、またはこれに従おうとするすべての人々が、そこからどうしても守らねばならない掟を作り出し、誰かの良心を引きずり込んだり、縛り付けたりしないで、むしろキリスト教的自由によって、状況に合わせて、また要求に従って、どのように、いつ、どこで、どれぐらいの長さかを自分たちで決めて用いることである」この引用文に記されていますように、かなり柔軟性を持つ内容で、ドイツ語ミサの福音化に期待を寄せているように思われます。
そして『ミサと聖餐の原則』が公開された翌年の1524年には、ルターの要請に応えて、ドイツ語の讃美歌集が編集され、何種類か出版されています。その中にはルター自作の讃美歌(コラール)も含まれていました。そのような状況の中で、ドイツ語による新しい礼拝式文を作成し、1525年10月29日、三位一体後第20主日の礼拝、ヴィッテンベルグの教会において、初めてその式文を用いています。そして、この礼拝で説教をしたルターは、ドイツ語の礼拝が行われるようになったいきさつを次のように述べています。
「私たちは、ドイツ語のミサを準備するという試みを始めた。あなたがたが、ミサが採用された外的なつとめであり、正しいキリスト者の慰めのために定められたものであることを知っている。そこで私はあなたがたキリスト者にお願いする。神がそれによってあなたがたに喜びを与えるよう、神に願い求めていただきたい」
ドイツ語による礼拝式文は、当時の人々に受け入れられ、その年のクリスマス礼拝からヴィッテンベルグの教会で使用されるようになります。そしてその翌年の1526年1月に、ルターは、このお便りの中で引用しました序文を書き、印刷し、出版したのが、この『ドイツ語ミサ』であります。ですから、『ドイツ語ミサ』は、プロテスタント教会初の自国語による礼拝式文として貴重な資料とされ、グレゴリアンチャント(グレゴリオ聖歌)と共に「ドイツコラール」が礼拝の中で重要な位置を占めるようになって行くのです。
ルターは『ドイツミサ』の中で、礼拝やミサに、三つの区分を設け、礼拝や様式の基準を示しています。その内容は、第一には、ラテン語のもので、これは先に出版した『ミサと聖餐の原則』と呼ばれるもので、これを廃止したり、変更したりするつもりはない。そして、礼拝からラテン語を完全になくさないことを明確に述べています。第二に、ドイツ語のミサと礼拝を、単純にレイマン(信徒)のために制定し、これは、すべての民衆の前や教会の中で公に守られるべきものであるということでありました。第三には、礼拝の様式は、福音的な正しい礼拝式の方法が持たれるべきで、ただ祈り、朗読し、洗礼を受け、聖餐にあずかり、その他のキリスト者の業をなすため、一つの家に集まるべきである。そして、ここでは「使徒信条」、「十戒」、主の祈り」についての、より短い「教理問答」がなければならないと、小教理問答の主要な内容を式文に盛り込んで行くのです。
そしてさらにルターは、キリエとアグヌス・デイいわゆる「キリスト・神の子羊」やヌンクディミティス「今こそ去ります」(シメオンの讃歌)など、新しく、それに相応しいやり方で礼拝の順序として取り入れ、導入したのです。その上で、すべてのドイツミサは、本質的に音楽による礼拝であり、聖歌と讃美歌の旋律とを組み合わせてこれを持って礼拝式文としたのです。
この礼拝式文作成は、それからおよそ二百年後、バッハが『ドイツ語ミサ』の意義と伝統を継承し、それによって教会カンタータなどを創作して行く根拠ともなって行くのです。次号は前に予告しました通りバッハについてお話しする予定です。
2025年4月1日
ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人の集いで讃美の歌をうたえ。
イスラエルはその造り主によって喜び祝い
シオンの子らはその王によって喜び踊れ
踊りをささげて御名を讃美し
太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ
(旧約詩編149篇1節~3節)
今回は、表題に沿う形で、宗教改革者マルティン・ルターの音楽、特にルターのコラールの作詞・作曲について書きます。
鉱山業に従事していた父・ハンス・ルターは、上昇志向が強い人で、子どもたちの教育では厳格を極め、マルティンは父の願いに沿う形で勉学に取り組みます。
マルティン・ルターが生まれて半年後に、一家はマンスフェルトへ移住し、マルティン・ルターはここの教会付属の学校へ通います。13歳になり、自宅から離れてマクデブルグ、次いで15歳から17歳にかけて、アイゼナハにある聖ゲオルク教会付属の修道院校で学びます。その後、法律家になるべく1501年にエアハルト大学に入学します。ルターはここで、最新の音楽理論の研究に勤しみ(いそしみ)、実践的な音楽教育においても教会の歌唱やチターの演奏技術に至るまで、かなりの修練を積み、音楽への没頭と到達度においてルターは人並みの域を超えていました。
後に曲集出版の共労者ラウの曲集の序文として記された「音楽礼賛」にその思い入れを如実に覗うことの出来る文章があります。そこでルターは音楽の効用について多くの言葉を費やしていて、その最後の部分に、若者を薫陶しその徳性を助長させるという働きに言い及んでいます。「音楽は邪(よこしま)な感情を追い払い、悪しき交際やもろもろの悪徳を避けさせる」というのです。このようにルターは音楽の教育的役割を高く評価しているのです。
ヨーロッパでは、古代から修辞学の学びは青年が社会の成員となるために必須でありました。その課程には音楽も含まれていて、言葉と音楽は密接に結びついて展開して来ていたのです。そして、この伝統がキリスト教世界にも受け継がれて行きます。音楽は、「自由七学科」の一つとして中世的な教養の基盤となり、そのような広く文芸と関わる音楽、その社会的な価値としての理解
、ルターの宗教改革運動もまたその伝統上に立つことと繋がって行くのです。
音楽の教育的側面を民衆にまで拡大したことは、ルターの宗教改革においての大きな功績でありました。聖書をドイツ語に翻訳して行く構想でルターは、美しさとわかりやすさを兼ね備えた言葉を求めていますが、そこで、聖書の言葉が、比較的短い言葉の単位を連ねて行く形を取っています。それは、視覚による黙読のためではなく、朗読による耳からの理解に耐えるためには、聴覚のリズムにのった音楽的な言葉でなくてはならないと考えたからなのです。この構想によってルターは聖書の翻訳から讃美歌製作へと踏み出して行きます。
音楽は聖書の言葉を民衆にさらに受け止めやすくする働きをする。音楽は、旋律と繰り返しによる強調によって言葉を記憶にとどめる教育的な役割を果たす。神の言葉と音楽を結ぶ、それはまさしく讃美歌の役割であるとのルターの構想によって、その規範として作成されたのが有名な詩編130篇「深き苦悩の淵より」です。罪ゆえの深い苦悩を海の深淵に擬えて(なぞらえて)印象深く心に刻まれます。
この詩編130篇1~3節「深き苦悩の淵より」のルターの讃美歌はルーテル教会の現行教会讃美歌の300番に収録されています。讃美歌のドイツ語化は、実はルターよりもカールシュタットやミュンツァーらが先駆けていて、「福音を民衆に近づけるために」グレゴリオ聖歌の旋律を重んじたどちらかというと、感情を喚起し、沈静する情念的な働きを重視したものでした。ルターはこの「ドイツ語ミサ」製作に携わって行きます。ルターとカールシュタット、ミュンツァーとの違いはルターの方がより繊細で
、「私が欲するものは、詩と楽譜の両者、拍と節、そして抑揚、正しい言葉と声からくるものでなくてはならない。さもなくば、すべては猿まねのようなものである」と、言葉への響きの繊細な感覚、言葉と音楽との一致への思考を持つルターにとって、ミュンツァー流のグレゴリオ聖歌の旋律にそのまま乗せただけのドイツ語訳は耐え難いものであったようです。ルターとミュンツァーの讃美歌構想の間には詩と音楽の理解だけではなく、さらには福音の把握の決定的な開きがありました。
ルターは「音楽礼賛」の中で、「神の聖なる言葉に次いでは、まさしく音楽にまして高く賞賛すべきものは何ものもない。というのは、『音楽』は人間の心のあらゆる動きを収める支配者としてこれに力を及ぼすことができるからである。音楽にまして、悲しむ者らを喜ばせ、喜ぶ者たちを悲しくさせ、気落ちした者たちを大胆にし、高慢な者たちを恭順へと誘い、熱く燃え上がった愛を覚ましまた沈め、嫉みや憎しみを和らげるものは、地の上に何もない」と、人間の心情を統べる音楽の働きが語られています。ルターのこの主張の著しい特徴は、音楽の働きが、高ぶる者を低くし、遜る(へりくだる)者を高める方として神を褒めたたえるという「マグニフィカート」(マリアの賛歌)の効用、つまり、神の言葉の働きを象る(かたどる)その効用のために音楽に特別な位置が与えられているということです。
詩編130篇の今日の解釈は、1節~3節の苦悩の底からの神への呼び求めは「わたし」の実存的破綻をあらわに告白し。その告白の内に、自己が神の裁きに堪え得ないことを自覚させられる。神が罪にのみ目を留めるならば誰が神の御前に留まることが出来得ようか、と。4節「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを敬うのです」神には他ならぬ恵みと憐れみがあり、もろもろの罪をゆるしたもう。この赦しこそが神に対する真の畏れを生む。悔い改め(神への立ち帰り)は、神の赦しがあって初めて生じるものである。ここにルターの信仰が響いているのです。
神の正しさは裁きにではなく、その赦しにあるという「神の義の再発見」このできごとは修道士ルターを宗教改革的転回へと導きました。ルターはこの詩編にそのような新約聖書の「福音」の先取りを認め、更にこの詩編の後半5節以下の主題「希望」の根拠を新約聖書の信仰理解から描き直しているのです。「そういうことですから、私はただ神にのみ望みを置き、私の功績(いさおし)を基とすることはしません。神にのみ私の魂を委ね、ただひたすらその限りなき恵みにのみ依り頼む。そのことを私に約束しているのは、神の尊い御言葉であり、私の慰め、私の揺るがない避けところである神の御言葉をこそ私は常に待ち望むのです」ここには、宗教改革の理念、「信仰のみ、恵みのみ、聖書(神の御言葉)のみ」が明確に打ち出されているのです。
2025年3月1日
ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人の集いで讃美の歌をうたえ。
イスラエルはその造り主によって喜び祝い
シオンの子らはその王によって喜び踊れ
踊りをささげて御名を讃美し
太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ
(旧約詩編149篇1節~3節)
マルタ・アルゲリッチと並んで、もう一人のピアノの女王と評されるマリア・ジョアン・ピレシュが今年8月に来日公演することが決定したとのニュースが流れました。今回の公演は東京・大阪・広島でピアノソリストとして出演するということです。私は彼女の大ファンでピアノ演奏だけではなく、考え方や行動にも惹かれるものがあります。
マリア・ジョアン・ピレシュの来日公演のニュースを聞いたときには、〝 えっ!彼女は引退したはずでは?〟と思いました。2018年にコンサート活動からの引退を宣言しています。もう実演での彼女のピアノを聞くことはないのだと多くのファンは思っていたはずです。しかし、ピレシュは今でもコンサートを行っているということがわかりました。
引退理由は「もう思うように弾けなくなったから」という理由ではなく、仕事としてピアノを弾いたり、それに関わるビジネスの世界に疲れたということだったようです。その後、仕事としてではなく、もっと人や社会のために、自分の創造性を自由に生かしたいという思いを経て、こうして日本公演が実現していると言う説明でした。
ピレシュの絶対的と言ってもいいほどのピアノの音の美しさは、透明でやわらかく、静けさに満ちていて、それでいて、十分な響きと、明瞭さも持っていて、限りなく優しい風情があり、爽やかな風に音楽が流れて揺れているような、作曲者のその時の思いが実際の音となって響いていると、とりわけ、ピレシュの演奏によるショパンのノクターンの曲にそれを感じます。ピレシュが弾くショパンのノクターン二〇番嬰ハ短調遺作は一旦聞き出すと、何度でもいつまででも聞いていたいそんな気持ちになります。ショパンの遺作とは、生前発表されていなかった作品のことです。なるほど、あの戦場のピアニストの映画の場面でこれが演奏される理由が分かるような気がします。音楽のメッセージ性とはこういうことを言っているのだなと改めて思います。引退して現在に至るピレシュはそれまでよりもはるかにしのぐ美しさに到達しているのではないだろうか、ぜひ聞いてみたいと思いますがたぶん無理でしょう。
以下にマリア・ジョアン・ピレシュが2018年に引退声明を発表した時の言葉の断片を少し長くなりますが紹介します。
「芸術は創造することが使命であって、商業的な結果を気にする必要は本来ないはずでした。それなのに今、芸術と商業主義とのはざまの困惑が、ますます大きくなって来ています。第二次世界大戦以降、エンターテイメントやショウビズが発達したことで、芸術世界全般が混乱しています。社会が芸術家に対し、市場で売れるようでなければ存在する権利はないと思い込ませている。真の芸術家として生きることは不可能になってしまいました。若者にとって本当に意地悪な世の中だと思います。音楽学校や先生が若いアーティストに、自分の売り込み方や効果的なメールの書き方を教えるだなんて狂っていると思いますし、とても危険です」
「私もいろいろな失敗を経て進んで来ましたがそんな中で感じているのは、たとえ今やっていることの意義が人々に理解してもらえなくても、自分の中で確信できていれば良いのです。そして、常に正直に行動すること。そうすれば、経験が自分を助けてくれますし、自分自身が変わることを可能にしてくれます。変わることを許せるということは、自分が失敗することを許せると言うこと。それによって、真実を探っていく。こうして人は、より早く前に進んでいけるのです。」
「人生は、人と共に生き、共同してこそ意味を持ちます。もし、私が得た何かを自分だけのものとして留めおけば、それはすぐに役に立たなくなってしまいます。人が簡単に音楽の本質を見つけることはできません。でも若い人に伝えたいのは、本当に人と共に生きることを実行すれば、音楽の本質に向かう道は、見つけることができるということ。あなたが持つものが自分だけのものではなく、全ての人のものであると思うことが出来れば、道は開けるのではないでしょうか」
「現在、芸術は美術館やコンサートホールなどの閉ざされた空間の中に限定されてしまっていますが、より広く、社会全体に浸透させることがアーティストの使命だと考えています。残念ながら、今、若手の芸術家の多くは〝競争(コンペティッション)〟によってエネルギーが枯渇し、十分に社会とのつながりを持てていない状況です。・・・たとえば、病院に行き、そこにいる患者と関わりを持って彼らの〝苦痛〟を知ること。痛みや苦しみ、争いなど、きれい事ばかりではない現実の一面に目を向けることが大切だと思います。演奏の場をコンサートホールに限定していると、『自分は多くの人々に喜びを与えている』という感覚に陥りがちですが、それは単なる幻想に過ぎません。自らの社会の中での立ち位置を知って、〝与える〟だけでなく〝もらう〟ことー他者と対話をし、学ぶことーの喜びを味わい、活動のバランスを取ること。それが私からの若手芸術家にできるアドバイスです」
ピレシュはさらに「他者への尊敬を本質とする芸術創造の精神と、競争は相反する」という自分自身の芸術哲学に基づいて、音楽コンクールについて次のように述べます。
「コンクールばかり経験して来たピアニストは、まるでロボットのような演奏をしていると感じています。コンペティッション(競争)のためだけに準備や演奏をする・・・結果、創造性やイマジネーション、そして作曲家に対する敬意は失われ、統一された弾き方だけが残ります。そうした人は、真の意味で楽譜を読むことができず、音楽のエッセンスを理解することもできません。現在のクラッシック界は、コンクールで結果を残さないと演奏家として食べていけない、という問題のある状況に陥っていますが、そんなものは幻想で、本来は一日10時間もピアノを弾く必要はないはずなのです」
ピレシュは話しの中で繰り返し「自分は(奏者)であり、(作曲家)と対話した結果を、聞き手=他者と共有して初めてその役割が果たされる」ことを強調しています。ピレシュの考え方が端的に表された言葉でした。
作曲家と自分との対話、そして自分自身の魂に問いかけることの大切さ、それが創造性の源であるとピレシュは語っているのです。これはそのまま、宗教改革者ルターとバッハの音楽性に通じるものでもあると私は思いますので、次回はルターとバッハの教会音楽について、すなわち、人間性を豊かに育む宗教音楽(教会音楽)について書こうと思います。
2025年2月1日