| 「信仰告白に立つ群れー教会ー」マタイ10:40-42 2026.6.28 聖霊降臨後第5主日 大宮陸孝牧師 |
| 「はっきり言っておく。わたしの弟子であるという理由で、この小さな者に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ず報いを受ける」(マタイ10章42節) |
| 本日の福音書の日課は先週の弟子派遣の説教の続きです。主イエスに従うことと、この世の人々との対立が問題とされていました。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133篇1節)。という、主イエスの許での家族の親しい交わりは本来の人間関係のあるべき姿ではなかったのか。十戒では「神のみを神とせよ」という第一戒とともに、「あなたの父と母をうやまえ」という第五戒がかかげられ、神への愛と人への愛は、人生の縦糸と横糸が綾織りとなって織りなすように、麗しい調和の取れたものであるはずであります。しかし、わたしたちの現実は、矛盾と破れに満ちていて、本来あるべきではない様相を呈しています。十字架はわたしたちの中で本来あってはならない筈の罪の痛々しい現実を一方では示しています。神の子がこの世に来られた時、その神の子が無理解と迫害を経験されるようなことはあるまじきことであった。しかし、イエスはその人間のあるまじき罪の現実を受け止めて、十字架へと赴かれた。それは人間の罪を購う神の愛による救いであった。そのことを通して人は救われた。だからこのイエスの救いの業を信じて受け入れ、主に従う者になったわたしたちも、このような痛みを忍んでイエスに従うべきであるというのが、本日のイエスの説教の趣旨であります。 十字架の道は自分の罪に死ぬ道であります。しかし、それを通して命の道が開ける。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(39節)自分の命を得るとは、この世の罪の中にある自己中心的な生活を満たして生きているわたしたちの現実のことで、そのような生活は命を失っているのだと、イエスは指摘しているのです。それに対して、主のために命を失うということは、その罪の現実の中にある自分の生き方を捨てること、そして主に従う新しい生き方をすること、すなわち主の愛に生きる新しい生き方をすることです。そのような主イエスとの深い愛にある交わりこそ、命そのものであるとイエスは言われます。イエスの豊かな命を表す愛とは何か。それをイエス御自身が十字架への道行きで示されました。その主の全き愛を知る時、わたしたちも自分自身を神に捧げ返して主を愛する道へと導かれて行くのです。 そのことを踏まえて本日の日課は、十二弟子派遣という5節以下の状況に立ち帰り、主の派遣する弟子たちを受け入れる所から始まる新しい共同体の創造という展望が、神の意志に基づくものであり、また、弟子たちに託された権威がどのようなものであるかを示して行きます。40節「あなた方を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」主イエスは、主の弟子たちを通してわたしたちの所に来られる。つまりこれらの弟子たちは、イエスのものとして聖別され、派遣されたのだと信じて、その故に受け入れ、宿を貸し、その言葉に耳を傾ける人は、イエス御自身を受け入れたということである。そのように、弟子たちには、イエスの代表者たる権威が授けられているというのです。しかもそのことによって、弟子たちを受け入れる人たちにも大きな恵みがもたらされることになると言うのです。福音の真理は知的真理である以上に、イエスの愛という人格的な真理でありますから、この福音によって生きている者との交わりの中で伝えられるものです。福音の宣教が教会の形成・交わりと切り離すことができないのはこのためなのです。 キリストの体である教会の交わりに相互に繋がることによって、キリストを受けるということです。福音と教会とのそのような生きた関係が切れて、福音を教会の交わりを通さないで学ぼうとする傾向が生まれるとするならば、それは、福音を人格的・生活的な真理としてではなく、知的真理という面だけから偏った理解をしているか、あるいは教会の交わりが福音にふさわしく形成されていないために、そのことへの反動として生じたかのいずれかであるだろうと思います。そのような場合に、わたしたちは人の福音理解を批判する前に、自分たちの教会が、身をもって福音に生き、証ししている共同体であるか、また、わたしたちがイエスに繋(つな)がる枝となり、生きた証人となっているかを吟味しなければなりません。 「わたしを受け入れる人は、わたしを使わされた方を受け入れるのである」(40節後半)といわれていますが、ここに主イエスご自身が父なる神から派遣された宣教者であることが明示されています。キリストは、自分の発見した真理を専売特許として保有し、他の者がそれを求めてやって来るのを待っているというのではなく、与えられた恵みを人々と共に受けようとして自分の方から出かけて行く宣教者であるのです。主イエスは父なる神から遣わされた最初の根源的な宣教者である。わたしたちの宣教は、父なる神がみ子を世に遣わされたという、この事実を伝えるために派遣されることなのです。イエス御自身が言われている「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20:21節)ここにわたしたちを宣教活動に押し出す原動力があるのです。こうしてイエスは信仰者を宣教派遣に押し出しながら、その結論として、使徒の宣教を受け入れる者は、使徒を派遣したイエスを、ひいてはイエスを派遣した父なる神を受け入れることなのだという宣言で結ばれています。 41節〜42節そして、マタイは、権威を授けられ、派遣された使徒を預言者・義人と言い換えています。新約時代の預言者とは、つまり、天にいますイエスの御言葉を霊において聞き取りこれを伝達する人という意味で、これは、イエスの昇天以後の時期を背景としていると見ることが出来ます。そのような霊によって、イエスの御言葉によって神の意志を受けて宣教する人(すなわち預言者)を受け入れるということは、イエスや弟子たちに見ると同じように、非難と攻撃に身をさらし、信仰ゆえの受難を受ける決意無しにはできないことでありました。イエスに対する信仰告白は、そのイエスの御言葉を伝達する人との受難の共有へと必然的に導くものであるということです。しかし、この一体の関係を通して、預言者と同じ報いが与えられるというのであります。それに続いて、「正しい者」への言及がありますが、これは預言者ほどの霊的資質は持っていないにしても、同じようにイエスを信じて「正しい」とされた信徒のことであろうと思われます。そういう存在としての「正しい人」信仰深い人を受け入れ、その祝福と受難を共にする者に対しても、同じように報いが与えられることが約束されています。 神の救いの業を宣教する働き人となった信仰者を受け入れ、彼らと交わりをもつことによって、この選ばれた人々に約束された神の祝福をも共有すると言われます。このような祝福は神の救いを宣べ伝える働きに召された特別な賜物を与えられた人たちだけでなく、彼らを通してキリストとの関係に入れられた人々へも、キリストの体の枝とされたが故に、祝福が及ぶと宣言されます。宣教は、最終的には救いの約束を信じるすべての人が神の国に招き入れられるのだとの救いの完成の約束を根拠にして、それだから現在において、決死の覚悟で果たさなければならない教会の努めなのだと、マタイは強調しているのです。 42節は10章全体の結びです。今までの宣教者を受け入れると言うことをさらに一般化して、「冷たい水一杯でも飲ませる」という言葉で具体化されて行きます。渇きに悩むことの多かった乾燥した熱帯地方パレスチナの風土において、冷たい水一杯を提供することは、さりげない小さい業とは言え、人の内面から発露する愛の表現でありました。その相手がたとい小さな者であったとしても、イエスの弟子たるゆえに、その人を受け入れ、愛のもてなしをするという行為を通して、天にある主イエスを頭とする命の共同体の中に組みいれられて行くという約束です。 マタイは10章5節以下に、何の旅装もなく宣教の旅に出ることを指示した主イエスの言葉を記していますが、そこにおいてのさしあたりの問題は、経済的な困窮ということでありました。そして、40節以下においては、マタイはふたたびこの主題に返って、何の備えもなく、ただ主の御言葉を携え進む弟子たちが、どのように受け入れられるかということを語ろうとしているのです。派遣される弟子たちには、イエスに等しい権威を授けてあるのだと言うことを示して、その弟子たちの宣教活動が神ご自身の手で支えられることを示し、約束しておられるという趣旨です。 福音の使徒であるということは、父なる神から派遣されたイエス・キリストと同じ使徒であると言う光栄を与えられていることを憶えなければなりません。「使徒」と訳されているギリシャ語「アポストロス」は、ただの使者には用いられません。「アポストロス」は単なる使者以上の全権大使あるいは名代(みようだい)のことで、その語根動詞が「わたしを遣わされた方」(40節)です。イエスは御父のアポストロスであり、そのイエスのアポストロスたちが福音の宣教者なのだということです。 ですから、宣教者は主イエスを代弁し、ひいては神ご自身を代弁するのです。第二コリント3章5節〜6節「一人で何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さいました」とあります。41節の「正しい者」も本人が清く正しいというより、神の救いの義を宣べ伝えるという任務の上から見た呼称であろうと思われます。神からの尊い使命を与えられた人としてのこの栄光を思うときに、伝道者は、さまざまな困難と挫折に遭っても不撓不屈(ふとうふくつ)の精神をもって伝道し続けるのです。 40節から「受け入れる」と言うことが何度も語られていますが、この受け入れるという言葉は、宣教者を家に迎え入れる(10章14節)ことにも、神の言葉を「受け入れる」(使徒8・14)ことにも用いられていまして、宣教された福音を受容し信じることと、その福音の宣教者を迎え入れ支えることとが、一つの心の内と外の違いであり、「わたしが主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、わたしの家に来てお泊まりください」とパウロたちを誘ったリディアにその典型を見ることができます(使徒16章15節)。ですので、「受け入れ」られる「あなたがた」(40節)、「預言者」「正しい者」(41節)、「わたしの弟子」「この小さな者の一人」(42節)は全て同じ意味であり、福音宣教に労する「イエスの弟子」を意味するものであります。 このような宣教者を「受け入れる」人は、その使信を受け入れると同時に宣教者を受け入れて助ける人のことであり、「冷たい水一杯を飲ませて」支える人にいたるまで、報いから漏れることはないと言われますが、この表現は25章35節に出て来る「最も小さい者の一人」にすることを類推させられます。ですから、宣教者を受け入れる者に保証される「報い」とは、「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぐ」(25章34節)ことのほかではないということになります。 このことは、宣教された福音を信じて受け入れ、宣教者を迎え入れて支え助ける者が、宣教者と同じとみなされる、ということを意味します。宣教者を受け入れて助ける人は、そうすることによって宣教のために「共に働く者となる」のです(第三ヨハネ8節)。言い換えるならば、「福音に共に与る」者とされると言うことです。 福音の宣教とは、専門の宣教者だけではなく、物心両面からこれを助け支える一般の信徒の方々も参画するキリスト者みんなの業なのだと言うことです。そしてそのキリスト者の働きの中にイエス・キリストご自身が伴っていてくださる栄光ある業なのだとの宣言です。そのことを覚えてこの週も信仰と宣教の歩みを続けて行きたいと思います。 38節にあります「自分の十字架を担ってわたしに従う」とは、マタイ福音書16章24節以下にもう一度出て来ます。8月30日の日課になっていますので、そこで改めて取り上げてお話し致します。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 」 マタイ福音書10章40節〜42節 本日の福音書の日課は先週の弟子派遣の説教の続きです。主イエスに従うことと、この世の人々との対立が問題とされていました。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133篇1節)。という、主イエスの許での家族の親しい交わりは本来の人間関係のあるべき姿ではなかったのか。十戒では「神のみを神とせよ」という第一戒とともに、「あなたの父と母をうやまえ」という第五戒がかかげられ、神への愛と人への愛は、人生の縦糸と横糸が綾織りとなって織りなすように、麗しい調和の取れたものであるはずであります。しかし、わたしたちの現実は、矛盾と破れに満ちていて、本来あるべきではない様相を呈しています。十字架はわたしたちの中で本来あってはならない筈の罪の痛々しい現実を一方では示しています。神の子がこの世に来られた時、その神の子が無理解と迫害を経験されるようなことはあるまじきことであった。しかし、イエスはその人間のあるまじき罪の現実を受け止めて、十字架へと赴かれた。それは人間の罪を購う神の愛による救いであった。そのことを通して人は救われた。だからこのイエスの救いの業を信じて受け入れ、主に従う者になったわたしたちも、このような痛みを忍んでイエスに従うべきであるというのが、本日のイエスの説教の趣旨であります。 十字架の道は自分の罪に死ぬ道であります。しかし、それを通して命の道が開ける。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(39節)自分の命を得るとは、この世の罪の中にある自己中心的な生活を満たして生きているわたしたちの現実のことで、そのような生活は命を失っているのだと、イエスは指摘しているのです。それに対して、主のために命を失うということは、その罪の現実の中にある自分の生き方を捨てること、そして主に従う新しい生き方をすること、すなわち主の愛に生きる新しい生き方をすることです。そのような主イエスとの深い愛にある交わりこそ、命そのものであるとイエスは言われます。イエスの豊かな命を表す愛とは何か。それをイエス御自身が十字架への道行きで示されました。その主の全き愛を知る時、わたしたちも自分自身を神に捧げ返して主を愛する道へと導かれて行くのです。 そのことを踏まえて本日の日課は、十二弟子派遣という5節以下の状況に立ち帰り、主の派遣する弟子たちを受け入れる所から始まる新しい共同体の創造という展望が、神の意志に基づくものであり、また、弟子たちに託された権威がどのようなものであるかを示して行きます。40節「あなた方を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」主イエスは、主の弟子たちを通してわたしたちの所に来られる。つまりこれらの弟子たちは、イエスのものとして聖別され、派遣されたのだと信じて、その故に受け入れ、宿を貸し、その言葉に耳を傾ける人は、イエス御自身を受け入れたということである。そのように、弟子たちには、イエスの代表者たる権威が授けられているというのです。しかもそのことによって、弟子たちを受け入れる人たちにも大きな恵みがもたらされることになると言うのです。福音の真理は知的真理である以上に、イエスの愛という人格的な真理でありますから、この福音によって生きている者との交わりの中で伝えられるものです。福音の宣教が教会の形成・交わりと切り離すことができないのはこのためなのです。 キリストの体である教会の交わりに相互に繋がることによって、キリストを受けるということです。福音と教会とのそのような生きた関係が切れて、福音を教会の交わりを通さないで学ぼうとする傾向が生まれるとするならば、それは、福音を人格的・生活的な真理としてではなく、知的真理という面だけから偏った理解をしているか、あるいは教会の交わりが福音にふさわしく形成されていないために、そのことへの反動として生じたかのいずれかであるだろうと思います。そのような場合に、わたしたちは人の福音理解を批判する前に、自分たちの教会が、身をもって福音に生き、証ししている共同体であるか、また、わたしたちがイエスに繋(つな)がる枝となり、生きた証人となっているかを吟味しなければなりません。 「わたしを受け入れる人は、わたしを使わされた方を受け入れるのである」(40節後半)といわれていますが、ここに主イエスご自身が父なる神から派遣された宣教者であることが明示されています。キリストは、自分の発見した真理を専売特許として保有し、他の者がそれを求めてやって来るのを待っているというのではなく、与えられた恵みを人々と共に受けようとして自分の方から出かけて行く宣教者であるのです。主イエスは父なる神から遣わされた最初の根源的な宣教者である。わたしたちの宣教は、父なる神がみ子を世に遣わされたという、この事実を伝えるために派遣されることなのです。イエス御自身が言われている「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20:21節)ここにわたしたちを宣教活動に押し出す原動力があるのです。こうしてイエスは信仰者を宣教派遣に押し出しながら、その結論として、使徒の宣教を受け入れる者は、使徒を派遣したイエスを、ひいてはイエスを派遣した父なる神を受け入れることなのだという宣言で結ばれています。 41節〜42節そして、マタイは、権威を授けられ、派遣された使徒を預言者・義人と言い換えています。新約時代の預言者とは、つまり、天にいますイエスの御言葉を霊において聞き取りこれを伝達する人という意味で、これは、イエスの昇天以後の時期を背景としていると見ることが出来ます。そのような霊によって、イエスの御言葉によって神の意志を受けて宣教する人(すなわち預言者)を受け入れるということは、イエスや弟子たちに見ると同じように、非難と攻撃に身をさらし、信仰ゆえの受難を受ける決意無しにはできないことでありました。イエスに対する信仰告白は、そのイエスの御言葉を伝達する人との受難の共有へと必然的に導くものであるということです。しかし、この一体の関係を通して、預言者と同じ報いが与えられるというのであります。それに続いて、「正しい者」への言及がありますが、これは預言者ほどの霊的資質は持っていないにしても、同じようにイエスを信じて「正しい」とされた信徒のことであろうと思われます。そういう存在としての「正しい人」信仰深い人を受け入れ、その祝福と受難を共にする者に対しても、同じように報いが与えられることが約束されています。 神の救いの業を宣教する働き人となった信仰者を受け入れ、彼らと交わりをもつことによって、この選ばれた人々に約束された神の祝福をも共有すると言われます。このような祝福は神の救いを宣べ伝える働きに召された特別な賜物を与えられた人たちだけでなく、彼らを通してキリストとの関係に入れられた人々へも、キリストの体の枝とされたが故に、祝福が及ぶと宣言されます。宣教は、最終的には救いの約束を信じるすべての人が神の国に招き入れられるのだとの救いの完成の約束を根拠にして、それだから現在において、決死の覚悟で果たさなければならない教会の努めなのだと、マタイは強調しているのです。 42節は10章全体の結びです。今までの宣教者を受け入れると言うことをさらに一般化して、「冷たい水一杯でも飲ませる」という言葉で具体化されて行きます。渇きに悩むことの多かった乾燥した熱帯地方パレスチナの風土において、冷たい水一杯を提供することは、さりげない小さい業とは言え、人の内面から発露する愛の表現でありました。その相手がたとい小さな者であったとしても、イエスの弟子たるゆえに、その人を受け入れ、愛のもてなしをするという行為を通して、天にある主イエスを頭とする命の共同体の中に組みいれられて行くという約束です。 マタイは10章5節以下に、何の旅装もなく宣教の旅に出ることを指示した主イエスの言葉を記していますが、そこにおいてのさしあたりの問題は、経済的な困窮ということでありました。そして、40節以下においては、マタイはふたたびこの主題に返って、何の備えもなく、ただ主の御言葉を携え進む弟子たちが、どのように受け入れられるかということを語ろうとしているのです。派遣される弟子たちには、イエスに等しい権威を授けてあるのだと言うことを示して、その弟子たちの宣教活動が神ご自身の手で支えられることを示し、約束しておられるという趣旨です。 福音の使徒であるということは、父なる神から派遣されたイエス・キリストと同じ使徒であると言う光栄を与えられていることを憶えなければなりません。「使徒」と訳されているギリシャ語「アポストロス」は、ただの使者には用いられません。「アポストロス」は単なる使者以上の全権大使あるいは名代(みようだい)のことで、その語根動詞が「わたしを遣わされた方」(40節)です。イエスは御父のアポストロスであり、そのイエスのアポストロスたちが福音の宣教者なのだということです。 ですから、宣教者は主イエスを代弁し、ひいては神ご自身を代弁するのです。第二コリント3章5節〜6節「一人で何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さいました」とあります。41節の「正しい者」も本人が清く正しいというより、神の救いの義を宣べ伝えるという任務の上から見た呼称であろうと思われます。神からの尊い使命を与えられた人としてのこの栄光を思うときに、伝道者は、さまざまな困難と挫折に遭っても不撓不屈(ふとうふくつ)の精神をもって伝道し続けるのです。 40節から「受け入れる」と言うことが何度も語られていますが、この受け入れるという言葉は、宣教者を家に迎え入れる(10章14節)ことにも、神の言葉を「受け入れる」(使徒8・14)ことにも用いられていまして、宣教された福音を受容し信じることと、その福音の宣教者を迎え入れ支えることとが、一つの心の内と外の違いであり、「わたしが主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、わたしの家に来てお泊まりください」とパウロたちを誘ったリディアにその典型を見ることができます(使徒16章15節)。ですので、「受け入れ」られる「あなたがた」(40節)、「預言者」「正しい者」(41節)、「わたしの弟子」「この小さな者の一人」(42節)は全て同じ意味であり、福音宣教に労する「イエスの弟子」を意味するものであります。 このような宣教者を「受け入れる」人は、その使信を受け入れると同時に宣教者を受け入れて助ける人のことであり、「冷たい水一杯を飲ませて」支える人にいたるまで、報いから漏れることはないと言われますが、この表現は25章35節に出て来る「最も小さい者の一人」にすることを類推させられます。ですから、宣教者を受け入れる者に保証される「報い」とは、「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぐ」(25章34節)ことのほかではないということになります。 このことは、宣教された福音を信じて受け入れ、宣教者を迎え入れて支え助ける者が、宣教者と同じとみなされる、ということを意味します。宣教者を受け入れて助ける人は、そうすることによって宣教のために「共に働く者となる」のです(第三ヨハネ8節)。言い換えるならば、「福音に共に与る」者とされると言うことです。 福音の宣教とは、専門の宣教者だけではなく、物心両面からこれを助け支える一般の信徒の方々も参画するキリスト者みんなの業なのだと言うことです。そしてそのキリスト者の働きの中にイエス・キリストご自身が伴っていてくださる栄光ある業なのだとの宣言です。そのことを覚えてこの週も信仰と宣教の歩みを続けて行きたいと思います。 38節にあります「自分の十字架を担ってわたしに従う」とは、マタイ福音書16章24節以下にもう一度出て来ます。8月30日の日課になっていますので、そこで改めて取り上げてお話し致します。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「永遠の命に至る道」マタイ10:24-39 2026.6.21 聖霊降臨後第4主日 大宮陸孝牧師 |
| あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(マタイ10章30-31節) |
| マタイ福音書10章5節から15節は、イエスが一二人の弟子を派遣したという記事に続いて、16節から23節では一二人の弟子たちに限らず、すべての信徒に臨む迫害と困難を予告し、続いて本日の日課24節以下では、迫害と困難の中にあるにもかかわらず、その中にあってなお、主イエスの救いを信じる信仰告白を主題にしている所です。5節以下では「神の国の福音」を宣べ伝え、病を癒し悪霊を追い出すことが指示され、16節以下で「わたしのために」、「わたしの名のために」つまりイエスとのつながりが迫害の原因になることが明示され、そして24節以下で、イエスとその弟子たちが、受難の中で一つの共同体として結び合わされていく次第が語られています。 24節「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」この冒頭の言葉は、普遍的な真理として語られているのではなく、ユダヤ教の伝統という歴史的な背景から理解されていかなければなりません。ユダヤ教においては、真理は神から啓示されるのであり、これを弟子に伝達することが、師たる者の責務でありました。その上ここでなされているのは、単なる理論や学問の継承というのではなく、神から臨む命と祝福の伝達と言うことでありました。それはユダヤ教の源流にまで遡ってみれば、モーセという一人の人物を通して以外にはイスラエルの出エジプトという出来事は起こることはなかったし、その後の荒野の約束の地を目指しての旅においても、神からモーセを通して与えられる指導と訓練に拠(よ)ってだけ、誤ることなく道を進むことが出来たのであり、イスラエルはこれ以後連綿として、その信仰が深められ、継承されて行った経緯を見るときに、「弟子は師にまさるものではない」という言葉の含蓄が正しく理解されていくことになるのです。 荒野を旅するイスラエルの群れを導く真理は、神自身から臨む命として、モーセの導きを通してイスラエルの群れへと流れて行った。だからイエスの弟子たる者の到達点もまたイエスの言葉によって、神の群れとして整えられて行くことであったと言えます。イエスは、弟子や、やがて群れに加わる神の群れの前に、そのような人々を導く神の言葉として立たれたということです。25節では、そのイエスと召し出された群れとの関係が、主人と奴隷の関係に擬え(なぞらえ)られています。ここではイエスの共同体に加えられて行くということは単に真理を学ぶ門下に入門するとか、命の恵みに与るということだけではなく、その共同体に加わる者一人一人の全存在が、主イエスのものになるという、神の絶対的な支配のもとに委ねて行くという意味が含まれ示されているのです。そうであるからこそ、師と弟子の関係は共に神の命に与るだけではなく、外からの非難攻撃にさらされるということがあったとしてもなお、一つとされて行くいわば運命共同体であるというのです。 さらに、25節の後半では、弟子はその師以上に酷い悪罵を受ける、と言う趣旨に展開して行きます。その意味は、イエスの弟子たる者は、その受難を共にする共同体の中に組み込まれて、イエスが受ける受難をその群れもまた受けることになるというのがここでの意味するところであります。そしてこれは、避けることの出来ない必ず起こることであるから、そういう事態に直面したときには、何か意外なことが起こったかのように驚き慌て、また、恐れることなく対処して行くようにと、次の26節以下に語られて行きます。 26節「人々を恐れてはならない」この冒頭の言葉の根拠として、次に、真理は一時的に覆い隠されていても、後に必ず顕わになるという必然性を示して、そして、イエス自身が密かに内輪に語られたことを、屋根の上で公然と宣べ伝えよ、と勧めます。ここで言われるイエスの言葉は、一般的な命題としては必ずしも妥当するものではありません。わたしたちの現実においては、明るみに出ることなく、闇から闇へと葬り去られてしまうことが、少なからずあるからです。ここでは、イエスがもたらそうとしている神の言葉の真理のことを言おうとしていると見ることが出来ます。イエスの救い主としての公生涯が始まったとき、イエスに聞き従った人々は、僅かな小さき群れでありました。そこでイエスが密かに語られたことは、神の真理の言葉であるゆえに必ず広く明るみに出る。「神が語られた言葉は必ず成る」この神の言葉の必然性を指し示しながら、この神の言葉の成る必然性を担う者として、この小さな群れをお立てになろうとしておられたということです。ですから、この弟子たちは、逆にこの必然性に担われる者として、恐れることなく公衆の面前で神に与えられた言葉を語る使命を実行しなさいと命じられたのだと理解することが出来ます。しかし、それにしても、この宣教は大きな危険を伴うことには変わりありません。そこでさらに「恐れるな」と指示する理由と根拠を、重ねて28節以下に語られて行きます。 「体を殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)これは、真に恐れるべき者が誰であるかを示すことによって、死の恐怖を乗り越えさせようとする趣旨です。人間は人の体を殺すことはできても、それ以上のことはできないけれども、神は人間の死後、その霊魂を審き、これを地獄に引き渡す権威を持っておられる。だから、神こそ真に恐るべきお方である。そうでありながら、この最終的な権威を持っておられる神があなた方を救ってくださるという慰めと励ましを含んだ言葉であり、その方を信じ、その御手にすべてを委ねるという信仰によってだけ、死の恐怖を乗り越え進むことができると、神の救いを指し示し、信じて依り頼むことを勧めているのです。 29節〜31節は、わたしたちの命には隅々に至るまで、神の配慮が行き届いていると言う趣旨です。あなた方の命について言うならば、髪の毛一本に至るまで神は皆ご存知である。かくのごとく細やかな守りと配慮の中にあなた方はあるのだ。だから信じて恐れるなと再度の励ましを語り締め括ります。 32節〜33節は、イエスに対する信仰告白が語られます。「人々の前で」は、厳密に言えば、敵意を持つ人々の前でということです。「自分をわたし(イエス)の仲間であると言い表す者」この原文は、「わたしについて告白する者」です。イエスを告白する者を、イエスもまた「天の父の前で」告白してくださるというのです。ここまで読み進めて理解しましたように、イエスをわが主と告白することは、悪魔呼ばわりされ、死の危険を招くことでありましたが、これを公言することによってこそ、イエスと一つに結び合わされるのであり、地上では苦難の道を歩まなければならないとしても、天にいます父なる神のみ前においては、イエスから弟子として承認していただけるという、つまり、「告白する」ということが、生と死を分かつ分岐点になると言われているのです。しかもこのことは信じる者一人一人の決断に委ねられている。信仰告白とは元来このように、生命をかける主体的な行為であるということです。この告白を拒否して、イエスが主であることを否認するならば、父なる神のみ前において、同じく否認されることを覚悟しなければならないと、イエスの宣教に続く弟子たちの、人々への宣教の使命の大きさと信仰告白によって公に宣教を継続して行く奨励とがここで語られているということです。なお、ここでの宣教命令は、マタイ福音書の28章20節にありますように、弟子による宣教は復活以後の活動であるというマタイ自身の理解を踏まえて読んで行く必要があろうかと思います。 34節〜37節 この家庭内での分裂についての言葉は、メシアの到来によって惹き起こされる親族内の分裂を描き出す預言としてユダヤ人が解釈していたミカ書7章6節を思い起こさせます。そして、信仰告白ゆえの迫害や家庭内の対立は、福音が真実であるという確信を与えることを示しています。イエスは公的な、また全面的な服従を要求しますが、それは家族の絆よりも重要であり、自己否定、自己放棄を通して永遠の命に至るのだとの教示へと展開されます。 イエスの到来によって、イエスを主と告白し、信じ従う者と、イエスを退け、イエスに敵対する者との間に、離反と対立が起こって行くこと、これは避けることの出来ないもので、家族の中にまで持ち込まれることがここに示されています。家族と言えば、本来最も身近な存在であって、親しく結ばれている生活共同体であり、毎日起居を共にする間柄であるのに、この絆が断ち切られるとするならば、それは、外から臨む迫害に劣らずどんなに大きな痛手であろうか。そして「家族」とはユダヤ社会においては、単なる血縁関係に留まるものではなく、家長の支配下に統括されている信仰共同体であります。そのことに思いを致すときに、イエスに対する信仰告白によってこの宗教的な結束が破れ、相互の繋(つな)がりが引き裂かれることが必然的に起こるほど、生けるヤハウエの神とユダヤ教との間の乖離が進んでいたということを示しているのです。 旧約聖書申命記6章5節で、イスラエルはその神ヤハウエを、「心をつくし、精神をつくし、力をつくして愛す」べく指示されていますが、それは何者にもまさって神を愛するということにほかなりません。その信仰をここに表明しながら、その愛の絆として、家族関係が比較の対象となり、イエスその人が神ヤハウエの位置に置き換えられ、そのイエスへの信仰がここで愛として示されているのです。イエスを信じて信仰告白し、受難の共同体に組み入れられることは、何にもまさってイエスを愛することであり、信じるということは愛するということであり、愛することは自己を捧げることであるという信仰の極限を次に言い表して行きます。 38節〜39節「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」24節以下で、「イエスを信仰告白し、イエスに従って生きる者」を命題として論じて来たその結論であります。中核を成しているのは「信仰告白」と言うことでありますが、その帰結は、真の命がここにあるということです。 イエスの時代に行われていた十字架による処刑は、極めて残酷な極刑でありましたが、この刑を受ける受刑者は、自分の釘打たれる十字架の横木を、刑場まで担がされる定めでありました。「自分の十字架を負って従う」というのは、イエス自ら負って歩まれた処刑場への道を、弟子たちも同じく歩いて行くという意味であることは疑う余地もありません。この決意なくして、自分の弟子になることはできないとイエスは言われます。これは自己否定の極限を言い表す言葉であり、人は自分自身の力で自己を否定することはできない。真の自己否定は、自分を超えた力による絶対的な肯定を通してのみ、恵みとして与えられるという恵みの約束がここに語られているのです。次にその神による絶対的な肯定とは何かが語られます。 「わたしのため命を失う」とは直接には殉教の死を意味している言葉であるのでしょう。自らの命を失うということは、生身の人間にとって、容易ならざる試練であり、人生最大の問題であるのですが、そこで、イエスは、この死によっても侵されない命を約束するだけではなく、むしろこの死を経由してこそ、真の命への道が開かれると言うことをここに明言されているのです。イエスに対する信仰告白とは、生と死の鍵を握るお方としての、絶対的な権威を持っておられる方に対する、命を懸けた依り頼みであるということです。宣教とは、このような信仰告白を基礎に置いた、現在の時点においても果たされて行かなければならない教会の努めなのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「命活き活きと」マタイ9:35-10:8 2026.6.14 聖霊降臨後第3主日 大宮陸孝牧師 |
| また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイ9章36節) |
| 先週主日の福音書の日課は、マタイ9章9節から13節と18節〜26節でした。この箇所の前までは、5章以下7章までの御国の福音宣教に関するイエスの言葉(所謂山上の説教)を語り、8章から9章34節までは、病人や障碍者の癒しの奇跡物語が語られている所です。そして、本日の福音書の日課は、それに続く9章35節から38節までの所です。ここでは「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(35節)。と5章から9章34節までを一括してこの直前までの二つの部分をまとめて締めくくり、さらに10章1節以下の一二使徒たちの選び、弟子派遣の記事へと繋げているところです。 35節に総括されたイエスの御業は、今後は弟子たちが引き継いで行かなければならない。その移行を基礎づける言葉が本日の日課9章36節以下38節までに表現されているのです。マタイが意図するところでは、マタイの時代の「牧者」の理想的な役割は二つあり、その一つは「福音の宣教・伝道」であり、二つ目は「病人・障碍者の癒し」でした。「あらゆる病気や患い」という部分を厳密に言い直しますと、「病気」のほうは病気一般を指す名刺で、「患い」と訳されているギリシャ語は障碍者を直接指す名詞になっています。三六節の後半の「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て」とありますが、これは、旧約聖書を正典とするユダヤ教の指導者層を批判している言葉でもありました。 旧約聖書では、「牧者」とは「羊を飼う者」のことでありましたが、牧草地に羊を導いて餌を与えると言うよりも、むしろ指導し、支配すると言う含みのほうが強い言葉です。旧約の預言書の中に、民の指導者を「牧者」と呼んで、その罪を糾弾している例が多くあります。たとえば、「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとしない。・・・』」(エゼキエル書34章1節〜3節)という糾弾は、代表的な一例です。この後10節まで、「牧者」たる者がいかにその責務をないがしろにしているかという実情が、たたみかけるように詳述されているのです。またイザヤ書56章11節でも「「この犬どもは強欲で飽くことを知らない。彼らは羊飼いでありながらそれを自覚せず、それぞれ自分の好む道に向かい、自分の利益を追い求める者ばかりだ」という、同じような趣旨の言葉が語られています。そういうことと、また逆にエレミヤの預言の言葉には、「わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう。わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。あなたたちがこの地で大いに増えるとき、その日には、と主は言われる」(エレミヤ3章15節、16節)。と善い牧者を得ることは、神より臨む恵みの賜物として、特別なことであると、語られます。 旧約時代には、本来ユダヤ教の民は、神殿には祭司がおり、野(や)にはファリサイ派の指導者がいて、熱心に聖書を学んでいました。宗教的な指導者には事欠かなかったはずでしたが、それにもかかわらず、民は「弱り果てて打ちひしがれていた」という。この「弱り果てて」と訳した元々の言葉エスクルメノイは、スクルロー=皮を剥ぐ、悩ますと言う動詞から派生したもので、権力者による収奪、抑圧という事情を、背後に持っている言葉でした。事実ローマによる支配と、ヘロデ王家による収奪は、民衆に過酷な犠牲を強いていたのでありました。そのうえに、さらに、祭司やファリサイ派の人たちなど、本来民の精神的な支えになるべき階層も、民の困窮に本当に仕えることができない。そういう事情が、36節の短い言葉によって、端的に描き出されているのです。 こうした悲惨な実情を見て、イエスは彼らを深く憐れまれたという。深く憐れむ≠フ元々の言葉はスプランクニゾマイで、内臓を指す名詞スプランクノンに由来し、はらわたがちぎれる思いに駆られるという意味です。イエスは民の苦しみを共に苦しまれたのです。そうであるから、そこから、8章から9章に書かれているような癒しの業を次々と行われたのでありました。イエスはかつての預言者のように、支配者への糾弾を行うよりも、むしろ直接に民の困窮に仕える道を取られるのです。そしてこの働きは、さらに新しく、後継者に継がれて行かねばならない。そのためには、弟子たち自身の中に、働き人を派遣していただきたいという、神への切実な祈りを芽生えさせ、起こして行かなければならない。そこで、イエスはこの祈りを弟子たちにお求めになったということです。今や大いなる困窮が民の間に広がっている、その悲惨に対するはらわたがちぎれるほどの憐れみの思いを弟子たちにも注いで、それを動機にして、困窮から民を救う働きに弟子たちを召し出そうとしたということです。 民の中に広がっている困窮は、人間的に見るならば、それはもはや回復不可能なほど絶望的な状況であります。しかし、神から見るならば、それは、人間を悔い改めさせる機会となり、今や、収穫が取り入れを待っていることになる。イエスの憐れみの中には、この希望が燃えていたと言うことでもありました。だから、この事態に立ち向かって働く働き人を、神から派遣していただかなければならない。そして、これがこの時代の緊急な課題であるが故に、弟子たちがこの祈りを神に真剣に祈る時に、神はこの祈りに応えて、このように祈る人たちを、働き人として送り出してくださるであろう。「祈れ」というのは、自分の意思として神に願い出ることであり、神による救いの御業に、弟子たちも祈りを持って主体的に参与するように命じられているということです。 これは現代の言葉でいうならば、エンパワーメントと表現されて、福祉やいろいろな事業の分野で使われていることばで、その基本的な概念は「生きる力の活性化」と表現され、人々に希望を与え、勇気づけ、人が本来持っている素晴らしい、生きる力をわき出させることと定義されていることばです。エンパワーメントの考え方は最近では大きな広がりを見せ、保健医療福祉、教育、企業などでも用いられるようになって来ています。地方自治や弱者の地位向上など下から上へのボトムアップの課題を克服していく上で、活動のネットワークが生み出す信頼、自覚、自信、責任などの基礎・土台となる資質を持った主体性を育み、あるいは発動して行くことを言っているのです。 たとえば先週のマタイ福音書の日課にありました9章20節から22節の一二年間も出血の止まらない女性の場合には、旧約の律法というタブーに挑戦して、タブーを破り、イエスに触れるという内在的な力を全身全霊を持ってイエスにぶつけて行った結果、イエスの力が入って来たという、力の交換が起こり、癒されるという出来事に展開して行きます。そしてイエスは彼女に決定的な言葉を語られました。「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は癒された」(22節)。これがエンパワーメントです。つまり、意思の発動もその実現も、両方とも、共にイエスから出ていることを、マタイは語っているということです。フィリピ2章13節に次のように言われている通りであります。「あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」イエスの御業を継承する人々が起こされたという点で、画期的な新しい時代の幕開けがここから始まることになって行くのです。 十二人の弟子たちの任命に当たり、イエスがなさったことは汚れた霊に対する権能を授けることでありました。(10章1節)イエスの宣教と癒しの業も、その究極においては、悪霊との戦いでありました。9章に列挙されている御業の最後が、悪霊追放の物語で締め括られています。弟子たちはまさにこのイエスの戦いを受け継ぐ者として、選び出されているということです。弟子たちを宣教へと派遣するに当たって、汚れた霊を制する権威を与えられたということが、決定的備えであった理由それは、このようにして彼らが、魂の癒し手となるばかりではなく、体の癒しにも従事することになるからであり、霊と肉体を持つ人間存在の全体を、罪と死の呪縛から解放するためにこそ、イエスは弟子たちをこの世に送り出そうとしておられたということであります。 イエスの弟子であることの根拠は、イエスの側の召し出しにあります。弟子たちは自分から弟子となるべく、イエスに申し出て行ったのではありませんでしたし、彼らの資質によって弟子と認められたわけでもありませんでした。それは、もとより彼らがイエスの弟子として、神の宣教の努めは自分たちの力では果たすことの出来ない、ただただイエスが与えられる権能によってだけ、遂行されるものだからでありました。人間的には多様な弟子たちを一つに結びつけるのは、主であるイエスの召しによることでありました。いうなれば、イエスの召しによってこそ、弟子たちの結集力は揺らぐことなく、また、ここで召しを受けた人たちが、大きな試練を踏み越えて、イエスの死後もこの招きに応えて、敵意の渦巻くエルサレムに再結集して行くだけではなく、それ以後、福音宣教の第一線に立ったという事実に、この召命の不動・不屈な確かさがあると明らかにされているのです。 5節〜6節では、「サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」とあります。これは、15章24節の「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか使わされていない 」と、カナンの女の求めに対して、イエスは同様の応えをしておられ、それらはいつも具体的な場面での一つの指示であって、全面的な異邦人の排斥と受け止める必要はないように思われます。マタイ福音書ではイエスは、全体的には異邦人に対して開かれた態度を取っていますので、敢えてここで異邦人排除と読める言葉を残したのは、異邦人の全面的な排除という意味ではなく、「まずイスラエルに行け」ということで、そのように語る事情が背後にはあったということでした。5月31日の説教で申し上げましたように、マタイ福音書1章の序章では、イエスに至るまでの系図の断片によって、キリスト教がユダヤ教を母体として誕生したことが語られ、マタイ福音書成立の座であるマタイ教会共同体の多くのメンバーは、宗教的にはユダヤ教において養い育てられたユダヤ人であったと推測されます。その彼らの多くはナザレ出身のイエスを人の子(神が人となったメシア)と信じる群れに加わっていった、その意味でマタイ教会の群れの対部分は、ユダヤ的な背景を持つ人たちがキリスト教に改宗した人たちであったという事情です。 そしてその共同体の中で、異邦人であっても、信仰が認められる場合には受け入れられて行くという段階を踏まえて宣教が進展して行ったと言う風に考えて間違いではなかろうと思います。そのようにマタイ福音書では異邦人伝道は第二の段階で考えられていて、そして、28章において、復活の主の命令によって、宣教は世界へと広がって行くという展開になって行くというのが自然の流れであると思います。そのことを、もう一度ここ、10章の事情に立ち帰って受け止めるとするならば、弟子たちの宣教への派遣は、普遍的な使命ではなく、今ここの即時的な状況へとイエスの命令のもとになされているものであるということ。神の国の宣教は、弟子たちの先走った人間的な理念や理想、情熱や思惑によってなされるものではないということ、ただただ主イエスの命令、委託によってなされるものであるということがここで確認されているのです。そういうことでありますので、先ずわたしたちは、キリストの言葉、そしてキリストのいます所に赴き、そこで、主イエスとの生きた交わりを確立し、また、そこでイエスの語りかけと指示を仰ぎながら信仰の歩みを進めてゆくことが重要であるということです。 マタイにとって重要なことは、任命された弟子たちによって、神の意志が実践され、貫かれて行くことであります。7章24節で言われていますように、「これらの言葉を聞いて行う者」こそが賢い人であり、「天の父の御心を行う人」こそが主イエスの兄弟、姉妹、母であると言われていますように、天の国を宣べ伝えることは、天の国を生きることを通して具体化して行くということ、ここに生身の人間が弟子として選び出されて行くことの理由がある。つまり、呼び出されるとは、使命を持つ人間になるということ、わたしたちもまた、隣人を解放するという使命を、イエスによって与えられ、その使命を果たすべくイスラエルに行け、つまり使命を果たすべく自らの置かれた現場に行け、と命じられているのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「罪人を赦し生かす愛の力」マタイ9:9-13, 18-26 2026.6.7 聖霊降臨後第2主日 大宮陸孝牧師 |
| 「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9章22節) |
| 主日の福音書日課が先週よりマタイ福音書に戻りました。先週は28章16節から20節の復活の主と弟子たちの出会いと宣教派遣というマタイ福音書の結論部分を読みました。人類の歴史の終わりは救済の完成を目指しているということ、死に打ち克たれた復活者イエスが、そこを目指して信仰者と共にいつも歩んでいてくださるという臨在の約束をもって、この福音書が締め括られておりました。 本日の日課は9章のマタイの召命とイエスの癒しの業の所です。最初に、この日課の前の文脈を確認します。5章から7章がメシアとしてのイエスの「教え」を描いている所謂(いわゆる)山上の説教の部分で、8章から9章はメシアとしての10のイエスの「行為」を記しているところと見ることが出来ます。その行為は三つのグループに分けることが出来ます。第一は、病の癒し(8:1〜4、5〜13、14〜15)。第二は、イエスの圧倒的なメシアとしての権威を示す奇跡(8:23〜27、28〜32、9:1〜8)。第三は、回復の癒し(9:20〜22、25、27〜30、32〜33)です。第三は癒しの業の結びで、9章35節は4章23節と同じ内容で、この二つは「囲い込み」の形になっていて、救い主であるイエスの「教え」と「業」は緊密に結びついたものであることを示しています。「教え」「宣べ伝え」「癒された」と総括されるイエスのガリラヤ伝道は、先ず5章から7章において山上の説教として教えが記され、8章から9章において、それと対をなす形で主イエスの力に満ちた奇跡行為、癒しの業が記されています。 本日の日課の直前の「中風の人の癒やし」は、癒しそのこと自体よりも、罪の赦しの権威を問題にしていまして、病の根源的原因である罪を赦し得るのは神だけではないのか、というのが律法学者の問いでありました。これに対してイエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と答えておられます。その中風の人は実際に「起き上がり、家に帰って行った」。そして、「人々は、このように大きな権威を与えた神を讃美した」とあります。この律法学者はすでに8章19節に登場している人物です。そこでは、「イエスの弟子になること」と「ラビの弟子になること」の違いを明らかにしようとしています。イエスの弟子は、定まった住居も断念しなければならず、子としての義務とされる両親の埋葬にさえ立ち会えないかも知れない厳しさが語られています(20節〜22節)。そして、9章の「中風の人の癒し」の記事に続いて、本日の日課では、マタイの召命とファリサイ派の人々との論争へと続いて行くのですが、直前の「中風の人の癒し」で罪の赦しの権威が問題となっていて、その流れで読みますならば、マタイの召命は罪人の招きの一例としての意味を持ち、しかもこの「罪人の招き」は、本日の日課の一つのテーマとなって、13節に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と結ばれて行きます。 罪人を招くイエスと招かれた弟子たちの群れ(教会)に対して、ファリサイ派の人々は「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(11節)と批判をして来ます。これはマタイ福音書が成立した教会に向けられたユダヤ側からの批判でもあったと見ることが出来ます。ファリサイ派やユダヤ教においての神の義とは、モーセに与えられた律法を完全に守ることであり、自分たちは律法を完全に守っているがゆえに神によって義とされているという立場でした。道を踏み外さないように注意し、汚れた人々や罪人と交わらず、定期的に「いけにえ」をささげて、自分の罪を自分で償いながら、神との関係を保っていると自認していました。そのようにして律法を守っていないとされていた「徴税人や罪人」を見下げ、彼らを神から遠く離れた存在として厳しく告発する役割に専念してこのように批判をして来たのです。しかし、そこにこそ、彼らの自分でも気づくことのない罪が存在していることをイエスは次に指摘しようとしています。 イエスは、そこから出て行って、「憐れみを学びなさい」と言われます。自分たちが後生大事にしている律法遵守主義から脱却して、何処に行けというのか。それは、わたしたちの罪のために真の「いけにえ」として十字架上に死んで、復活し、臨在しておられるお方の所です。イエスの言葉と業が示している、人を生かす真実の愛に目覚めよと言っておられるのです。その言葉は「イエスの生き方の中にこそ、神の意志である人を生かす本当の憐れみがある、この弟子たちはその憐れみを受けているのだと言うことを悟れ」という意味でもあります。 イエスは、5章20節で「あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」と既に宣告されていました。そして、5章48節では「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」と命じられていました。このイエスの弟子となって従う者の義とは、イエスがすでに自ら実行した教えを実行すること、律法と預言者たちに示されている神の意志を実現することでありました。なぜなら、イエスこそ、その教えと行いによって、神の律法を本来の意味で完全に満たしていることを、「わたしが喜ぶのは、愛であって、いけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くすささげものではない」と、ホセア書6章6節の引用をもって示しているのです。 ここで真実に要求されていることは、律法は単なる一般的な人間の生きる道筋、倫理として、あるいは教育的手段や実際的な必要からまとめられているのではなく、ここに神の意志が示されているということ。また、律法はモーセの言葉としてではなく、神の意思を現す言葉として読まれていかなければならないとの宣告であり、神の子として、神の意志を啓示されたイエスの言葉と行為こそ、神の意志に服従し、すべての神の思いを成就した完全なる律法であるのだから、イエスの言葉に耳を傾けなさい。イエスの言葉を神の意志として受け止め、服従して行きなさいということです。ホセア書の引用によって、マタイはイエスを神の意志を実践する、「罪を赦す」お方として描こうとしています。そして、徴税人マタイは罪を赦されてイエスに従い行く一人の弟子として描かれています。その上でさらに、ファリサイ派やユダヤ教の立場にいる一人一人のためにも死なれたということをも示そうとされたのです。そのことに本当に気づく時に、自分たちもまた、罪人として、神の憐れみの中に招かれていることがわかるのです。すべての人が、イエスの前に自らの罪を告白し、罪赦されて、イエスの言葉によって新しい信仰の歩みを歩み出すとき、律法主義、完全主義の縄目から解放され、神の愛と憐れみによって生きる、伸びやかで豊かな実を結ぶ人生へと歩み出すことが出来るようになるとの恵みの約束が与えられるのです。 18節から26節のところは、イエスの癒しの業の部分に属していて、指導者の娘を死から甦らせ(25節)、出血を患う女性の健康を回復させる物語です。先立つ九節から13節では、ファリサイ派の人物がイエスの弟子に対して意義を申し出ており、それに続く14節から17節では、洗礼者ヨハネの弟子が、断食をしないイエスの弟子の生きざまを問題にしています。これはどちらも、ユダヤ教の伝統に、イエスがどのように対応しているかと言うことを巡っての議論でありました。それに続く18節以下では「ある指導者がイエスの前にひれ伏し」と、地域の指導的地位にある有力者を指しているので、ユダヤ教の会堂の責任者と見られる人物であろうと思われる人物が登場して来ます。彼もまたユダヤ教の伝統を護持する者の一人でありましたが、しかし、彼は、ファリサイ派やヨハネ教団の人々のように、イエスと議論しようとはしていません。その愛する娘が死んでしまったという、生死に関わる困窮に直面し、憐れみを請い、イエスの前にひれ伏し救いを求めたのです。ユダヤ教の会堂の責任者としての彼の立場を思うとき、イエスの前にひれ伏した彼の姿は、いかに必死の願いがそこにこもっていたか、また、イエスが手を置いてくだされば娘は救われるという無条件の信頼が現れています。教義を巡る論争ではなく、困窮に仕えるイエスの愛の力がこれから示されようとしています。 19節「そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。」イエスは会堂司の願いを聞き入れ、その家に赴かれます。マルコやルカにある群衆については何も触れられてはおりません。ただイエスとその弟子たちが会堂司と共に、その娘の危急に向かおうとしている姿だけを浮き彫りにしています。それは、神の憐れみと救いを求める困窮を媒介として、ユダヤ教とキリスト教という二つの流れが、イエスという一つの源流に結ばれて行くことを現しています。そこで、思わぬ出来事が起こり、物語は一時中断します。 20節〜21節「すると、そこへ一二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである。」一二年間も出血が続いていたということですから、この婦人がいかにこの病に苦しんで来たかが覗われます。この病は、レビ記15章によりますと宗教的汚れとされていたようです。マルコ福音書では「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるばかりであった」(5章25節)と書き添えて、いかに窮地に陥っていたか彼女の苦悩を明らかにしています。今や万策尽きた彼女が、イエスのことを伝え聞き、『その衣に触れるだけでも癒していただける』と思い詰めて、必死により頼む姿は、まさに会堂司と同じでありました。しかし、実はこれは律法違反でありました。彼女の汚れを、彼女に触れる人々に伝染させることになるからであります。マルコとルカがひしめき合う群衆のことを書き記しているのは、この違反を明示するためでありましたが、しかし、マタイは、この物語の冒頭で「群衆」への言及を省いています。それは、律法違反ということよりも、彼女のひたむきな寄り頼みと、その願いが聞かれたということを端的に示そうとしてこのような表現をとったということです。 そしてこの断片はただ奇跡的な癒しということだけを言っているのではなく、続く記事の中で「信仰」と言う新たな主題を展開するための伏線でありました。22節の「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉は、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思い詰めた彼女のひたむきな信頼を、「信仰」と受け止め、「この信仰によって救われたのだ」との保証を与えたという展開になっています。しかも、このイエスの言葉は単なる言葉だけの空言(そらごと)に終わるものではなく、彼女は事実としてこの状態から癒されました。それに先立ち、「娘よ、元気になりなさい」とイエスが声をかけられたのは、現実に癒しが臨むことの宣言でもありました。 会堂司の願いを受けて、今死んだというその娘の救援に向かおうとしているこの急場に、この女性が割り込んで来たことによって、会堂司としては、やきもきしながら、時の経つのに気を揉んでいたことでありましょう。しかし、マタイはそのような心の動きよりも、一二歳の少女と、一二年間患ってきた女性とを並べることによって、全く異なる境遇のもとに歩んで来たこの二人の女性が、今やイエスによって、等しく神の憐れみと恵みに浴しようとしている摂理の不思議さに焦点を合わせています。この二人の信仰の根底を支えていたもの、それは、自己の全てをイエスに委ねまつる人格的な寄り頼み、これこそ、二人の信仰の中核を成していたということです。 イエスは「あなたの信仰があなたを救った」といわれましたが、真実はイエスその人が彼女を救ったのであり、彼女は信仰によって、それを受領したということでした。それであるにもかかわらず、イエスは彼女の信仰への決断を慈しみ、一人の人間の主体的な人格としてこれを尊重し、自立した人間への解放を宣言したということであろうと思われます。 イエスは会堂司の家に到着し、「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって・・・」(23節)ここに悲しみが人為的に演出されている様子が描かれています。この人たちがもし本当に少女の死を悲しんでいたのなら、イエスの「少女は死んだのではない。眠っているのだ」という言葉を耳にしたときに、人々はそこに深い希望と慰めを見出したことであったろうと思われます。しかし、彼らはイエスの言葉を嘲笑いました。それは彼らが心からこの少女の死を悲しみ、癒されるのを願っていたわけではなかったということを現しています。 そして、イエスが彼らに「さがれ」と言われたのも、この偽善的な悲しみの演出を拒絶する意味であり、ここに、どこまでも人を生かす神の霊の力を付与しようとされるイエスの断固たる姿が描かれているのです。イエスの目には、この少女はしばしの眠りの中にあり、新たな生への甦りが、確実な現実として、見通されていたということです。これに対する群衆は嘲笑をもって応じています。それはただ、少女は本当に死んだのだと言う事実に基づいて、イエスの宣言を否定したと言うこと、そして、それだけではなく、彼らの祭儀がイエスによって否定されたことに対する反発でもあったという趣旨が含まれているということです。命を巡る何が本当の現実かと言う問いを巡って群衆とイエスとが真っ向から厳しく対立していて、さらに、イエスの宣言に、いかなる現実的な根拠があったかという次第が、次に示されて行くのです 25節「・・イエスは家の中に入り少女の手をお取りになった。すると少女は起き上がった」マルコとルカでは「イエスの言葉によって少女は起き上がった」とあり、マタイでは「イエスが少女の手を取ることによって少女は起き上がった」と、癒しの過程に相違が見られます。どちらにしても、イエスの意思の発動によって、死から生への転換の出来事が起こったと締め括られています。 この二つの物語を通して、イエスにおいての「新しい命の生起」が、どれほどわたしたちの日常の世界から質的に隔たっているかを思い知らされます。求める側の一途さとともに、それにもかかわらずなお、どうしても届かない、「わたしたちの時と、永遠の無限の質的な違い・差」というものを、向こう側の神からの埋め合わせによって救われる、そのようなイエスの救いの業の真実が伝わって来ます。イエスを通して神の命の現実が人間の中に現実となって具体的なものとなって具現化されるとき、その人間は新しい命を得て行く、その消息が語られているのです。少女は、イエスを通して神によって起こされたのです。わたしたちはこの人間を死から甦らせられる神の救いの業に心を閉ざしてはならないのです。イエスの神は「失われた」無資格の者を探し出し、彼を見出し、愛と赦しを与えることによって、新しい命へと呼び出してくださる方なのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |