「救い主の声を聞き分ける」ヨハネ10:22-30 2025.5.11 大宮 陸孝 牧師 |
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネによる福音書10章28節) |
ヨハネ福音書10章では、羊と羊飼いの譬えが語られていますが、これは実は単なる譬(たと)えや比喩ではなく、そのままではわたしたちには理解できない隠された言葉であることが6節に示されます。「彼らはその話が何のことか分からなかった。」それは、その後の羊の門の譬えも、良い羊飼いの譬えでも同じ隠れた理解しがたい話しという性格を持ったものとして語られていると見るべきであります。ここで考えられているのは、この譬(たと)えは、神の霊の助けと導きをもって啓示されない限り、真の意味をリアリティーをもってわたしたちに明示する方法はないと宣言しているのです。そういうことで、わたしたちはこのたとえを通して、主イエスがわたしたち一人一人に神の啓示の言葉として現在化されるということを、信仰を持って聴従して行く限りにおいてのみ、この譬(たと)えの意味が理解されると言うことであります。そのことを表しているのがここでの神の自己啓示の重要な文「わたしは・・・である」"エゴ・エイミ"文です。 ファリサイ派の人々がイエスの言葉を何一つ分からないのは、その言葉を霊の助けと導きによる想起において聞くことが出来なかった。すなわち信仰を持って聴従していく姿勢がなかったということを示しているのです。 この譬(たと)えを通して10章全体を信仰を持って聞き取って行きますときに、そこで語られていますのは、イエスが来たのは人々に永遠の命を与えるためであり、永遠の命は、イエスが己れの命を与えることを根拠として成立するということを、明らかに良い牧者の存在によって描いているのです。そしてイエスは良い牧者としてそれを達成することがこの10章で語られているということです。己れの命を与えるということは、主イエスの己が命を犠牲とするこの世での最後の献身があり、それをこの10章では中心的な主題としているのです。それは「命を捨てる」というような表現ではっきりと示されています。 22節以下の本日の日課の部分は、内容的にはイエスの羊についてでありますので、1節から18節までの羊の話しの続きのように見えますが、その前の仮庵(かりいお)祭は、何処で終わっているのかはっきりしないまま、神殿奉献記念祭に切り替わって、「時は冬であった」と舞台設定が変わってしまっています。そこではっきりしていることは、神殿奉献記念祭に、イエスが自分の羊について語っていることであります。つまり舞台が変わったにしろ、そのことが重要なのではなく、1節から21節の主要な主題が改めてここで取り上げられているということです。 神殿奉献記念祭は、神殿の清めを想起する記念行事で、現在のユダヤ教のハヌカの祭りのことです。バビロン捕囚から帰って来た人々が第二神殿を再建して奉献した日が想起され、またマカベア独立戦争の際、シリアのアンテオコス四世が神殿にゼウスの祭壇を建てて汚された神殿を清めて再奉献された記念祭で、ユダヤの人々がどんなに大きな喜びをもってこの祭りを祝ったことか想像に難くありません。しかしながら、それとともにその日から一世紀半を超えながら、待望のメシアはまだ出現しないで、イスラエルは依然として外国の支配下にあるもどかしさに、焦りの色を濃くしていたであろうことをも推察できます。これは一二月の頃の冬に行われるものでした。そのために、寒風に晒(さら)されての状況を印象づけて、「冬であった」と表現されているのであろうと思われますが、主イエスとユダヤ人との間の、いよいよ険悪の度合いを深め、迫り来るイエスの何らかの危機を暗示している言葉でもあります。 23節 ソロモンの回廊は、神殿の異邦人の庭の東側の柱廊で、ソロモンによって建てられたという言い伝えがありこう呼ばれていました。イエスが最後に神殿を去ったことが8章59節に書かれ、その時ユダヤ人はイエスに石を投げようとしたと書かれていて、ここの31節で再び「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」となっているのです。ここでイエスが歩んでいることは、光りの祭りの真の主でいますお方、全ての人を照らすまことの光りであるお方がその場所に歩み出られたもうことを表現しているとも解釈できます。 24節 こういう場所でありますから、主イエスが歩んでおられると、人々の間に、あるいは、主が立ち止まって、何かをお話になるのではないかと期待が起こったとも考えられます。ユダヤ人たちはイエスを取り囲みます。イエスを威圧し、決着をつけようと欲しています。「いつまでわたしたちに気をもませるのか(心を捉えて置くのか)」イエスがいる限り、「イエスは誰なのか」という福音書の中核的な問いから自由になれないので、ここではっきりと話したらどうかと問いかけているのですが、ユダヤ人たちに「そうだ、わたしはキリストだ」とそれを明らかに話したとしても、その真実な意味を信仰によって受け止められることはない、とここでイエスははっきりと宣言されます。彼らはせいぜい二〇節で言われていますように、「悪霊に取り憑かれている」とか、「安息日を守らないのにキリストではあり得ない」と言うであろう。キリストだと言われても否定するということなので、この問いこそが自己矛盾であり、彼らの心の不安の表現に他ならないのであり、真実を求めての問いではなく、矛盾だらけの問いで彼らの心の動揺そのままを表している。従ってイエスはその問いに答えることはないのです。 25節 「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」イエスは「世に向かってあからさまに話した」(18章20節)と言っているにもかかわらず、ヨハネ福音書で「わたしはキリストである」と、ユダヤ人に話していることはありません。「キリスト」という主題を語ったか語らなかったかは形式的なことであり、キリストという言葉を語れば済むと言う問題ではなく、イエスが己が命を与えることによって永遠の命を与えるということは、しばしばイエスによって啓示され、狭い意味の奇跡によってもそれが示されて来ていました。そのように命を与えるものがキリストなのであり、イエスをキリストとして信じるとは、イエスがそのように永遠の命を与える者であることを信じることです。「わたしが父(神)の名において行っているわざ、それがわたしについて証ししている。」とイエスはさらに懇切に答えているのです。イエスご自身が神の言葉の受肉であり、イエスの業こそが神のわたしたちへの語りかけの言葉そのものであるのです。 イエスが「わたしがキリストである」とユダヤ人に言っても、それはユダヤ人にとっては証しにならない。ユダヤ人に対しては、キリストであると自称することではなく、それがわざによって証しされなければならない。ここでのわざとは、単に奇跡のみを指すのではなく、言葉をも含めたイエスの行為さらに全人格を含む全体を指すことは明らかです。そのイエスのわざすべてが、父(神)から遣わされた者としてのわざである。父なる神からの使命が遂行されるわざのことを指している、だからそのわざ自体が証しとなるのだと主張しているのです。 26節 冒頭の「しかし」は反意接続詞で、ここで語られているイエスの言葉の意味は連続的に全否定をされることを意味しています。イエスがここで自分はキリストであると言っても信じないで、石打にしようとするだけであろう。今が冬であり、時が近づいているとはいえ、まだ来ていない。どうして彼らが信じないのか、その理由もはっきりと書かれている。それは彼らがイエスの羊ではなく、イエスの声を聞き分けることができないからである。ここでもう一度10章全体の主題で羊という語が再び用いられる。これまで羊の話しをして来たことを基にしてイエスは話しを続けます。イエスの羊ではないからイエスの話しを聞かないということは、決して決定論ではありません。誰が最初からイエスの羊であり、誰がそうではないか最初から決まっているわけではありません。イエスの羊ではないことと、声を聞かないことは同時的で、声を聞かないことによって、イエスの羊ではないことが明らかになるというのです。 27節 「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」キリストはわたしたちを知っておられる。知るとはただ単に知識があるとか、認識しているとか言うことではなく、深い交わりを持っているということです。キリストはわたしたちの所に来て、わたしたちと交わりを持たれ、ある時には師として、ある時には友として、あるときにはわたしたちの僕となって、そして、決定的には、わたしたちに命を与えられる救い主として、交わりを持たれる。ですから、わたしたちは、主イエスの声に聞き従うのです。従うとは「着いていく」という具体的な内容を持つ言葉です。彼は先立ち行かれます。また、弱く遅い人のためには、その後になりながらわたしたちと行を共になさいます。また、「従う」「ついて行く」は、道とか旅を意味する言葉で、主イエスご自身が「わたしは道である」と言われるように、主イエスはわたしたちの人生の道行きを導かれる方であるということです。 28〜29節 「わたしは彼らに永遠の命を与える」これはわたしたちの本来的な命のことで、わたしたちは主イエスと深い結びつきの中にあるので、その命はイエスによって守られ導かれているのだから、牧者であるイエスの手からわたしたちを奪い去ることは誰にも出来ないと語り、その御手の中にある命こそ永遠のいのちであるというのです。良い羊飼いであるイエスがわたしたちの命を、命を賭して守っていてくださるからと、イエスの御手の救いの絶対的な確実性を言っています。救いが絶対・確実なのは、イエスが命を捨てて守るからだと主張しているのです。主イエスの交わりの中にある平安は何者によっても奪われることはないのです。こういうわけで、父が与え、イエスの御手の中に守られている羊は何にも増して尊い、その理由は父がイエスに下さったものであるからと、絶対的な価値の根拠を父なる神の賜物に帰しているのです。主イエスのものは父なる神のもの、神のものは主イエスのものであり、わたしたちがキリストの救いの中に入れられることこそ、神のものとせられることなのであり、その全てのことを父なる神のなさることとし、さらに最終的に言おうとしていることは、イエスの十字架の死は決して無駄になることではなく、わたしたちの命を神のものとして取り戻すことなのだと言っておられるのです。 30節 「わたしと父とは一つである」ここで主イエスは24節のユダヤ人たちの問いに対して短く簡潔な答えを与えています。問いをはぐらかし、煙にまいているというのではなく、そこまでは尋ねていないことまでも答えたもの、単なる形式的な答えではなく、奥底にある真理を語ったものと捉えることが出来ます。良い牧者の話や、良い羊飼いとしてのイエスの働き、またそのわざの最後の帰結が語られています。それは「イエスの働きは父なる神の働きである」という意味で、イエスと父なる神との絶対的な同一性を示しています。イエスの命を捨てる羊への愛は、父なる神との全く同一の愛であり、またその啓示なのだと言うことを最後に確認しているのです。父から遣わされた者としてイエスが成すことは、同時に父の働きそのものなのであり、最終的に命を捨てて、わたしたちに永遠の命を与えるという命のやりとりこそが、ここで言っている愛の実質的な内容なのだとの確認をし、さらにこのイエスの業は、父のわざなのだとの言葉をもって真実の良い牧者を啓示する話しを閉じるのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなた方を満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
「復活の主の基に立つ」ヨハネ21:1-14 2025.5.4 大宮 陸孝 牧師 |
「シモンペテロが船に乗り込んで網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く取れたのに、網は破れていなかった」(ヨハネによる福音書21章11節) |
マルコによる福音書を見てみますと、本来16章8節で終わっていたことはその結語で明らかでありますように、本日のヨハネ福音書も元来は、20章で終わっていたことは20:30〜31節から明らかで、その点では現代の多くの学者の見解は一致しています。では21章の著者は誰であり、その執筆の目的が何であったのかについては、様々な見解があり、そのことはまたヨハネ福音書全体の総括的内容とも深い関わりがあります。つまり1章から20章までのひとまとめの福音書が書かれた後に、第一の弟子と言われるペトロと愛する弟子(この人がヨハネ福音書の殆どの伝承を担った福音書記者と想定されていますが)この二人の関係についての記録を残す趣旨で、この二人の弟子の逝去後に、ヨハネ福音書成立の基盤となったヨハネ教団教会の誰かが書き記したそれがこの21章であると見倣すことが、もっとも客観的蓋然性が高いということができるでしょう。 この21章で用いられております主イエスに関する物語、あるいは伝承自体は、1章から20章までに含まれているものと同じように、紀元70年以前の主イエスに関する早い時期に成立した奇跡伝承や復活伝承を引用し、編集したものです。ですからこの21章は後代に追加された文章とはいえ、単なる巻末につける解説文とか付録とか、「後書き」的な文として、アフターソートという言葉がありますが、あとから考え直し、手直しをして書き加えられたものではなくて、エピローグ、終章つまり最後の口上を述べた箇所と見倣すのがより正確な把握であろうと思います。 本日の21章1節以下のところで大事なことは、二人の人物の役割、ペトロとヨハネの役割が明記されていることです。ペトロは羊を飼う者となるように、すなわち教会の大牧者となるようにと、復活の主イエスから言葉を受けたと記録されています(21:15〜19)。また、主の愛する弟子は、福音書の伝承、歴史、史実を正しく担った者であって、ヨハネ福音書の背後にある初代の教会の歴史に立って、ヨハネ福音書のイエス物語伝承を担う歴史的証言者としての人物であることを、21章の後半で伝えています。 そうしたヨハネ福音書の全体の構造をおおまかに捉えて、そして本日の聖書の日課に入ります、まず、復活の朝と同様に、主イエス・キリストの愛する弟子が最初に、復活の主イエス・キリストに気付いて、復活の主を信じたとあるのですが、これは明らかに、愛する弟子ヨハネがこの福音書執筆に関わり、大きな影響を与えたことを知っている人物がこれを書いているということであります。少し後代の信仰の継承者が21章を書き、現在の聖典ギリシャ語新約聖書中のヨハネ福音書を編集したということを如実に示しているのです。そういうことであるならば、わたしたちは今朝の聖書からどのようなメッセージを聴き取る必要があるのかが、いま礼拝を献げているわたしたちの聞き方、わたしたちの聖書に聞く姿勢であると思います。 主イエス・キリストの十字架上の死の意義について、地上を歩まれる神としての存在について、「かつてあり、今もあり、未来もある」存在、つまり神がわたしたち人間の歴史に突入して来たこと、永遠の事柄とわたしたちの「今」の事柄、永遠の時と今の時とがナザレのイエスという存在において交叉する。それが神の人類救済の出来事であることを、ナザレのイエスの言葉と振る舞いからそのことを認識し、理解し、深い信仰的洞察力に基づくそのイエス理解をヨハネ福音書は1章から20章まで展開してきました。このヨハネ福音書における信仰の原点、理解の原点、信仰把握の原点は神が人としてわたしたちの世界に来られたということにあるということを、21章の編集者はヨハネ福音書記者自身がそういう信仰に立っていた方であったということを記録しているのです。その具体的な例として、ヨハネ福音書記者、つまり、あの主の愛する弟子がペトロに「主だ」と言ったと、伝えているのです。 つまり、ヨハネ福音書記者と21章の編集者の信仰告白が、本筋では同じと言うことを強調しているのです。主の愛する弟子が、復活の主イエス・キリストを「自分の主」と告白しているイエスを21章の記者も「わたしたちの主」と告白したということです。初代キリスト教会を代表する信仰告白をしたということです。この点が重要なことです。ヨハネ福音書は全体を貫いて、あのナザレのイエスが他ならないわたしたちの主である。誰かに代わる主ではなく、わたしの主である。そしてそれを受け継いだ初代の教会のわたしたちの主もまたあのナザレのイエスなのだと、このように一貫して告げているのです。何でもないことのようですが、このことは主イエス・キリストの時代のユダヤ人社会では命がけのことだったのです。 福音を地中海世界に伝えた異邦人世界への伝道者と言われる使徒パウロと、その点は同じです。ユダヤ人社会とギリシャ、ローマの世界にキリスト教宣教のために、ヨハネとかパウロという当時の教会を代表する人は打って出て行ったのです。つまり、伝道者、宣教者・神学者としての生涯を二人の使徒は送ったのです。それに対してペトロは九節以下で明らかなように、特徴として言えることは、牧会者として、教会の指導者として召されたと言えるのです。そして牧会者として召されたこのペトロを中心として初代の信徒の群れに、教会とはどのようなあり方をしなければならないかを強調しているとも言えるのです。そのことを10節から見てみます。10節には「イエスが『今取った魚を何匹か持って来なさい』と言われた」と記されております。 わたしたちは、わたしたちの収穫したものを主イエスが命じられるまま持ち寄るのです。そこに信仰の共同体が形成されるのです。わたしたちが神からわたしたち個々人に与えられている固有の賜物をもって教会に集まるのであって、教会から何か物を持ち出すことではありません。自分の物を持ち寄るのであって、隣人のものを利用することではありません。教会に求め、教会から与えられるのは信仰の確かさなのです。これをわたしたちは教会から信仰の確かさと新しい命と霊の力を与えられて、家庭に、職場に、様々な人間関係の中に出ていくのです。わたしたちが神から与えられている固有のものを再確認し、それを神の働きのために活かし用いる場所として、日常の生活を送り、一人一人に与えられている賜物を活かして家庭に職場に社会に貢献することこそが神の期待されていることなのです。 そして今日またここに、週の初めに礼拝のために集められて、わたしたち一人一人が神の使命を再確認し、神さまに起源する力を与えられることを願っているのです。信仰の確かさがわたしたちに与えられることを願うのです。今取った魚を主イエス・キリストのもとに持ち寄る。神から与えられている固有の賜物を活かして神に捧げ返し、人々に仕えていくということです。どんなに小さい子どもでも、あるいは病床にあるお年寄りでも、神さまから大きな賜物を与えられて、この世に生を受けて、その方その方独自の生き方においていつでも神の栄光を表す生き方をしていく、それが信仰というものです。神の栄光をあらわすために、わたしたちはこの世に生を受けているのです。各自に与えられている神からの賜物は一人一人違うのです。復活の主イエス・キリストが、礼拝と聖餐においてその賜物に思いを馳せるように、わたしたちを礼拝に招いておられるのです。わたしたちは神から与えられた天与の賜物を持って、神御自身が招いてくださっている礼拝と聖餐に参与することが信仰の応答なのだということをヨハネはここで言おうとしているのです。 現代社会は居心地の良い、経済的な発展とか、物質的な豊かさを讃美する主張が支配的です。そういう居心地の良い領域につかっているのが現代人の特徴的な生き方です。ヒューマニズムや博愛主義や福祉的な事業などいずれも、この聖書が示す信仰のあり方から照らすならば、世俗主義の典型であると言わざるを得ません。賜物を神の栄光のために活かして働かせ、与えることを忘れて、受けることが当たり前となった家庭、学校、社会、あるいは施設からは、時代を変革し、新しいものを創造していく業は生まれてきません。そういう機関はやがて淘汰され、縮小し、やがて消滅して行くのではないでしょうか。キリスト者は新しい創造に与った者なのです。キリストにおける新しい創造に与った人が、信仰で言う「新しい人」なのです。 そして、11節ですが「シモンペテロが船に乗り込んで網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く取れたのに、網は破れていなかった」とずいぶん丁寧な書き方で記されています。「それほど多く取れたのに網は破れていなかった」とわざわざ書いてあります。しかも「153匹」と端数まで書いてあるのです。何故でしょう。「153」と端数まで書いてあるのですから、何らかの意味があるはずです。見過ごしにはできない大事な意味がここに隠されていると思います。 この箇所も旧約の預言と結びついているところですので、先ず旧約聖書をお読みいたします。エゼキエル書47章6〜10節です。(旧約聖書1375頁)「彼はわたしに、『人の子よ、見ましたか』と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。私が戻って来ると、川岸には、こちら側にも、あちら側にも、非常に多くの木が生えていた。彼はわたしに言った。『これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわちよご汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚(うお)も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エンゲディからエン・エグライムに至るまで、網を拡げて干す所とする。そこの魚(うお)は、いろいろな種類に増え、大海の魚(うお)のように非常に多くなる』」。これは生ける水の流れの預言者的な幻≠ノついて語られているところです。人間の救いの希望が成就するという預言が、本日のヨハネ福音書21章11節と関係していると見ることができます。 10節に「漁師たちはエンゲディからエン・エグライムにいたるまで、網を拡げて干す所とする。そこのうお魚は、いろいろな種類に増え、大海のうお魚のように非常に多くなる」と記されています。それは水がきれいになるからです。この川が流れるところではすべてのものが生き返るからです。結論を申しますと、復活の主に出会う経験をする者、つまり、あの復活の主がナザレのイエスであったと言う信仰に生きる者はすべてが生き返るのです。ナザレのイエスにメシアの姿を見るものは新しい創造に与るのです。その数は予想を超えて全世界に拡がって行くと言っているのです。今日皆さんにお伝えしたいことはこれです。つまり復活の主が先立ち行かれる教会の伝道と牧会の業を通してすべてのものが生き返る新しい創造の業が遂行される。わたしたち信仰者、復活の主の救いの歴史を担う教会は、その神の業に関わっているのだと言う宣言です。世界のすべての人々が主のもとに立つことを、わたしたちの努力ではなく、主の恵みと約束に立ち、それを望みつつ伝道する教会となること、わたしたちの弱さ、愚かさ、鈍さ、不信仰にもかかわらず主がわたしたちを支え、導きたもうことに自分を委ねて、常に主にのみ希望の基を置き、歩んで参りたいと思います。 お祈りいたします。 天の父なる神さま。様々なこの世の闇がわたしたちを重くし、うなだれさせ、希望を奪い、展望を奪います。しかしこのような世界に、主イエス・キリストが来てくださって、お前はわたしのものだと、神さまがわたしたちに語ってくださることを感謝します。どうか、この復活の命の主を覚えつつ、わたしたちも、あなたが語りかけて下さる命の言葉によって新しくされ、世の光として生きることができますように、わたしたちを主イエスの命の言葉によって支え守り導いてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン ページの先頭へ |