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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2023年2月礼拝説教


★2023.2.26 「神はあなたの決断を待っておられる」マタイ4:1-11
★2023.2.19 「主イエスに聞け」マタイ17:1-19
★2023.2.12 「わたしの愛に繋(つな)がりなさい」マタイ5:21-37
★2023.2.5 「~の証人・地の塩、世の光」マタイ5:13-16

「神はあなたの決断を待っておられる」マタイ4:1-11
2023.2.26 大宮 陸孝 牧師
 するとイエスは彼に言われた、「退け、サタン。「あなたの~である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある」(マタイによる福音書4:10)
 主イエスはヨハネから洗礼を受け、天から~の御声が臨み、~の御子であることがはっきりした後に、群れを離れて、荒野に引き出されるのですが、それは霊に導かれてのことであったとマタイは語ります。

 主イエスは悪魔に試みられるために荒野に出て行くのですが、それが御霊の導きによったというのです。御霊とは~の霊ということですから、人間を~の御心へと導く存在である筈なのですが、しかし、ここでは~の御霊の導きが悪魔の誘惑へと通じているのです。悪魔というのは人間を~から引き離し、~の御旨とは逆の方向へ引っ張っていくものですから、およそ御霊とは正反対な存在であるといえましょう。この何気なく思える表現の中に、~の御霊が人間を悪魔の誘惑に誘い出したという、実は大いなる矛盾が隠されています。~の御霊の導きの中に悪魔による誘惑が含まれている構造になっています。聖書は悪魔の誘惑というものを単純に退けるのではなく、~の霊の導きの中に悪魔の誘惑も含まれているのですよといっているようです。

 聖書を読み解くということは、~が人間をどのように救い取ろうとしているのかという光を当てていくことでありますが、その光はどこから差し込むのかといいますと、それは主イエスの十字架の贖いの業であるのです。聖書はすべて~の御心としての、主イエスの十字架から解釈されていかなければならないのです。~の救いの業としての十字架は、~に反逆し、~との間に超えがたい溝ができてしまっている人間の罪を~が引き受けてくださって、人間に変わって~がその罪に死んでくださったということであります。十字架は本来否定されるべき人間を神さまがそっくりそのままご自分の中に入れてくださるという真理です。

 そのことを確認して本日の四章一節以下を読んで参ります。2節「そして、40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」とあります。大変長い断食のあとに誘惑が来るということであります。誘惑の内容は三つです。誘惑が誘惑となるのは、誘われ引き込まれて行くという人間の弱さ、傾向があってこそなり立つものです。たとえば禁煙というのはタバコを吸わない人には誘惑の意味を持ちません。スウィーツが大好きという人にとっては、ケーキがお皿に載ってテーブルの上に置いてあったら大きな誘惑の材料になります。ですからイエスが誘惑に会うということも、次々に現れる三つの誘惑の材料はことごとく主イエスがそれらに傾斜し引き込まれている材料が使われているということになります。主イエスが誘惑に引き込まれるその傾向とは、人間を神のものとして取り戻したいという救い主としての使命です。

 まず第一に来ました誘惑というのは、パンの誘惑です。3節、「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『~の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」。40日間断食すれば空腹になるのは当然です。目の前には小石が一杯ころがっています。悪魔はその小石を指さして「これをパンにしたらどうですか」と誘惑するのです。すべての人間が空腹になればパンに傾くのは当然です。イエスもわたしたちと同様自分の空腹のためにこの誘惑を受けておられるのでしょうか。パンがイエスのどういう傾向にたいして誘惑の材料となったのか。そのことを十字架の光を当てて明らかにしなければなりません。マタイ14章13節以下と、15章32節以下に五千人を養い、四千人を養うという記事が出てまいります。事実としてはイエスはパンの問題を解決しておられます。ところがここではこの誘惑を退けられます。4節「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。~の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」これは旧約聖書の申命記8章3節からの引用ですが、この旧約の言葉を引用して、パンの誘惑を退けておられるのです。これは何を意味するのか。イエスは五千人、四千人を養われて、パンの問題に絶大な関心をもっておられます。ところが悪魔の誘惑は「あなたはこれから事実としても、またお気持ちとしても、パンの問題に大変関心を持っておられるはずだから、いっそのことパンの問題の解決をあなたの救いの本質にしたらどうですか」というものだったのです。イエスがこの世に来たのは、パンの問題の解決のためであって、他の何ごとのためでもないと心に決めたらどうですかと、イエスのメシア性の本質に関わる誘惑であったということです。これは重大問題です。

 イエスという存在がパンの解決を自分の本質とし、自分の本来の使命としていたらどうなるでしょう。イエスはメシアではなくなるのです。メシアとは罪から人間を救う救い主ということです。罪の問題の解決こそがイエス本質であり、本来の使命なのです。ところが悪魔は、罪の問題の解決などはどうでもいいとお考えになったらどうですか、ただひたすらパンの問題だけが重要だと考えたらどうですかという誘惑をしたのです。

 この世にはイエス以外に救い主として仰がれそうな人物がいます。その人物の自分の本質、使命とするところはパンの問題の解決だけです。そういう意味での救い主もいるのです。悪魔の誘惑はイエスをそういうものに仕立て上げようとすることです。

 この荒野の誘惑はわたしたち普通の人間が受ける誘惑とは質が違うものです。それはイエスという方が~の御心を行う~の子であり、救い主であることを巡っての誘惑であります。

 第2の誘惑は5節から以下「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『~の子なら、飛び降りたらどうだ。「~があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてある』」。驚くのは悪魔が聖書を引用していることです。聖書は悪魔の誘惑にも利用される書物です。これは旧約の詩篇91篇11節、12節です。~を信頼しているならばどんなに危ない事が起こっても必ず~が守ってくださる、という信仰の告白です。「聖書にこう書いてある通り、あなたはどんな危ない目にあっても肉体は傷つきませんよ。そういう風な信仰で始めたらどうですか」という誘惑です。それを証明するためにこの神殿の頂上から飛び降りてごらんなさいというのです。イエスにとってこの~信頼の詩が誘惑の材料になったのは、イエスの中に~信頼の傾向があったからです。~が必ずイエスを守ってくださるであろうという信頼をイエスが持っていたからです。

 もしイエスがこの悪魔の誘惑に負けて詩篇の言葉通りに、イエスの肉体は決して傷つかないという信仰で事を始めたとします。するとどうなるのか、十字架のできごとは起こらなかったということになるでしょう。十字架というのはイエスの肉体が裂かれ、血が流されるということなのです。何年か後にこういうことが起こるだろうという決意がなければ、イエスは救い主としての公の生涯に踏み出すことはできなかったでありましょう。

 七節「イエスは、「『あなたの~である主を試してはならない』とも書いてある」といわれます。これは申命記の6章7節の引用です。「~がイエスを守るからイエスの体は決して傷つきませんよ」という誘惑に対して、イエスはそれを否定されたのです。その意味はイエス自身は、自分の体は必ず傷つくと言う決意をされたのだということになります。この決意によって十字架が現実となるのです。第一と第二の誘惑を繋げるとこういうことです。罪の赦しを御自分の本質として、始めれば、犠牲としてイエスは自分の肉を裂き、血を流さなければならないのです。このことを意味のないものにしようというのが悪魔の誘惑です。

 第3の誘惑8〜9節「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄振りを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」。全世界がイエスに向かってひざまずくということをめぐっての誘惑です。悪魔を拝みさえすれば、ただちに全世界があなたのものになりますよというのです。これはイエスにとってどのような傾向への誘惑なのでしょうか。イエスは今、救い主として公の生涯に歩み出すに当たって、自分の使命が全世界のため、全人類のためであり、必ずや、いつの日か全世界、全人類が自分の存在の意味を悟り受け入れるだろうと言う信念を持っておられます。ということは全世界がひざをかがめる時が来るということです。それを悪魔は洞察して早々にそれを実現したらどうですか、わたしはそういうことをしてさし上げられる力の持ち主ですよと誘惑しているのです。そしてイエスはこれを退けられます。10節「するとイエスは彼に言われた、『退け、サタン。「あなたの~である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある』」。これは申命記の6章13節の引用です。ここでは、力の所有者である悪魔に膝をかがめて全世界を力によって征服すると言う誘惑を退けられたのです。
 
 今日、世界の状況は、教会の宣教の努力にもかかわらず、~に立ち返ろうとはしません。かえって~からますます離れていくかのようです。そういう世界の傾向に対して~に訴えている人がいます。それを紹介しましょう。皆さんもご存知のドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟に出てくる大審問官の言葉です。「どうしてこういう始末になったかと言うとどうもその責任はイエスあなたにあるようです。あなたが人間の心の自由を認め過ぎたからです。かつて悪魔が、荒野の誘惑で、あなたに力を発動しなさい、即刻けりがつきますよと言ったのに、力による屈服を退けて、人間の心の自由を許し、自由に自発的にキリストに服するまでは待っていようなどと考えたから、何千年経ってもちっともけりがつかないではありませんか。これは全部あなたがなさったことの末路です。荒野の誘惑で悪魔の言葉に耳を傾けなかったから、世界はいつまでもあなたに屈服しないではありませんか。もう一度考え直したらどうですか」とイエスに向かって語りかけます。人間の心の自由を認めて自由と自発性で膝をかがめるまでは、待っている。決して権力によって屈服しないということになると、まどろっこしくて耐えられないというのです。それを現代の教会は感じているというのです。

 このパンの問題と権力の問題はいつも結びつきます。この両方ともイエスは退けたのです。イエスがキリストであるということ、全世界がキリストの僕であることは、権力の道とは違う道を辿るという決意をイエスはここでなさったということです。

 人間の自由と自発性によって、喜んで服従する、喜んで服従するまではイエスは待っているとここで宣言しておられるのです。これが信仰による服従です。この誘惑は救い主としてこのように人間を救う道筋を~の御旨として歩む、つまり十字架の贖いの道を決意を持って歩むイエスの姿を明らかにするものだったのです。

 お祈りします。

 神さま。様々な誘いや試みに遭遇する人生ですけれども、なおも主の御言葉に依り頼んで、一層深く全能の神の無条件の救いに絶対的に信頼していくことができますように。そのために聖書に親しみ、自分たちの信仰の土台としていくことができますように、わたしたちを教え導いてください。
主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。  アーメン

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「主イエスに聞け」マタイ17:1-19
2023.2.19 大宮 陸孝 牧師
 ペトロがこう話しているうちに、光輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた(マタイによる福音書17:5)
 主イエスに召し出され、従って行った弟子たちは、~の救いの業に用いられ、奉仕できるようにエルサレムに向かう道々イエスによって弟子としての訓練・教育を受けます。そして、マタイ福音書一六章において、弟子たちにとって、イエスとは誰なのかという重要な問いに直面し、ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)と応えますが、このペテロの信仰告白が主イエスの伝道の重要な転回点となって行きます。ガリラヤ伝道からエルサレムでの受難と十字架への転回です。

 ペテロの信仰告白(16:16)に続いて主イエスは受難と死と復活を予告し(16:21)、そして、本日の日課であります、変貌の出来事へと続いています。これらは、ペテロが告白したメシアとはどういう存在なのかを総合的に明らかにし、これから始まるエルサレムでの受難物語の幕開けとなっているところです。

 フィリポ・カイサリアで、イエスが受難と復活を予告した後、なお六日の間この一行の遍歴の旅が続き、そして弟子たちの中から、イエスは三人だけを選んで、高い山に連れて行かれます。主イエスの対外的な伝道は15章で一応終わっていますので、少数の弟子たちに特別の教示と訓練を与えるために、主イエスはこの遍歴の旅に出たと思われるのですが、なおも三人だけが、弟子たちの中から選び出されたことの中に、選別に次ぐ選別が行われ重ねられて行く様子を見ることができます。ペテロはイエスの復活そして昇天以後、宣教の第一線に立った中心人物であり、ヨハネもペテロと並び立つ指導者となります(使徒3:1)。ヤコブは十二弟子の中で、最初に殉教の死を遂げた人として記録されています(使徒12:2)。この事実に着目しますと、この時主イエスがこの三人を選ばれたということが、彼らの将来を決定したと見ることができます。そして16章においては、言葉による予告が弟子たちに与えられたのですが、17章に入ると、三人はこの世を超えた天界の消息を自分の目で見、自分の耳できくことによって、つまり視覚と聴覚という身体的な経験によって、超越的な啓示に接することになります。こうしてこの三人の弟子たちは来たるべき信仰の戦いに対する備えが与えられたというのがこの出来事の意味だったのではないでしょうか。「高い山」とは、この三人だけに示された~の啓示の行われる場所として選ばれたものであります。

 「あなたはメシア、生ける神の子」(16節)というペテロの告白の中に潜むメシア性の深い真理の一つは、続く21節が語っていますように、主イエスは捨てられ、殺されるということであります。そしてそれと併せて、三日目に甦ること、そしてその後に最終的に~の国を実現するべく地上に到来することも語られます。(27節)これらはキリストとは如何なる存在かというメシアの秘義に属することがらでありましたが、今やこの秘義が、思いもかけない「変容と栄光の輝き」として三人に示されたのです。「その顔が太陽のように輝いた」という叙述は、ヨハネの黙示録1章にあります復活者イエスの顕現を語る記事の中に、「顔は強く照り輝く太陽のようであった」とある言葉を連想させます(1:16)この世のものならぬ「~の子」としての栄光が、ここに輝き出たのです。それだけではなく、衣まで純白に輝いたというのも、黙示録の叙述と同じであります。天的な尊厳がイエスの全身に顕れたのです。

 ヨハネの黙示録では、復活者イエス一人が顕現するのですが、福音書では旧約の預言者の代表として、モーセとエリヤも姿を現し、イエスと語り合うという点が、黙示録と違っています。ここで、旧約の多くの預言者の中から、この二人が選ばれた意味は何かを考えて見ます。この二人には多くの共通点があります。まず第一に、モーセは~の民イスラエルの歴史の発端に位置する人であり、~の民イスラエルを、エジプトからカナンに導き入れるまでに、四〇年の荒野の苦難を一身に負った人物であります。

 そしてエリヤも、イスラエルの民の危急に臨んでアハブ王の暴政に対抗し、身を挺して戦った人でありまして、イザヤ・エレミヤ・エゼキエルのように「~の言葉」を代弁してこれを後世に残した「記述預言者」ではなく、~から与えられる指示を、身をもって行動を通して体現し、イスラエルの民をモーセの教えに立ち帰らせようとした預言者ありました。そしてそれに加えて、「エリヤはつむじ風に乗って天にのぼった」と列王記下2:11に記されていることも、エリヤの再来を人々が待望した理由の一つに数えることができるでしょう。エリヤは生きたまま天に取り去られた、という伝承が定着していたのでした。モーセはこれとは違って、「モアブの地で死んだ」のでしたが(申命記34:5)、「その墓を知る人はない」と書き添えられているように、その死はベールの彼方に隠されていました。言うなれば死を越える生命の充満が、この二人に満ち溢れていたのでした。この二人のそのような事情を考えると、二人は「~の民」を代表してここに登場した理由の一端を、わたしたちは見る事ができるように思います。この二人の預言者と主イエスが語り合っているのを弟子たちが見たその意味は、弟子たちに向かって、イエスの究極の死の向こうにある勝利を示すことが主眼であったと見ることができます。

 これに続いて、この状景を目撃した弟子たちの応答が直ちに語られます。モーセとエリヤの顕現に接した弟子たちを代表してペトロは言います。「先生わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。これは高揚した内面の感動を言葉に表したものでありました。この世の者ではない荘厳な輝きに心を打たれ、その感激に陶酔して、この浄福の中にいつまでもひたっていたいという願いを抱いたということでしょう。そのために主イエスと共にモーセとエリヤにもここにいて貰う必要があった。そのためにこの三人に住んで頂く小屋を作ろうと、申し出たのであります。それに対して直ちに天からの宣言の言葉が述べられます。

 「ペトロがこう話しているうちに、光輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた」(5節)。輝く雲は神さまの臨在を表すと同時に、~の臨在を人の目から隠す働きもあります。この雲によって、モーセとエリヤの姿は見えなくなり、その背後から「~の言葉」だけが、聞こえて来ます。そして「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う言葉は、このマタイ福音書が語るイエスの洗礼を受ける場面で、水から上がられたイエスの上に、天から臨んだ呼びかけと全く同じであります(3:17)。あの時の宣言が、ここで更新されたということになります。ただ一つの違いは「これに聞け」という命令がついている点です。そしてこれはイエスとモーセとエリヤのために、小屋を作ろうと申し出たことに対する答えと見るべきことばです。弟子たちに今求められているのは、霊的高揚の中で天的な存在と一つに結ばれ、宗教的恍惚を楽しむことではなくて、イエスの御言葉に聞き従うこと、そして死に到るまでの服従を貫くことであるというのです。それが弟子たる者の歩むべき道であることを示したのです。それは、当然これから歩むことになる主イエスに追随する道、すなわち十字架の道でなければならないのです。そして人の目には挫折また敗北と見えるこの受難の道は、父なる~の御旨に適う義の道であると信じて、どこまでも主イエスの御後に従うことができるための基盤がここに据えられたということです。

 こうしてのちふたたび、イエスと三人の弟子だけが後に残され、荘厳な幻は跡形なく消え失せます。しかし、弟子たちの心身には、視覚と聴覚を通して、身をもって~の真実の恵みが刻み込まれた経験になったに違いありません。主イエスは十字架の死という現実を生き貫かれたにもかかわらず、~の御旨に適う愛する子であり、モーセとエリヤによって代表される旧約の伝統に根付いた救い主なのだということ、その主イエスの御言葉に聞き従う信仰の服従こそ、弟子たる者の道であるということが明らかにされるのです。ここにこそわたしたちの、世界のまことの希望があることをマタイは示しているのです。

 お祈りします。

 教会の頭なる主イエス・キリストの父なる~さま。この主日の礼拝に御言葉をもってお導きくださいまして、主が栄光のメシアとしての道を歩むことがあなたの御心ではなくて、苦難と贖いの十字架を通して復活の新しい命に救いとられることこそがあなたの御心であることを明らかにお示しくださり、深く感謝いたします。どうか、わたしたちを、この福音に生かされ、歩む者としてください。

 このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

 
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「わたしの愛に繋(つな)がりなさい」マタイ5:21-37
2023.2.12 大宮 陸孝 牧師
 「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。(マタイによる福音書5:22)
 マタイ福音書の5章「山上の説教」のところが本日の福音書の日課であります。弟子たちに主に従う道を本格的に教え始められます。そして17節のところで、その一つ一つの教えを語るに先立って、前文のような形で、救い主が来られたのは律法を廃するためではなく、完成するためであると、主イエス御自身がいっておられました。キリストは無律法主義を否定し、弟子たちに対して「ファリサイ派の人々の義にまさる義」をお求めになりました。主イエスが語られる義とはどういうことなのかを5章21節以下のところで明らかになさろうとしておられると言うことであります。5章21節に挙げられている六つの例は、文章の形から見ますと、どれも「あなた方が聞いているとおり、こうこうしなさいと命じられている」と書き出されていて、それに対比するように、「しかし、わたしは言っておく」と語って、主イエスが「ファリサイ派の人々にまさる義」とはどのような義であるかを明らかになさいます。

 「聞いているとおり」と言われていることの内容は、あるときには旧約聖書の言葉であり、またあるときにはその解釈としてユダヤ教の中で語り伝えられているものです。そしてそれに対置する形で「しかしわたしは言っておく」と主イエスは言われているのです。ここで、何度も「わたしは・・・」が強調されています。このように語られることによってイエス御自身がモーセを超える神さまの権威の保持者であることを示しておられるのです。「わたしは言う」と語ることによって、モーセに律法を授けられた~と本質を同じくする、~の御ひとり子としての御自身を啓示しておられるのだということです。そのようなお方として主イエスは律法主義を超えておられます。無律法主義を退けられるイエスは、字義どおりの律法主義者でもありませんでした。しかしだからといって、イエスは律法を廃止しようとしておられるのでもありません。律法を命じられる~の御心を深く受けとめその本当の意味を明らかにしようとしているということなのです。

 ここに挙げられている例の一つ一つの「しかしわたしは言う」の展開は一つの主題にまとめられているように思います。それは~の赦しの愛です。律法主義は地上に於いて犯した人間の罪はそれに応じて処罰の程度が定まり、その刑罰を最後まで果たさなければ、監獄から出ることはできない、と言う趣旨になりますが、ここではもちろんその刑罰の量が問題なのではなく主イエスはむしろ地上の裁きを一つの類比としてここに取り上げながら、~はとことん人間の罪を追求されるということを、宣言されたとみなければなりません。他者に向かって悪意を持って馬鹿というだけでも、火の地獄に投げ込まれるというのですから、恐るべき権威の宣言であります。

 この言葉の前に立つときに、わたしたちは一人の例外もなく、滅びに断罪されている自分の罪を、告白しなければならないのです。しかし、この御言葉は、同時にまた、深い慰めをわたしたちに与えるのです。何故かと言いいますと、それを宣言したのはほかならないイエスその人自身だからであります。主イエスはその生涯の終わりに当たって、自分を十字架に付けた人々のために祈っておられます。「父よ、彼らをお赦しください」と。この祈りの中にすべての人、罪人が包括されています。これが福音なのです。

 わたしたちはここに、主イエス御自身に対する人々の不義と暴虐には、決して怒らなかった一人の人を見るのです。そして、~と人との間、また人と人との間に真の和解がなるために、贖いの十字架の死を遂げた一人の人を見るのです。そのイエスが、この和解への勧めを語っておられる、とマタイは記録したのです。この救いの御業の中に身を置いて主イエスの御言葉を改めて聞くときに、この戒めの厳粛な重さは、主イエスによって与えられた和解(罪の赦し)の恵みと、一体をなしているということが解るのであります。わたしたちの罪の赦しを宣言し、その赦しを信じ受けなさいという呼びかけをしている、そして、だから同時に隣人の和解をも求めているということです。ここにあるのは律法であると同時に福音なのです。

 主イエスの「しかしわたしは言う」の教えは、姦淫の問題をめぐって、次第に調子を高め、厳しさと自由さを伴いながら、結局、結婚の秘義に及ぶことによって一つの頂点に達します。イエスは、旧約聖書の創造物語、創世記の1章27節と2章24節からの引用によって、離婚の是非という問題を、パリサイ人や律法学者らの見解に対して、創造の初めに立ち返り、結婚の秘義的な性格を強調することによって、根底から問い直しをしようとされたのです。

 人間とはそもそも何ものなのか、~の創造の秩序に従えば、人という抽象的な存在があるのではなく、父母から生まれ、やがて成人して、父母から離れ、互いにかけがえのない生涯の伴侶を選び合い、結婚します。「もはやふたりではなく、一体である」人は結婚して、夫妻であることの不思議さを思い、人間実存の神秘を経験させられます。結婚によって成立する夫婦の交わりは、人間の心と体をもってする全人的交わりであり、人間のあらゆる関係の原点とも言うべきものであります。そこでは、合理的に説明し尽くすことのできない秘義とともに、二人の間に要求される共同という生きる在り方が、最初から完成してあるということではなく、徐々に、徐々に、成熟する感動的な過程(プロセス)があることが示されています。

 これは、日本において、たとえば亀井勝一郎が、無常という仏教的な観点から人間の愛のはかなさ、脆さ、危うさを表現した「愛の無常について」の中で言っていることとは全く質の違うものです。亀井勝一郎はこの著書の中でこのように言います。「恋愛とは美しき誤解であり、結婚とは恋愛が美しき誤解であったことへの惨憺たる理解である」。亀井勝一郎のこの言葉は、人間の自己中心性は運命的なもので変えようがないと言う立場からの発言です。しかしイエスは人間というものは~の愛に応答する本性を与えられており、その失った本性を回復するためにわたしは来たといってくださっているのです。

 わたしたちは恵みによって主イエスに繋げられるときに、~と人間そして人間同士の「わたしとあなた」という本来的な関係を取り戻すことができるのです。それがつまり創造の秩序の回復であります。~と人間、そして人間同士の原関係を創世記はこのように表現します。一章二七節「~は御自分にかたどって人を創造された。~にかたどって創造された。男と女に創造された」~は御自身が命と向き合い、命を慈しみ、大切にし、共に生き合う方です。その方がご自分のその本性を受け継ぐ者として、人間の夫婦を向かい合わせ、命の恵みを共々に受け継ぎ、互いに尊び、欠けを補い、いたわり合って、~と隣人に仕えながら更に人間として成長して行くことを期待しておられるのだということであります。

 この一連の教えを通して、主イエスはこのわたしたちの共に生きる教会の群れの生き方を示したのだとわたしは思います。愛というものは決して人間から出て、人間の自由にできるものではなく、~から出た賜物であることを言おうとしているのです。

 こうして主イエスによって、福音の下で主に従って新しく生きよと、~と自分と他者に対する責任を負い、助け合って歩む道が教会に備えられているのです。

 お祈りいたします。

 義にして憐れみに富みたもう父なる神さま。あなたが求められる正しさに心の底からお応えし、律法学者やファリサイ人にまさる義を持つ者は主イエス・キリストをおいて他には一人もおりません。「義人はいない。一人もいない」と言わなければならないこの世の罪の暗黒の中に、神さまあなたは主イエスを遣わし、そのキリストの義をわたしの義としてくださいました。わたしたちが心の扉を高く上げて、主イエス・キリストをお迎えし、主イエスの義をまとってあなたのみ前に立つ幸いを感謝することができますように、様々な重荷を担っておられる方々の戦いにあなたがいつも共にいてくださり、慰めと励まし、癒しと希望とあなたの愛に生きる力を与えてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン。

 
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「~の証人・地の塩、世の光」マタイ5:13-16
2023.2.5 大宮 陸孝 牧師
 心の貧しい人々は幸いである,
天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5:3)
 イエスは宣教の初めに、わたしに従って来なさいと弟子たちを召し出し、そして、主イエスに従うとはどういうことかを次に教えようとして、「あなた方は地の塩である」「あなた方は世の光である」と言われました。ここでまず考えなければならないことは「地」とか「世」と呼ばれている他者の存在のことであります。このどちらも必ずしも領域的な区別や聖と俗の区別と考えるのは当たらないでしょうけれども、しかしながら~に栄光を帰すことを知らない世、正しく~に栄光を反射することをしていないこの世が現に存在するということであり、弟子としての役目は、この、~に栄光を返すことのないこの世にあってキリストを指し示していく働きのことを言っているのであります。

 キリストを指し示していく働きと申しました。わたしたちの歴史に於いてキリスト者の役割を考える時、「塩」は「地」に対して、「光」は「世」にあって働きをするのでありますが、その場合、塩も光も量的には少数者で「地」や「世」に包み込まれているのですけれども、そこでどのような働きをその時点でしているのか、主に対してどのような応答をしているのかが問題となるのです。初代教会の人々は当時の世界からは「世界中を騒がせてきた連中」(使徒17:6)。と呼ばれています。この世の正義や公正のためにまた平和のために行動しているキリスト者、キリストの証人として世界に衝撃を与えている人々はいつの世にも少数であり、度々迫害と圧迫を受けていることなどによっても、少数者であるキリスト者が真実にキリストの証人となって働くことには、いつの時代にも戦いがあることを知らされます。

 そして、少数者には少数者としての問題もありました。退廃的になったりいたずらに現実から遊離し、彼岸的になったり、あるいは虚無的な過激集団になったりする誘惑がありました。ここにはその役目が失われる場合の無意味さも明らかにされています。「あなた方は世の光であるという句は、「わたしは世の光である」と語られたキリストとの関係がきわだちます。真に根源的な意味での「世の光」はキリストただひとりであります。弟子たちは本来は暗黒であり光を失った存在です。ただまことの光であるキリストによって弟子たちはその光を反射することができるようになるのです。弟子たちの役割はキリストからの光の担い手となり証人となることであります。「地の塩」「世の光」としてのキリスト者のあり方はひたすらキリストに従うことから生じるキリスト者の生き方であります。

 「塩」と「光」この二つのたとえはそれぞれ別個にではなく、双方を補い合う譬えとして用いられていると受けとめることができます。それは教会の潜在化する働きと顕在化する働きということもできます。塩の働きは保存にしても調和にしても目に見える働きではありません。塩がその効き目を発揮するのは、ものに溶け込んでゆくときであります。塩が塩のままで留まっている限り塩としての効果を現すことはできません。教会が地の塩として語られる場合、このように目に見えない形で、隠れた形に徹することによって初めてその働きが働きとして生きて来るということであります。教会は社会の様々な組織や制度、様々な地域にもキリスト者が存在し、匿名的なありかたで実に大きな働きを成している実例は全国に広がっている教会の宣教活動に数多くの実例を挙げることが出来るでありましょう。人に知られることなしに、地味な大きな働きをしているキリスト者は多くいるのです。キリスト者の群れとしての教会の働きが、溶け込んで行って働きをする「塩」として語られることは潜在化している働きといってよいでありましょう。賀茂川教会においても、のぞみ保育園や、会員の方々の社会におけるそれぞれの働きなどはその実例といってよいのではないでしょうか。与えられた状況の中に入って行き、そこで真に溶け込んで行くことによって塩としての働きを果たして行く教会の一面がここに示されています。

 また一方では、教会は「世の光」「山の上の町」として描かれます。これは顕在化した教会のあり方です。キリストに従う群れ、すなわち教会は目に見える教会のことであります。キリスト者の服従は一つの目に見える行為であり、それを通してキリスト者はこの世から自分を引き出す。そのようにしてこそ、教会は夜輝く光のように、平野にそびえ立つ山のように見えるのである(ボンヘッファー「キリストに従う」)。

 この二つの例話は相補い合うと申し上げました。「地の塩」としてのありかたに埋没の危険性がある。別の言い方をすれば、この世に溶け込んで埋没するとその働きは世に迎合することとなり、キリスト者としての主体性を失って、人間の自我のわざとなってしまうと言う危険であります。そして「世の光」「山上の町」のあり方には超越の危険が伴います。単純に言うと自己栄化です。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」という言葉の意味を、自ら善行に励んで世の称賛を得なさいと誤って解釈する危険があります。仮にそういうことが可能であったと仮定しても、世の称賛を得るのはその人自身であって、~に栄光を帰することにはなりません。それだけではなく、そもそも人間自身が世の称賛を目指すこと自体~を主とし~に従うこととは違うと言わざるを得ません。このように見て来ますとわかりますが、これは努力して善行に励めということではないのです。わたしたちの内に宿された「主イエスの光を輝かせなさい」ということです。このような、自分を埋没させてしまうことと超越するという二つの危険、教会の世俗化・他者隷属化あるいは自己栄化の内なる罪は絶えず教会を襲ってきます。ですからこの戦いは止むことがありません。この戦いの中で教会は主であるキリストにのみ依り頼むほかはないのですよと御言葉は言っているのです。

 本日の日課の直前の12節には、迫害下にある教会に向かって、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われたイエスの言葉があります。たとえ世の人が、いかにあなた方を断罪しようとも、あなたがたこそ世の闇を照らす光であり、天国の民として、イエスの刻印を身に帯びているのだ。~によって受け入れられ、「地の塩」「世の光」たるべく重い使命を託されているのだ。だから山の上にある町のように、人の目から隠れることができない。だから恐れることなく~から受けた恵みの光を世の人に伝え、~の栄光を表せといっているのです。人々と共に、救いの恵みを共にし、~を共にほめたたえるに至るようにと、すべての信徒に~の恵みの業を証しする伝道者としての証言が求められているのです。

 わたしたちは~から受けた恵みを、繰り返し自己目的にのみ用いて、この恵みを空しくするのではなく、受けた恵みを命をかけて~の御旨に答えるという本来の使命を果たしなさい。そのように促されているのです。つまりイエスの弟子たる者としての覚悟が、ここで求められているのだということです。~に救い取られた恵みをほめたたえて生きてゆきましょう。

 お祈りします。

 神さま。わたしたちが主イエスの弟子とされた恵みを感謝いたします。わたしたちが試練や困難の中にあってもあなたからの救いの喜びを表して、あなたの弟子であり続けることが出来ますように、常にあなたの救いの業につながっていることができますようにわたしたちを守り導いてください。
主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。  アーメン
 
 
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