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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2022年礼拝説教


★2022.12.25 「闇夜に輝く光」ヨハネ1:14-14
★2022.12.18 「神の霊に動かされて」マタイ1:18-23
★2022.12.11 「神の国に生きる人」マタイ11:2-11
★2022.12.4 「神のもとに立ち返る」マタイ24:36-44
「闇夜に輝く光」ヨハネ1:14-14
2022.12.25 大宮 陸孝 牧師
 「光は暗闇の中に輝いている」(ヨハネによる福音書1:5)
 ヨハネ福音書は、他の福音書(マタイ、ルカ)のようにイエス・キリストの生涯の始めを、美しい降誕物語として描かないで、詩文によってイエス降誕の意味を説き明かすという形で、書き始めています。それは、これから始まるドラマの雰囲気を伝えて、人々の心を予感と期待に満たします。

 ヨハネ福音書は「初めに言葉があった」と語り始めます。「初めに」という言葉を聞くときに、わたしたちは旧約聖書の初めの創世記が「初めに、神は天地を創造された」と記しているのを思い起こします。神が宇宙の初め、何もない混沌に向かって「光あれ」と呼びかけられると、光が出現し、それから神の命じられるままに、太陽や月が大空をめぐり、さらに地上に生命が芽生える様子が描き出されます。このような天地創造、宇宙と生命の出現と歴史をわたしたちに思い起こさせながら、ヨハネ福音書は「初めに言があった」と語ります。「言」はギリシャ語の「ロゴス」で、宇宙を成り立たせてこれを動かしている、法則、原理を意味する言葉でした。ヨハネ福音書はこの言葉を使って、世界を造りこれを導いておられる神を示そうとしたのです。

 さて、それで創世記を具体的に読み進めてゆきますと、この天地創造の出来事で造り出されてくるものの中で、まず最初に創造されたのは「光」であったことがわかります。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、よしとされた。」

 一方、ヨハネ福音書もまた、その冒頭で、「光」について語ります。4節には「言の内に命があった。命は人間を照らす光であったとあり、9節には「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とあります。

 つまりヨハネ福音書の言う「言」とは、イエス・キリストのことです。ですから、ヨハネ福音書が「この言とは命のことであり、この命とは光のことである」というとき、それはイエス・キリストを指すものであって、イエス・キリストこそ「命」そのものであるということになります。そして、ここでもまたヨハネ福音書は、「光」というものをめぐって、創世記冒頭の記述を訂正しているといえるかもしれません。

 一般的な意味での光、ただ単にまわりを明るくするという現象的な意味での光が最初に造られたのではなく、わたしたち人間とこの世界を照らし導く「まことの光」としてイエス・キリストがやって来られたのだということ。この方、この「光」こそ、世の「初め」、世の根源に位置づけられるものであり、この世界と人間とに欠かすことのできない存在であること。そうしたことをヨハネ福音書は主張しているのです。

 ここで、この「光」について、もう少し創世記とヨハネ福音書とを読み比べてみましょう。創世記での「光」は、現象的な光であり,それが創造されたことによって「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」とあります。ここでは、光はただ「明るい時間」、「昼間」を形作る働きをするだけであって、それが「善」であるとか「悪」であるとかいうこととは何のかかわりもありません。

 しかしヨハネ福音書では、イエス・キリストこそ「まことの光」であると述べる一方、それとは全く異質なもの、「まことの光」に敵対する存在として「闇」というものが登場してきます。それは「まことの光」に対立する「まことの闇」というべき存在であり、一つの力というべきもののことです。

 ヨハネ福音書によれば、この「まことの光」と「まことの闇」との間には共存したり妥協する余地はまったくありません。「まことの光」が「まことの闇」を追い払うか、あるいは、「まことの闇」が「まことの光」を覆い尽くすか。そこには二者択一があるのみです。この世においてこの二つのものがぶつかりあうのです。しかしながら、ヨハネ福音書によれば、この両者の激突の結果は明らかであり、そのことについてこのように記しています。

 「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」「光は暗闇の中に輝いている。」
 「光」であるイエス・キリストは、この世にあって輝き続けている。
 「闇」を圧して輝き続けるのです。

 このようにして、ヨハネ福音書はその冒頭で、この方イエス・キリストこそ、人間と世界の永遠の根源であり希望であることを告白しています。それはまさにヨハネ福音書の信仰告白にほかなりません。

 ところで、ヨハネ福音書には、こうして初めから読んでゆきましても、いわゆる「クリスマス物語」というべきものはありません。一般によく知られているクリスマスの出来事は、マタイ福音書とルカ福音書に記された伝承に含まれるものであって、マルコ福音書やヨハネ福音書の場合、主イエス・キリストについての描写は救い主としての「公生涯」の部分から始まっています。

 そして、マタイとルカの記事を読みますと、クリスマスの物語には「夜」を背景にした場面が多いことに気付きます。イエス様の父となったヨセフへの啓示はいつも夢の中で、つまり夜の間の出来事として描かれていますし、東方の学者たちは夜空に輝く星に導かれて旅をします。また、羊飼いたちに天使が現れ、主の誕生を告げたのも夜の出来事でした。
これは偶然でしょうか。おそらく、そうではないと思います。

 福音書の降誕の物語が、とりわけ、「夜」という時期に起きたエピソードを選んで、そこで起こった出来事を伝えようとしている真意は、主の誕生が「闇」に包まれた時間、「闇」に覆われた世界の中で起こったということを強調しているように思います。つまり、これらの二つの福音書は、クリスマスは「夜」の時間に「闇」の世界のただなかで起こった出来事だったこと、そのようなところに「まことの光」がやって来た出来事だったことを告げようとしているのだろうと思います。

 そうであるならば、それらのクリスマス物語が告げようとすることと、ヨハネ福音書がその冒頭で語ろうとしていることは、一つの同じことがらであると言っていいのではないかと思います。

 初代のキリスト者たちは、イエス・キリストこそ「まことの光」であると信じたのです。そして、それはまた同時に、初代のキリスト者たちがこの世の現実を「まことの闇」として受け止めていたということも告げているのだろうと思います。

 わたしたちの目を外に転じると、わたしたちの生きているこの世界は今なお神の支配に完全に服しているわけではないことを、わたしたちは知っています。神の国を求める「主の祈り」を祈り続けなければならないのが、わたしたちの生きている世界です。

 そこではあちらこちらに「まことの闇」が色濃く残っています。残っているどころか、「闇」こそがあたかもこの世界の真の主人公であり、最後に残るものなのではないかと思わされることがしばしばあるのが現実の姿です。

 その闇の力がわたしたちの内面に向かって働くときには、わたしたちの精神を堕落させ、人間性を腐敗させます。また、それがわたしたちの外において人と人との交わりや人間集団の中で働くときには、その人間関係を破壊し、ゆがめ、そして創造の原初に存在したという、「混沌」と「深淵」の底にわたしたちを引きずり込もうとします。

 人間はこのような闇の力に対抗するために、自分自身の力によって「人工の光」を作り出そうとする営みを続けて来ました。そうして、一時的にであれ、「闇」を忘れ、あるいは「闇」から遠ざかっているかのような錯覚を求めて来ました。政治であれ経済であれ文化であれ、様々な知識や技術、制度や組織であれ、人間の生み出した全てのものは、ある意味で、こうした圧倒的な「闇」の力に立ち向かうための人間的な努力の産物であり、その営みの積み重ねが人間的な歴史の実態であったとさえ言えるかもしれません。

 しかし、「まことの闇」の深さ、大きさ、強さは、本来、人間の想像の及ぶところではなく、人間の力の及ぶところではありません。わたしたちの手元の小さなライトをどれほど振りかざしたところで、世界の全体が明るくなるわけではなく、わたしたちの全身が温まるわけでもなく、まして永遠の希望を生み出すこともありえないのです。

 わたしたちに必要なのは、何か新しい「人工の光」を発明することではありません。そうではなくて、「まことの光」に立ち返ること、そのために「まがいものの光」を投げ捨てることが求められているのです。

 ここで心理学者の河合隼雄さんが『心の処方箋』の中に記しておられたひとつのエピソードをご紹介いたします。それは海で魚釣りをしていた小さな乗り合い船で起こった話だといいます。その船が夕闇迫る頃、強い潮に流されて岸からかなり遠く離れた沖合にまで流されてしまったというのです。釣り人たちがあわてふためくうちに、まもなく太陽は沈んで周囲は闇となりました。その夜は月もなかったために、自分たちのいる場所はおろか、方角も分からないという状況でした。だれもが必死になって船の灯りを振りかざし、自分たちのいる場所を確認しようとしました。そのうち、ある人が「灯りを消せ」と命じたといいます。不思議に思いながら、皆がその通りにしました。灯りが消えると、海の上は真の闇です。けれども、その闇にだんだん目が慣れてくると、まったくの闇と思っていた中から、遠くの方に浜辺の町の灯りらしきものが、ボオッと見えてきました。そこで帰るべき方角が分かり、皆が無事に帰って来たという話です。

 自分の灯りを消した時に、真の闇の中で初めて見えて来た浜辺の灯り。これこそ自分のいる場所も分からずに漂流していた人々を導く「まことの光」となったのです。そのまことの光に気付くためには、まず最初に自分たちの手の中にある灯りを消さなければならなかったのです。

 わたしたちの手の中にある「自分の光」はかえってわたしたちを惑わしたり、それを振り回せば振り回すほど、むしろわたしたち自身と事態を混乱させたりすることがあります。「まことの闇」の中でわたしたちの行くべき道を本当に指し示してくれるものは「まことの光」でしかありえません。それに出会うためには、まず最初に「自分の光」を消さなければならないのです。

 本日の御言葉で、わたしたちが忘れてはならないことは、今なおわたしたちの周囲に色濃く残っている「まことの闇」のもたらす厳しい現実を直視すると共に、その状況のもとで、わたしたちが「自分の光」をかざす、自分の光を頼るのではなく、「まことの光」に立ち返るということではないでしょうか。

 ヨハネ福音書は言います。
「光は闇の中に輝いている。」

 この「闇の中に輝いているまことの光」を見いだすために、わたしたちは周辺にまたたいている数多くの「光」を一つ一つ丁寧に吟味し、それが「自分の光」、「人工の光」、「まがいものの光」にすぎないのか、わたしたちの主イエス・キリストのもとから発している「まことのひかり」なのかを見分けることから始めなければなりません。

 この世界には「まことの光」に出会うためにまず消さなければならない「まがいものの光」があまりにも多く存在しています。本日主イエス・キリストの誕生を本当にかけがえのないわたしたちの光として喜び祝うために、わたしたちは自分自身を深く省みながら、消すべきものを消し去るという作業から初めて行きたいと思います。

 お祈り致します。

 イエス・キリストの父なる神さま。

 あなたが御子イエスを、この罪と汚辱に満ちたわたしたちの暗闇のただ中にお遣わしくださったクリスマスの出来事を心から感謝します。どうかあなたのこの愛が、まだそれに気付いていない多くの人々に伝えられ、悲しみと絶望しかないように思われるこの世界に本当の希望と喜びの光が満ち溢れ、わたしたちが心からあなたの栄光を褒め讃えることができますように
クリスマスの主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

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「神の霊に動かされて」マタイ1:18-23
2022.12.18 大宮 陸孝 牧師
 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイによる福音書1:20-21)
 今朝わたしたちに与えられている福音書の日課はマタイ福音書1章18節から23節までのところです。この箇所には「イエス・キリストの誕生」という表題がつけられています。ここには、クリスマスはまったく一方的に~がわたしたち人類の中に介入して、イエス・キリストという贈り物をわたしたちにくださった出来事だったと記されています。わたしたちがクリスマスにプレゼントを贈り合うのは、~の人類に対するこの愛のプレゼントへの感謝と喜びを表すためだということもできます。神さまの一方的な介入ということは、わたしたち人間には戸惑いを引き起こさないわけにはゆきません。この事態に直面したヨセフにとってもそうでした。

 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)ヨセフが自分の妻がまだ共に生活を始める前から身重になったという事態に直面して、戸惑いながら決心したことは、ひそかに離縁することでした。正しい人であったヨセフがそのままマリアを妻として受け入れることは不可能でした。常識的に考えればマリアは不倫の妻であったからです。表ざたになれば、旧約聖書の申命記22章22節以下の規定によって、石で撃ち殺されなくてはなりませんでした。しかし、ヨセフはそうしたくなかったので、表ざたにしないで密かに離縁する道を選ぶように決心したのです。ヨセフにはとまどいはありましたけれども、怒りとか嫉妬心とかはうかがわれません。マリヤへの愛さえもここにはうかがわれます。しかし、それだけにこの決心に辿り着くまでのヨセフの戸惑い、苦悩は一層深いものであったに違いありません。そのようなヨセフの戸惑いの夜の中でヨセフに~の意志が伝えられます。そうして、マリアに起こった事態が~の介入によるものであって、マリアによる不始末によるものではないから恐れる必要はないことを知らされます。このようにして生まれる男の子が、自分の民を罪から救う救い主となるのだから、イエスという名前をつけなさいとまで指示を受けるのです。

 イエスとは旧約聖書のヨシュアのことで、「~は救いである」という意味を持った人名です。ひとりの男の子の誕生にあたってなされた~の一方的な介入は、~に背を向けて罪と死に落ち込んでいる~の民を救うための介入であったことが明らかとなるのです。この時点から人類の歴史は罪の歴史から、救いの歴史へと転換されるのです。イエスの降誕の出来事が歴史の新しい紀元となったことは大きな意味を持っているのです。これは、自分とは関係がないと第三者の立場を取っていたわたしたち一人一人の救いの物語へと展開して、クリスマスがわたしたちの救いの出来事となるということを意味します。

 そしてマタイはこの出来事が、預言者イザヤによって預言されていた約束が実現するためであった、と説明しています。イザヤ書7章14節で「一人のおとめが身ごもって男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ばれる」という~の意志を約束として伝えています。この約束がそれから七〇〇年後に実現したのが、この最初のクリスマスの出来事となったのです。
 ここでヨセフは戸惑いの人でありましたが、一方的に伝えられた~の意志に対して驚くほど従順であります。これは~への従順によらなければ乗り越えることができ得なかったことであると主張しているのです。ヨセフの戸惑いと苦悩は、救いのための神の介入の意志への信頼によって乗り越えられます。ヨセフの決心は人間としては正しい決心であったかも知れません。しかし、このヨセフの人間としての正しさ、それだけでは人間を罪や悲惨から救い出すことはできることではありませんでした。クリスマスは、このヨセフの人間としてのただしさを超えて、というより、ヨセフのこの正しい決心がもう一度くつがえされることによって、人間を救うできごととなったと言っているのです。ヨセフはここで、自分の人間としては一応もっともな決心をなお変更して、~の御旨に服従しました。ここで明確に言おうとしていることのひとつは、人間の救いは、人間の正しさによっては解決されないのだということであろうと思います。それよりもはるかに偉大で、厳粛な~の意志によることなのですから、人間は、この救いの出来事を、~の助けによることとして謙遜に受け入れるほかありません。

 この待降節に主イエスを待つとはどういうことか、自分のそれなりの正しい決心をさえも保留し、それを超える~の御旨を待つということなのです。そして、一度~の御旨が明確になったならば、それに動かされる用意をするということなのです。~の御旨に動かされる用意をするのです。それが待降節の意味です。

 もちろん、わたしたちには、自分なりの気持ちがあります。自分の心づもりがあり、決心があり、予定があります。ヨセフは困惑し、思い悩んで眠られぬ夜をすごしています。20節には「恐れず」とあります。それは、ヨセフが、悩み、自尊心を傷つけられ、あるいは不信と疑惑で苦しみ、それだけでなく宗教的な恐れの中に日々を送ったことをうかがわせます。人間はいろいろなことで思い巡らさざるを得なくなる存在です。その中で決意をし、しかしなお悩みと混乱の中にあり続けるのが人間です。しかし待降節では、そうした人生の悩みや混乱の中で、最終的には何に動かされるのかが重要な点でありましょう。その中でなお~に動かされる用意がある。それがヨセフの姿であり、待降節に~の救いの出来事を待つ人々の姿であります。

 わたしたちの信仰告白文の使徒信条では「聖霊によって宿り」という一文があります。ここには、主イエスが~の霊によって生まれたということと、もう一方では、わたしたちが~の救いの出来事を~の霊によって知らされた、~の霊の導きによって理解出来るようになったということが含まれていると思うのです。~の霊の導きによって人間的な判断や決心を変えられて、~の霊に動かされる人間がそこにいるということでもあろうと思います。わたしたちは何ものにも動かされない「不動の境地」を求めているのではありません。そうではなく、~に深く動かされることです。だからこそ、それ以外の何ものにも動かされないことです。自分の欲望にも、また自分の不安や恐怖にも動かされず、自分の考える正しさにでもなく、それ以上の、ただ~に、~の霊に動かされることだけ、それはつまり聖霊による「祈りの人」ということでもあるでしょう。聖霊による祈りの中で~に動かされる時に、そこにこそ真実の自由があり、平安があります。そこから命の力も湧いてくるのではないでしょうか。~の霊に動かされる人が無力なはずはありません。そしてこれこそ「~がわたしたちと共にいてくださるインマヌエル」ということなのではないでしょうか。

 ですからこそ、クリスマスはたといどのように暗い、行き詰まったわたしたちの現実の中でも、それにもかかわらず、わたしたちの側に何の根拠もないけれども、神の方で一方的にわたしたちに喜びを与え、希望の火を灯すできごとなのだということです。このクリスマスの時期を境として一年のうちで夜の時間が最も長くなる冬至が過ぎて、光が暗黒に打ち勝つ日々が始まり、夜明けが始まります。どのような時にも~はわたしたちと共にいてくださるこのクリスマスの喜びを心から感謝して、まだ暗黒の中にうち沈んでいる世界に向かって、夜明けがきていることを告げ知らせる者となる、これが教会のこの世界に対して負っている責務であります。

 お祈りをいたします。

 わたしたちを愛し、独り子イエス・キリストをわたしたちの救いのためにお遣わしくださった父なる神さま。

 わたしたちの思いをこの世から開放して下さり、あなたの救いの恵みに対する感謝で満たしてください。命の主がわたしたちの罪を代わって担い、わたしたちを永遠の命の交わりの中に招いてくださいますから、この喜びを声高く夜明けを待ち受けている世界に言葉と奉仕の業を通して、告げ知らせる者とならせてください。

 いつもわたし たちとともにいてくださるインマヌエルの主イエス・キリストの御名によって祈ります。        アーメン

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「神の国に生きる人」マタイ11:2-11
2022.12.11 大宮 陸孝 牧師
 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(マタイによる福音書11:3)
 本日は待降節の日課としてとられる箇所であります。一〇章のところで主イエスが十二人の弟子たちを選び、神の国の宣教者として派遣なさるに当たって、その心構えを懇切に説かれ、11章1節の所で「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」と記されています。それに続く本日の日課は、新共同訳では「洗礼者ヨハネとイエス」という題がつけられていて、6節で一段落があり、19節で終わります。洗礼者ヨハネが、イエスは果たして来たるべきメシアかどうかという問題について弟子を遣わし、イエスが答えられたということが語られ、7節以下では、イエスがそれに関連してヨハネのことを述べ、自分のメシアとしての問題を述べられておられますので、ここで中心的な問題となっているのはメシアの問題であるということです。

 マタイ福音書3章で、バプテスマのヨハネといえばイエスの先駆者であり、イエスに洗礼を施した人として描かれております。悔い改めを迫る審判の預言者として既に登場していて、人々に大きな影響を与えていました。そのヨハネが本日の日課では獄中にいました。それはあのヘロデ大王の子のヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤが、異母兄弟であったヘロデ・アンティパスに惹かれて娘のサロメを連れてアンティパスのもとに走ったのですが、審判の預言者ヨハネがヘロデヤの不倫を黙って見逃すはずはありません。その不倫の関係をヨハネに厳しく諫め(いさめ)られたために、へロデアの願いでヘロデ・アンティパスがヨハネを捉えて、死海の東岸のマケルスの城砦(じょうさい)の牢に閉じ込めたのです。マケルスは非常に暑いところだそうで、ヨハネはそこで肉体的に苦しんだというだけでなく、最も深い意味で懐疑また霊的苦悶に陥り、弟子たちをイエスの所に遣わして「来たるべき方はあなたなのでしょうか。それとも他の方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのでした。

 バプテスマのヨハネはかつて、ヨルダン川で洗礼を受けるために彼のもとに来たイエスを指さして「この人こそメシアだ」と世に紹介した人物です。その彼が獄中から直接イエスに向かって「来たるべき方はあなたなのですか」と、あの堂々たるヨハネの姿とは打って変わって、恐らくやむにやまれぬ思いで疑問をぶつけているのです。これはいったいどういうことか。このときにヨハネを襲っている苦悩は、キリストを知った者がキリストを疑うという苦しみであろうと思われます。心理的な苦しみというよりもっと深い誘惑が彼を襲ったのだということです。ヨハネはキリストを指さして「この人がキリストだ」とはっきりと証言致しました。人間的に考えればヨハネはこの指さしに全生涯を掛けた人でありました。その生涯をかけたはずの指さしが正しいのか間違っているのか揺れ動いているということです。その中でヨハネはイエスに直接に疑問をぶつけているということは、ヨハネの大きな苦しみがそこにあったということを意味します。

 神のために生き抜き、しかも自分の後に来る人がすべてを完成してくれるのだと叫び続けた人が、一転してその指し示しは間違っていたのではないか、イエスは偉大な人ではあるがやはり先駆者である一人の預言者に過ぎなかったのではないか、と考えたのは、驚くべきことであります。どうしてそうなったのか。

 それについては、イエスに洗礼を授けた時のヨハネの言葉が明らかにしているとみることができます。(3章10〜12節)ヨハネの考えた救い主は、焼き尽くす火としての厳しい審判者の到来を預言し、新しい時代を将来する救い主でありました。ところがイエスのことを見聞きすると、そのようなキリスト観とは全く違っている。宗教的には依然としてファリサイ派が力を奮い、政治的にはヘロデが権力を奮って民を圧迫している。そのような状況の中で、自分は閉じ込められているし、恐らくイエスもまた自分と同じような運命に遭うことになるのではないか。そのような中にあって新しい時代の到来などとても考えられることではない、というのがヨハネの気持ちではなかっただろうかと推測されます。ヨハネが迷ったのは、イエスが果たして自分の担ってきた課題をイエスが正しく継承しているのかどうかということに大きな関心を寄せていたからだ、と多くの注解者が一致して解釈しています。

 それは、ヨハネだけではなく、その他の人たち、イエスの弟子たちも同様に胸に秘めていた疑問でした。ただ弟子たちは、それを率直にイエスにぶつけることができなかったのです。そしてこの問題はヨハネの弟子たちの間にくすぶり続け、初代教会においても議論が続けられた問題でもあったようです。ヨハネはこの疑問を率直にイエスにぶつけました。これはつまりヨハネは疑いの中にあっても信仰的であったということです。イエスのところへ直接疑問を持っていったことは、ヨハネとイエスとの間の本質的な関係はまだ絶たれていないということを意味するからです。わたしたちもしばしば神に祈るときに、自分の中に生じた疑問を直接に神に問いかけることがあります。神に問いかけることは決して不信仰なのではありません。それが神からの応答を得る道でもあるのです。

 これに対してイエスは4節から6節で答えられます。「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』」

  ここはイザヤ書35章5節と6節と関連しているところです。そして「貧しい人は福音を聞かされている」はイザヤ書61章1節の言葉そのままです。一面ではイエスのなさっていることそのままなのですが、イエスをメシアであると信仰告白できていない人が、直接的にイエスの行動を見たり、言葉を聞いたりしても、キリストの業と受け取ることはできないのですから、具体的にイエスの言葉を聞き、イエスのことを考えたにしても、直接にイエスをメシアだと信じられる者はいません。イエスがメシアであることは、イエス自身の言葉の中に、行為の中に隠されているのです。それで、旧約聖書に語られている預言者のことば、メシアが到来したならばこうなると預言されていることが、イエスの到来によってことごとく実現していることを知らせ、もしもヨハネがメシアの到来を待ち望んでいるのであれば、イエスこそまさしくヨハネが待望していたそのメシアであることを悟らせようとされたわけです。「『見よこの人だ』とのあなたの証言は、旧約聖書に預言されていた確かなことですよ」と。これにより、今こそ旧約の預言が成就し、救い主がここに来ておられるということを再度証言しようとしておられるのです。

 イエスの答えは、弟子たちが見聞きしていることを言っただけでした。しかし、考えて見れば、ヨハネはそれらのことは既に弟子たちを通して聞いていたに違いないことであったと思われます。しかしヨハネとしては、彼の考えていたメシアが到来すれば、この世の暗黒の力は駆逐され、神の国が進展して行くと思っていた。それからすればイエスの答えは彼の期待していた答えではない。これではヨハネが信仰告白をするようにはならない。それで、イエスは最後に言われるのです。「わたしにつまずかない者はさいわいである」と。イエスとしてはこれ以外に言いようがなかったと思います。信仰を除外して突如地上に現出するメシアを捉えようがないのです。福音はヨハネが考えているような空論や抽象的な理論ではない。イエスにおいて起こった出来事なのです。そしてもう一つ、ヨハネの弟子たちに対するイエスの答えには「死者は生き返り」(5節」という言葉がありますが、この言葉はイザヤの預言にはありません。このことをも併せますと、イエスはヨハネの考えている、また旧約聖書イザヤ書の預言している以上の方なのだ。罪を審判される方以上の、罪そのものを根絶し、まことの命を与える救い主、生ける霊が、イエスという方を通して、わたしたちの世に臨んでいることを言おうとしているのです。主イエスのこの答えは、ヨハネやヨハネの弟子たち、そして初代教会を超えて、すべての人に差し向けられているということになります。

 さて、7節以降は洗礼者ヨハネに対するイエスの評価が続きますが、少し角度を変えています。「風にそよぐ葦、しなやかな服を着た人」というたとえはどこから来たものか。あの英雄的信仰の人ヨハネが、風に揺らぐ葦のような姿でイエスに対したともとれる。悔い改めを迫ったヨハネの活動の場所は「ユダヤの荒れ野」でした。人々は何を期待してヨハネの活動していた荒れ野に出かけて行ったのでしょうか。風にそよぐ葦のように、世の風潮に押し流される無定見な人を見るために荒れ野に来たのでしょうか。あるいはまた上品な服を着て、豪奢な生活をしている人を見に、出て来たわけでもないだろう。この二重の否定によって、無数の群衆と、その上に君臨する権力者という二つの階層が、的確に描き出されています。ヨハネはそのどちらにも属しません。荒れ野に出かけて誰に会うことを期待するのでしょうか。それは預言者なのです。次の10節では、主イエスは、ヨハネを預言者以上の存在であると評価しています。

 10節は、出エジプト記23章20節、マラキ書3章1節を組み合わせた引用です。この引用によって、イエスは、ヨハネは旧約時代の預言者以上の者、王宮にいる王以上の者、王宮にいる王に直言する者なのだと評価しているのです。ヨハネが他の預言者よりもひときわ人格・能力などにおいて優れているというのではなく、他の預言者とは違った特別な役割を与えられている預言者だと言っているのです。その役割とは何か、それは、旧約聖書の預言の成就がイエスであり、ヨハネは預言の成就であるイエスを指し示した人であって、神の子に最も近く立っていたからだというのです。

 11節 「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は表れなかった」。大胆な宣言でありますが、このように断定できる根拠は何処にあったのでしょうか。と問うてみますと、神様から離れ、罪に汚れきっていたこの世界に、救い主なる御子の到来を迎えるには、その道備えのために、その受け皿としてヨハネの出現を必要としたという重大な事実があります。神が人となるというこの世を超える霊的存在の到来の出来事をわたしたちが迎えるためには、義人ヨハネの到来を必要としたということです。ヨハネは、そのこの世を絶した使命を神に託されたのでした。この事実の重みを伝えようとしたのが「洗礼者ヨハネより偉大な者は表れなかった」という断言の意味です。これは、ただ単に人物崇拝をする意味ではないことが次の言葉によってはっきりします。

 11節後半でさらに驚くべきイエスの言葉が続きます。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。この言葉によって主イエスが、人間的な偉大さによる上下関係を完全に否定されている点にさらに驚かされるのです。天の国に招きを受けた人はみな、最大の偉人とされるヨハネ以上であるというのです。そうだとすれば、地上においての上下の価値観は、完全に乗り越えられているということを意味します。ここに、ユダヤ教からキリスト教への大転換、すなわち、神の子、主イエス・キリストがおいでになり、わたしたちの世界に大きな神の恵みと祝福がもたらされたとの宣言がなされているのです。マタイ福音書では、天国に生きる人とは、イエスの招きを受けた人のことであります。(5章3節)神の救いに与り、主イエスの贖いと復活の新しい命に救い取られ、教会の信徒とされた者は、主イエスと同様の命を付与されるというまことに驚くべき恵みの宣言がここでなされているのです。

 神の国とは、贖い主キリストがいますところです。神の国の中心にあるものは愛です。人間の憎しみや争い、病気や、人生の苦しみ、悩み、痛み、絶望から解放され、すべての人たち、すべての民族が平等で自由で、皆が健康に恵まれ、戦いもなく、飢えもなくキリストの許で平和を享受し、喜びに満ちた霊の世界、魂が真に神に創造された、ありのままの姿でいることが出来るところ。まさにいのちの局地といってもよいところです。神は、愛と恵みのうちに、人間をもう一度そのような祝福と命への道を備え導こうと計画され、キリストをわたしたちの所へ送られたのです。

 お祈りいたします。

 教会の頭なるイエス・キリストの父なる神様。
わたしたちの信仰の歩みの中にあなたの憐れみの御手を覚えて感謝いたします。どうかわたしたちが砕かれた思いを持って、あなたの大きな救いの恵みの御前に跪き、ためらうことなくただ主イエスに対する救いの確信に満たされて、信仰の歩みを進めて行くことが出来ますようにわたしたちを御言葉によって強め、導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン

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「~のもとに立ち返る」マタイ3:1−12
2022.12.4 大宮 陸孝 牧師
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。(マタイによる福音書3:1−2)
 ナザレでは、主イエスを救い主と認めた人はひとりもいませんでした。主イエス自身もまた、自分をイスラエルの王として示すために、自分の意志をもっては何もなさろうとはしませんでした。主イエスは、~がどのような仕方でご自分をナザレから導き出し、イスラエルの民衆の只中へ引き出されるかを、ただ、静かに待っていました。そして、そのことは、ヨハネの登場をまって起こったのでした。

 ヨハネは、「荒野」に登場します。ヨハネは、都市にではなく、街にではなく 、神殿にでもなく、また、議会にでもなく、学者の群れの中にでもなく、「荒野」に、辺境の地に、民衆のただ中に一人登場します。「らくだの毛衣」と「腰に革帯」という出で立ちは、荒野を生きる場としたベドウィン族を想起させます。ヨハネは荒野で人々に語ります。「教える」よりも「語り」ます。意見を述べるのではなく「断定」します。助言をするのではなく、むしろ審きます。「天国の到来」を告げますけれども、それは甘い言葉ではありません。ヨハネは「悔い改めのない安っぽい恵み」を解きません。このようなはげしい言葉を敢えて語る人に、この地上で、「荒野」以外のどこにも住むべきところはありませんでした。ヨハネは地上の富の与える確かさによって生きようとはしません。彼は荒野が与える僅かな「いなご」と「野蜜」とを食べ物として生きるのです。その生き方は決して反・文化主義や禁欲主義を主張しているのではありません。ヨハネは、そこでは一見何も見えず、一切が荒廃しているかに見える荒野にあればこそ、その荒野の中にこそ到来するものを見ていたのです。主の道は、ここにこそ備えられるということを見ていたのです。

 人の世の営み一切を「虚妄」と断じ、この世の偽りの繁栄の中に死の砂漠を見抜いてしまった者が、自らも「荒野」に身を置き、またこの世からも「荒野」に追いやられて、そこでこそ、ヨハネの口からはじめて、~の言葉がほとばしるように語られたのです。「悔い改めよ、天国は近づいた」、と。ヨハネはあくまでも「荒野」の声として登場します。「声」であることにとどまろうとします。そうすることによってのみ、彼は語るべき~の言葉を語り得たのです。

 ヨハネの語る言葉の中心テーマは、なにか。それは「悔い改め」です。「悔い改め」自体は決してヨハネの新しさではありません。ファリサイ派そのものがすでに非常に敬虔な、信徒の信仰覚醒運動であり、その生活規律の厳しさにおいては、悔いた心、悔いた行動を目指すことにおいて、さらに来たるべき~の怒りと審きに備えるべきことにおいてはファリサイ派の人たちは人後におちることはなかったのです。そして彼らに取って悔い改めとは、一人一人がファリサイ派に改宗することでありました。その他のたとえばサドカイ派の人々もヨハネの悔い改めの説教は新しいものではありませんでした。そしてそれらの人々にとって悔い改めとは、選ばれていることの自負と誇りと特権とをより確かなものにすると言う意味でしかありませんでした。しかしヨハネにとっては彼らこそ自分たちの生の根源的転換をはかり、~のもとに返るべき存在であったと見えていたのです。

 ヨハネの説教はまさにそのようなファリサイ派やサドカイ派の問題性を暴くものとなるのです。「悔い改めに相応しい実を結べ!自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな!」「悔い改め」とは単なる意識の変革ではありません。思考の変化とか、祭儀の改定とか、機構の改正とかでもありません。そのようなものは主体の転換とはなり得ない、従って一人一人の主体的な生き方が変えられるということには繋がらないものであります。しかし、「斧が既に木の根元に」置かれている。~の審判がわたしたちの生の根源に触れているとヨハネは語ります。危機の到来の只中にあって危機の存在そのものに気付かないで、特権と誇りと自負に座する、そういう人々の高慢を根底から脅かす危機とは何か、実はそれは~の審判そのことであります。神の怒りは、まさに、敬虔なる人々の上にこそ降るのです。ヨハネの説教の厳しさと徹底性と新しさとはまさにここにあるのであります。「~はその辺に転がっている何の変哲もない石ころからでもアブラハムの子を造り出す」これは~による全く新しい創造の働きを言っているのです。

 そういうことから言いうる真の「悔い改め」とはすなわち、「~の働き」であります。「良き実を結ぶ」こともまた~の働きであり、たまものであります。人間が自らの手で果たせる「悔い改め」は常に不徹底な改良主義に留まります。「良き実」を自らの手で生み出すことができると考えるところに人間の己をたのむ律法主義的な自負と傲慢があり、自らの手で生み出さねばならないと考えるところに、~を信頼しない律法主義的な焦りがあるのです。それでは、そういう人たちにとっての本当の「悔い改め」とは何か、ヨハネは「~に向かうこと」だと語ります。そしてそれは、神ご自身が働きかけてくださらなければわたし自身の身に真実の悔い改めが起こることはもはやないということでもあります。真実の悔い改めは~の働きとしてのみ起こるのです。そして「良い実」は~の働きとして実る実りのことです。すべてのできごとの主体は神なのです。そして、それはこういう意味です。真の悔い改めは、~の赦しから起こるのだということであります。

 人間が自分が自分がと言って自分を主語としなければ気が済まない所に人間の罪があります。そしてこの罪人たる人間は自ら「悔い改める」ことができません。悔い改めを語るヨハネにしてそうなのです。このように語るヨハネの前に登場してくる現実の主イエスは、ヨハネの思い描く救い主像とは必ずしも一致しておりません。ヨハネはただ、~の、来たるべきご支配の希望について語り、メシアを待望し、「聖霊が注がれて」一切が根源から全く新しくされる日を待ち望む人として生かされているのです。ヨハネは一切を見てしまった人としてではなく、見えないものを見ているかのように信じ望んで語る人でありました。語ったヨハネ自身にとっても、おそらく、すべては、あくまで、すぐには答えを与えられない「問い」として留まっていたのではないでしょうか。すぐには答えを与えられない「問い」を問う人として留まりつづけるほかなかった所にヨハネの存在の意味があったのだとわたしは思います。

 ヨハネは答えを待つことに徹するほかないと決断し覚悟したところにヨハネの謙虚さがあったのだと思います。つまりヨハネ自身悔い改めに生きた人であったということです。ヨハネは、「待つ人」としての焦燥と苦しさを知り、それに耐え、そして生涯を閉じます。自分の短い一生が、ただ短かっただけではなく、全く無意味であったのかも知れないと言う深淵の声を聞きながら、ただ待つことにだけ生涯を懸けた人でした。

 ヨハネは真実の救いのできごとを起こされる方を待ちながら「聖霊と火とによる洗礼」つまり「人間は、ただ~によってのみ新しくされ、真実の人間とされる」このことは、ただ来たるべき方、主イエス・キリストによってのみ起こるのだということを意味していますが、ヨハネはファリサイ派の人々やサドカイ派の人々にそのように呼びかけたのです。呼びかけながら、悔い改めの実として、その来たるべき救い主の働きによって、わたしたち自身の命が~の赦しの恵みの中で全く新しくされる日を将来に臨み見、また激しく待ち望み続け、その希望をわたしたちに指し示し続けたのであります。

 祈ります。

 神さま。バプテスマのヨハネを通して、神さまの救いの恵みへと真実に悔い改めることがどういうことかを示されました。どうか、わたしたちが、自らの罪のために滅びることがありませんように。本当の悔い改めをなしてあなたの救いの働きに自分の身を委ねる信仰に立ち返り、その神さまの働きによって新しい命に変えられ、~の新しい創造の業に相応しい存在となることができますように、御言葉によってわたしたちを導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン。


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