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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2022年礼拝説教


★2022.1.15「喜びの杯が尽きるとき」ヨハネ2:1-11
★2022.1.9「あなたを照らす光は上る」ルカ3:15-22
★2022.1.2「人生の折り返しは別の道」マタイ2:1〜12

「喜びの杯が尽きるとき」ヨハネ2:1-11
2022.1.16  大宮 陸孝 牧師
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(ヨハネによる福音書2章10節)
 本日はヨハネ福音書2章1節以下が福音書の日課となっております。本日の日課の少し前の1章50節51節を読みますと「もっと偉大なこと」それは人の子としてのイエス・キリストの上を、天使が上り下りすること、すなわちイエスを通して私たちが神を見る、神に触れることができる、神のなんたるかが理解できる。あるいは、イエスにおいて神が臨在されるという福音の内容そのもののことが語られている言葉に出会います。福音書記者ヨハネはイエスという存在をそのように理解しました。本日のヨハネ福音書日課2章1節からは、イエスの救い主としての公の生涯、公的生涯が開始されると言うところから始まります。

 2章1節の「ガリラヤのカナで婚礼があって・・」という言葉から始まり、4章46節で、「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前に水をぶどう酒に変えられた所である」という一区切りのまとまりの結びの言葉が示していますように、イエスの最初の公生涯の〈はたらき〉はガリラヤのカナから開始され、カナに戻った形で記録されています。地理的には、イエスの育ったナザレの町の北方13キロメートルほどの所にあります、キルベト・カーナと言われる少し大きい町、そこが、本日の聖書の箇所の舞台であります。レバノンとイスラエルの国境近くのガリラヤ湖北東部のティルスにもカナと呼ばれる地がありますので、このカナと区別するために、わざわざガリラヤのカナと書いているわけです。

 2節から4節を読みます。「イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』」。このように聖書には記されております。マタイ、マルコ、ルカ共観福音書では、マリアという固有名詞は出て来ますけれども、ヨハネ福音書では一度も出て来ません。いつでも「イエスの母」とか、あるいは呼びかけることば、「婦人よ」という呼びかけの形で出てきます。恐らくヨハネ福音書は、地上のイエスの活動、人間イエスの活動よりも、地上を歩む神としてのイエスを描いておりますので、マリアという固有名詞を使わずに、少し客観的な書き方をしていると考えられます。おめでたい祝宴で、ぶどう酒が不足するという困った事態が起こりました。イエスの母がイエスに依頼するのですけれども、イエスは直接には答えておりません。ここでは、イエスの救い主としての自意識、あるいは自覚があったと、主イエス自身がそのように言っているわけではありませんが、イエスの教えと活動を書き、同時代に生きたヨハネ福音書記者はそのように見倣しております。そこでこのような表現、「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と記録されているのです。この「わたしの時」というのは、主イエスの救い主としての本来の働きの時、つまり十字架の死と、復活と昇天の栄光を受ける時を同時に意味します。つまりイエスは、十字架の死に到るまで、父なる神の意志に徹底的に従順であったということをいっているのです。

 そのイエスが、十字架の栄光を受ける時はまだ来ていないと告げています。その時まで、イエスご自身は、自らが神のご意志を体現する神の子であることに徹して、教えとその業の遂行に集中いたします。そのイエスの意志の表明は、「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」ということばの中に、秘められているのです。

 5節以下を見ますと、「しかし、母は召使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。そこには、ユダヤ人が浄めに用いる石の水がめが6つ置いてあった。いずれも2ないし3メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使いたちは、かめの縁まで水を満たした」と記されています。

 本日の聖書の日課には、登場人物が、イエスの弟子たち以外に、イエスの母、召使いたち、宴会の世話役、それに花婿と、大勢の人々が登場いたします。この人たちがイエスの最初の奇跡、しるしを見た、経験したという描写になっています。そして、その中で宴会の世話役が奇跡が起こったことを確認するという展開になっています。水が味の良いぶどう酒に変わったということに気がついた、という描写です。そして不思議なのは、その奇跡によって信じたのは、あたかも弟子たちだけであったような描写がここになされていることです。この書き方は、めざましいこと、驚くべきこと、病気が癒されたとか、あるいは水がぶどう酒に変わったと言うことを見て、すなわち人々が奇跡を見て驚いて信じたということを強調する構成にはなっていないということです。

 ここには、婚礼の祝宴のためのぶどう酒が足りなくなったという、困ったことになったことが報告されております。母マリアがイエスに依頼して、イエスが大量の水を、優れた味のぶどう酒に変えたという自然奇跡が生じたという出来事が、至って単純に物語られています。石の水がめ、いずれも2から3メトレテス入りが6つ置いてあったと記されます。1メトレテスというのはおよそ40リットルですので、80リットルから120リットル。ロングサイズの牛乳が80本から120本入る量だとお考えいただければよいと思います。

 8節から10節に「イエスは『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召使いたちは運んで行った。世話役は、ぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも始めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました』」と記されています。ここで重要な点は、「あなたは良いぶどう酒を『今まで』取っておかれました」という表現の中の「今まで」という記述です。

 11節に、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで弟子たちは信じた」と記されています。要するに宴会の世話役の人は、奇跡に気づいたわけです。弟子たちも気づきました。その弟子たちのうちに、イエスの奇跡的な行為が信仰を生んだという、そういう単純な物語として描かれているのです。つまり、ここではイエスと~との関係の中でのイエスの本質を明らかにしようとしてなされたしるしであるということを強調しようとしているのです。

 先程申しましたように、「わたしの時」というのは、ヨハネ福音書においては、「十字架の死と栄光をイエス・キリストが受ける時」を意味します。
 その時は未だ来ていない。このようにイエスは母マリヤに言ったのです。そのイエスの時に至るまで、イエス御自身は、自らが神の意志を体現する者、神の子であることに徹底して集中して、教えと業を行います。つまりヨハネはこの奇跡物語によって、私たちと神さまとの間を取り持つ仲保者の役目、神の僕としての役割を担う救い主としての姿がこれから描かれていくということを紹介しているのです。

 本日の日課の頂点となる句は11節にあります。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」というこの箇所です。ここでは、水をぶどう酒に変える奇跡が、イエスの栄光を現した、と告げております。この点が大事なところです。ここには、旧約聖書の預言の言葉が背景にあります。わたしたちは新約聖書を読む時に、旧約聖書から学んでその福音の本質を汲み取ると言う作業をします。このカナの婚礼の背景となっている旧約聖書イザヤ書の25章6節〜9節に次のように記されております。

 「万軍の主はこの山で祝宴を開き
 すべての民に良い肉と古い酒を供される。
 それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
 主はこの山で
 すべての民の顔を包んでいた布と
 すべての国を覆っていた布を滅ぼし
 死を永久に滅ぼしてくださる。
 主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
 御自分の民の恥を
   地上からぬぐい去ってくださる。
 これは主が語られたことである。
 その日には、人は言う。
 見よ、この方こそわたしたちの神
 わたしたちは待ち望んでいた。
 この方がわたしたちを救ってくださる。
 この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
 その救いを祝って喜び踊ろう」。

 人々が、本当の救い主、メシア、キリスト、主、「あってある者」の、わたしたちの歴史への到来を待ち望んでいたことを旧約聖書は伝えています。その方の到来を待ちに待っていたのです。その人々にとっては、奇跡を行うイエスの振る舞いから、イエスこそ待望のメシアにほかならないとの確信を得たのです。それがイエスに対する信仰へと進んで行くのです。今朝の聖書の中心点はここにあります。

 ヨハネ福音書がわたしたちに伝えたい福音書執筆の意図は、あのナザレのイエスが、ユダヤ教の浄めの儀式に用いられていた水を、言い代えるならば、古い秩序を、イエスが奇跡的にぶどう酒に変えられた、言い代えるならば新しい秩序に代えられた、これをイエスはカナで行ったとの理解が込められているということです。イエスは水をぶどう酒に変えるという奇跡を通して、人々に、古い秩序から新しい秩序を、この世界に樹立されるのだ、ということを伝えているのです。ヨハネ福音書1章18節〜19節で語られているように、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通してあらわれたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と告知しています。このことを再確認をしようとしているのです。

 この事実を、人間の祝いのときの祝宴、すなわち婚礼の宴会のときに、イエスは奇跡を遂行することによって、この時代の人々に、そして書かれた神の言葉である聖書を通して、また語られる聖書の言葉である説教を通して、現代の私たちにも告げ知らせているのです。

 新約聖書の主イエスの教えの中心は神の国であり、神がこの世を直接支配される時が目の前に近づいていると教えられ、この神の国を婚礼にたとえられ、神の国は神の愛の支配が完全に成就する状態でありますから、そこでの神と人間との愛の喜びに満ちた交わりが、結婚の喜びにたとえられています。しかしここではたとえではなく、カナでの実際の婚礼に主イエスも実際に同席して、人間の喜びが尽き、結婚式という喜びの営みが危機に陥り、焦りと絶望の中に投げ込まれているときに、その人間の一つ一つの欠乏、必要に心をとめ、尽きてしまう人間的な喜びを補い、取り戻してくださる。そのように主イエスは人類全体の救いのために自分の命を捧げることを自分の使命と捉えそのために来たのだ。そしてイエスをそのように突き動かす原動力、それこそ神の意志であり、神の愛と命の力なのだと言うことをこの奇跡の事実を通して私たちに示しているのです。

お祈りします。

父なる神さま。あなたの新しい命と光が「人となって私たちの間に宿られました。」そのことを主イエスはしるしを通して私たちにお示しくださいました。ですから私たちが、来てくださったイエス様の生涯と十字架と復活の出来事に目を向け、その働きの中に与えられている恵みの喜びをしっかりと受けとめて、この世の信仰の生涯を歩んで行くことができますように私たちを導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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「あなたを照らす光は上る」ルカ3:15-22
2022.1.9  大宮 陸孝 牧師
「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(ルカによる福音書3章22節)
 本日のルカ福音書3章のところは、イエス・キリストに先立って遣わされた預言者ヨハネが登場して参ります。そのヨハネは人々に次のようなことを説教いたします。一つは、差し迫った終末的な、「神の怒り」に備えなさいということ、第二には、「悔い改めにふさわしい実」とは何かということ、そして第三には来たるべき方「メシア」についての証言であります。それに続いて21節以下は、バプテスマのヨハネからイエス・キリストの物語、本論へと移って行きます。短い文章ですが、このところで、一つにはイエスの受洗、二つ目は聖霊の降臨、そして三つ目には天からの御声と三つの事柄が手際よく報告されています。今週はそれについて順番に考えていきたいと思います。

 21節の前半「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて」とこのように言われています。聖なる神の御子イエスがなぜ「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」を受けなければならないかいう疑問は、早くからありました。そこでたとえばマタイ福音書ですと、実はバプテスマのヨハネが辞退したのだけれども、たつてのイエスの願いだからやむなく洗礼を授けましたと、弁明しております。ヨハネ福音書では、もう洗礼のことは一切省きまして、ただ聖霊が降ったことだけをヨハネが語る、そういう形にしてあります。

 それで、その点、ルカは、独特な手法を使って、実はここの「イエスも洗礼を受けて」という文章は従属節になっていまして、文章の中で本当に報告したいことは、天が開けた、聖霊が降った、天からの声がしたという三点になっているということです。いかにも超自然的なこの三つのことを報告したい。ただ、そのことの状況を描く従属節として、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」と、こういうふうにさらっと受洗の事実を語るだけであります。しかもこのイエスの受洗は、「民衆が皆」受けているのに混じって、その一人として当然のように「イエス」も受けられましたというのです。

 ルカ福音書は既にクリスマス物語で、あれほど天使たちが晴れがましく紹介した神の御子イエス・キリストが「四日目には割礼を受けた」、そしてまた一カ月ほど経ちますと、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎた」ので神殿に連れて来られたというふうに、当然のことのように、イスラエルの一般の民と同じように、生まれながらの汚れを清める割礼だとか清めの儀式だとか、だから大人になると洗礼だと、こういうふうに描いているということになります。ルカにとってイエス様が、神の御子ではあられますけれども、民と汚れに満ちた民衆と全く同じ者としてこの世に来られたということははじめから繰り返し繰り返し語ってきたことなのです。

 パウロは第二コリントの信徒への手紙5章21節で、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」、こう言います。「罪と何のかかわりもない方」だったのだけれども、「わたしたちのために罪と」されました。ですから、イエスはわたしたちと同じように、罪の許しを得させる悔い改めの洗礼もお受けになりました。

 ルカの独特な点は、さらに「祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」という点です。ルカ福音書は昔から祈りの福音書≠ニか、あるいは聖霊の福音書≠ナあるとか言われてまいりましたが、その特色が本日の日課のところにもよく出ております。「イエスが祈っておられると・・聖霊が・・降った」。

 福音書の中でもルカ福音書は、イエスを特別に祈りの人であるというふうに描いている福音書です。ほかの福音書が語っていない場面で、ルカ福音書は、イエスが祈っておられる、祈っておられるということを丹念に記しています。特に重要な節目の時にあたっては、祈り深く事に当たられた方であることが記されています。

 「天が開ける」というのは、神さまの代わりに、人間の目に見えるように顕現するものが、実は神から出ている、神的な起源があるのだということを示す決まり文句でありまして、旧約聖書ではエゼキエル書の1章1節に、「わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々」の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した」といって有名なエゼキエルの幻がずっと一章に描かれています(旧約1296頁)。

 どうして鳩がここで出てくるのか、いろいろ議論があります。鳩はイスラエルのシンボルだからとか、あるいは聖霊の象徴だからと言われたものであります。しかし、イエスの時代に鳩が特別な象徴の約束事があったどうか、全くわかりません。ただ大切なことはイエス様がこの時、聖霊の降臨をお受けになったということであります。これには二つの大きな意味があります。

 ひとつは、ルカが後ほど使徒言行録の10章38節に書かれておりますこと、ペトロが福音の説明をするくだりの中で、「つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。」と、このように記されています。「油注がれた者となさいました」と廻りくどい訳し方をしているのですが、この「油注がれた」という言葉の名詞が「クリストス」で、つまり、イエスがクリストスとなられたのは、ここで聖霊をお受けになったからだということなのです。早々とクリスマスの夜に御使いは、「この方こそ主メシア?キリストです」とは言いましたけれども、実際にこの方が油を注がれてクリストスと神から示される場面は、本日学んでいるこの聖霊が降られたという場面なのです。

 第二番目に大事な意味は、実はこのイエスの登場の前にバプテスマのヨハネが16節で民衆に語ったことにあります。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。こう紹介されていたとおり、ヨハネに続いて登場しますイエスは、聖霊の洗礼を授ける働きをなさる方であるということです。これを強調しているのです。民衆に聖霊を授けるために、自ら限りなく聖霊をお受けになるということ、これを強調しているのです。ご自身がキリストとしての働きをなさるために父なる神の命の力を受けていることを示されたのだと言うことです。

 22節の後半「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。これは、イエスが祈っておられた祈りに対する神さまからのお応えであります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」。こういうご返事を祈りに対してしていただくことができたならばわたしたちにとってもなんと幸いな祈りの生活であろうと思わされます。

 この天からの神さまの御声は、マタイ福音書では、「これはわたしの愛する子」というふうに皆にイエスを紹介する体裁の文章になっています。しかしマルコ福音書やルカ福音書では、祈っている主イエス御自身に直接語りかける声になっているのです。この短い言葉によって主イエスについて二つのことがわかります。

 第一は、イエスが神の子であられる、神の愛児、独り子であられるということです。このことは、既に一章に描かれましたクリスマス物語で、読者にあらかじめ念入りに紹介されていたことです。

 第二にイエスは、イザヤが預言する主の受難の僕≠ナあられるということです。このことについては2章のクリスマスの物語で、ルカは既に読者に予告を念入りにしていることです。それを受けて、今神さまの御声は、間違いなくあなたは神の愛児、独り子なんだけれども、同時に、苦しみながら主の御用をはたす僕であると、この両面を確認しておられるのです。

 これが、イエスの公の仕事をスタートさせるイエスの祈りに応えてイエスに向かって語られたということ、そのことをわたしたちはずっと考え続けなければならないのです。わたしたちがイエスをどう見るか、わたしたちがこの言葉から何を学ぶのかということとは別に、神さまは「あなた」と言われます。それはどういうことなのでしょうか。
 
 今、イエスは父なる神のみもとから遠く離れてわたしたちのところに来ておられます。割礼を受け、汚れを清められ、洗礼を受けるという、神の世界から遠く離れた全く的外れな罪ある世界へ我が子が行っている、その子に対して神は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う」、そういう確認をしておられるのだということです。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4 新約347頁)これは、神さまのほうから言うと、ほんとに断腸の思いで遠い遠い世界へ御子をお遣わしになったのだと思うのです。そしてこれから着手する、やれるかやれないかわからない、どんなことが立ちはだかるかわからないというところで、もう既に、「あなたはわたしの心に適う」と言い切られるということは、これはまた、どういうことなのか。これはすごい信頼といいますか、全幅の信頼を与え、そしてまた、うらぎられることのない期待を父が我が子に寄せている言葉にほかならないということです。

 イエス様がとらえられる直前、ユダヤ教の神殿当局から、あなたは何の権威でこれらのことをするのか≠ニ問い詰められた時に、有名なぶどう園の悪しき農夫のたとえ話≠なさいました。ぶどう園の主人が、収穫の時が来たというので僕を送った。でも、ぶどう園の農夫たちは僕を袋だたきにし、侮辱を加えて追い出してしまって全然年貢を納めない。何度も何度も僕を送ったのだけれどもだめだ。そこで主人は最後に20章13節でどう言ったかといますと、「そこでぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならだぶん敬ってくれるだろう』」と、こう言います。それで、独り息子を送ってみると、その独り子を農夫たちは殺してしまった。これは明らかに、父から送られたイエス御自身のたとえです。この時、独り子を送り出すぶどう園の主人は、今日聞いたこの言葉を使うのです。「わたしの愛する子」、これを送ろう。敬ってくれる=Bこのように言っているのです。つまりイエス様はずっと公の仕事をして来られて、今もうその最後という受難の極みに達する時にも、このお声をきちんと覚えておられるのです。わたしは父から「愛する子」として遣わされている。十字架への道を、父の「愛する子」として歩むのだ。そういう父の愛、父の信頼、父の期待、これをイエスはしっかりと受け止め自覚なさったのです。

 そして、そのイエス・キリストが自ら受け、わたしたちにも授けてくださる聖霊は、神の子たる身分を授ける聖霊であると聖書は教えています。ですから、わたしたちもまた、イエス・キリストと同じように、どのような罪の中、汚れの中、苦難の中にあっても、神の子として愛されているという恵みに、自覚と信頼を寄せて行きたいと思うのです。祈って、祈りの中で、神さまの私たちへの愛と、わたしたちも、洗礼を受けて祈っていると天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という御声を聞きたいと思うのです。
 
 お祈りいたします。

 神さま。罪と汚れに満ちた中で、わたしたちは自分のいる場所も見失い、自分の生活の原点も見失う事が度々です。そうした中で、祈りによって神さまとの交わりを取り戻し、わたしたちには御子の霊が授けられており、父なる神が絶えずわたしたちを「愛する子」として呼びかけていてくださいますことをしっかり祈りの中で聞き取ることができ、自分の位置を取り戻して、神の子として新しい一週間を、この世に遣わされて生きることができますように、わたしたち一人一人に励ましを与え、力を与え、霊に満たしてください。

私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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「人生の折り返しは別の道」マタイ2:1〜12
2022.1.2  大宮 陸孝 牧師
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイによる福音書2章12節)
 ~の御子が救い主としてわたしたちの世界にお生まれになったできごとは、わたしたちの全存在を引き込む神さまの圧倒的な力を示す出来事です。季節のように過ぎ去りまた巡ってくるというものではなく、いつもこの私の今の中で息づいていて、わたしのこれからの生きる方向を示され、この私にとってのっぴきならないこととして迫り、そのことを除いては私が自分の人生も世界の未来も考えられないこととして受けとめさせられます。

 「イエスは、ヘロデの時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」、マタイ福音書2章1節は、このようにお生まれになられた御子イエスの誕生の時期と場所を大まかに報告し、わたしたちの歴史のただ中に~の子が確かに生まれたことを述べ、それに続いて御子イエスをユダヤ人の王として最初に拝んだのは、東の方から来た占星術の学者たちであった、と記しています。東の方からやって来た占星術の学者たちとは一体どういう人たちだったのでしょうか。東の方とはエルサレムから見て東に位置する地方ということですから、バビロンあるいはアッスリアとかペルシャといった異教の地と考えることができます。そこは数百年前に、ユダヤの人々が捕らわれとなっていた土地であり、ユダヤの人たちから見れば偶像崇拝や魔術や占いなどが盛んに行われていた土地でありました。そのような中で、星の運行を探求し、それによって運勢を占うことを専門的に行っていた人たちが占星術の学者たちであったと考えられます。彼らは天体に関して多くの知識を持っており、それに基づいて人類や世界に関しても、いろいろな洞察を持っていたと思われます。

 そして、あるとき、特別な星の動きによって、ユダヤ人たちの王となるべき方がお生まれになったことを知ったのでした。彼らはユダヤ教の知識も持っており、ユダヤ人が新しい王、救い主を待ち望んでいることを知っていました。その知識と、天体の観測とが一致して、ユダヤ人の王の誕生を確信したのでしょう。彼らは彼らの知識や観察に基づいてエルサレムまでやって来ました。星に導かれてというよりも、「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです」(2節)といっていますように、東の地で特別の星を見て、それに関する知識と経験に基づいて、エルサレムにやって来た、と言うのが正しいでありましょう。先程申しましたように、この東方の地というのは、イスラエル人が長い間捕囚になっていたところでしたので、イスラエルの人々がどんなにかメシア〔救い主〕の到来を待ち望んで来たかということはかなり知っていたと考えられます。そして最も注目すべきは、彼らがたとえ何人であったとしても、確実なことは彼らがユダヤ人ではなかったこと、つまり、ユダヤ人からは~とか救いにはほんとうに縁なき人々であると考えられて来た外国人であったことです。自分には救い主の到来などとは全く関係がない、と考えていた人々に対して~の救いの出来事が及んで行ったということです。彼らの目には、新しい王はユダヤ人の王としてお生まれになるのだから、その誕生の地は、ユダヤの都エルサレムであるという、彼らなりの解釈でエルサレムにやって来ています。最初は彼らの態度は第三者的な客観的な立場でありました。

 学者たちがエルサレムにやって来ても、そこには、新しい王が生まれたとの喜びも興奮も、なにもありませんでした。この状況をルターは、「ここには子犬が生まれたほどのさわぎもない」と記しています。学者たちは、ユダヤ人の王の誕生の地はエルサレムではないことを知って、そこで自分たちがはるばる東の方からやって来たことの理由と目的を説明しています。(2節)そして、そのことを聞いた人々の反応が次に描かれます(3節)。まずヘロデ王ですが、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」と記されています。ユダヤ人ではなかったヘロデは、自分の地位に関して常に不安を抱いていたのですが、今また新らしく王となるべき男の子の誕生を聞かされて、新たな不安を抱いています。

 またエルサレムの住民たちはどうかと言いますと、「エルサレムの人々も皆、同様」でありました。新しい王の誕生と言うことが自分たちにとってどういう意味を持っているのかを悟らず、新たな騒動が起こることへの不安が住民たちの間に広がって行きます。喜びと期待とを持って、ユダヤ人の王となるべき方を探し求める東方の学者たちとの対照的な姿が描き出されています。そのような描写を通して、御子イエス・キリストがお生まれになった時代が、いかにそのお方をお迎えするにはふさわしくない暗い状況であったかを示そうとしているのか。いや、そうではなく、そのような闇の中にこそ、光としての御子イエス・キリストはお生まれになるのにふさわしい方である、ということを強調しているのではないかと思われます。

 さて、ヘロデはその不安の中で、祭司長たちや律法学者たちを呼び集めて、メシア、救い主はどこに生まれることになっているのかと問い正します。旧約聖書の中にそのことが語られているはずだと考え、ヘロデは、宗教の専門家たちの知識を総動員させていますが、これは、ヘロデの不安の大きさと焦りとを示すものでありましょう。それによって、律法学者たちが探し当てたのが、旧約聖書ミカ書5章1節のことばでした。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る」。古い名でエフラタと呼ばれたベツレヘムの町は小さな町でした。しかしその町から、イスラエルの民を治める指導者、王が出る、という内容の預言がなされていました。そこはイスラエルの偉大な王ダビデの出生地として知られているところです。その町こそが、新しい王の誕生の地だと宗教家たちは言い当てます。そして、事実、~の御子は、この小さな町でお生まれになったのです。

 ~の御子は、大きな都エルサレムではなく、小さな町で生まれることを通して、~は小ささを大切にされるお方であることが示されています。聖書に現れる神は、イスラエルの~は、そして、わたしたちすべての者の~は、この世においては小ささ、貧しさ、卑しさを退けられるお方ではなく、かえって、それらを用いてご自身の業を進められるお方であります。人間の世界のその小ささや貧しさや卑しさは、~にとっては何の妨げにもならないのです。むしろ、逆に、人間的な大きさや豊かさや強さは、~の御業の道具としては、妨げになることがあります。ですから、わたしたちは、自分の小ささや貧しさ、弱さを恥じる必要はないのです。~はそこに目を留めてくださり、恵みと憐れみとを注いでくださるからです。

 さて、律法学者たちによって、新しい王の誕生の地がベツレヘムであることを知ったヘロデは、八節によりますと占星術の学者たちに、ベツレヘムで御子の誕生のことが詳しく分かったら帰りに知らせてくれ、「わたしも行って拝もう」と言いますがこれはもちろん偽りであることは16節からも分かります。2節に学者たちが「拝みに来たのです」と言っていることと、ヘロデが「私も行って拝もう」といっていることの間には決定的な違いがあります。

 学者たちは、聖書の言葉が指し示すことを疑うことなく、ベツレヘムに向かって旅を再開します。その時に東方で見た星が、再び現れて、彼らを導いて行きます。彼らは新しい王が都エルサレムで生まれなかったことや、小さな町ベツレヘムこそがその誕生の地であると示されたことに躓きませんでした。また自分たちの知識や体験に限界があることが明らかになったときにも、素直に~の指示に従う生き方へと自分を修正することができました。その結果、彼らは、星によってあらかじめ示され、預言によってより確かに示されたユダヤ人の王に出会うことができたのです。マタイ福音書に記されていませんけれども、たとえばルカ福音書にあるように、赤子の主イエスが、家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かせてあったとしても、学者たちはそれにつまづくことはなかっただろうと思います。~がこの世に送られた救い主が、どのような低さ、貧しさ、卑しさのなかにあったとしても、~のなさることへの疑いをいささかも抱かずに、彼らは幼子をひれ伏して拝み、彼らの宝物を幼子に捧げたのです。エルサレムの住民がただ不安を抱くだけで、学者たちと共にベツレヘムまで出かけて行くことをしなかったのに比べて、学者たちが示す~への従順な姿は際立っています。こうして異邦の学者たちとエルサレムにいる様々な人々との対比を通して、主イエス・キリストに対する人としてのあるべき姿を明らかに示そうとしているのです。

 学者たちは、帰るとき夢で、~によって、「ヘロデの所へ帰るな」と告げられることによって、別の道を通って、自分たちの国へ帰って行きます(12節)。これは何を示しているのでしょうか。クリスマスと新年を迎えて、わたしたちは御言葉によって一つの変革を求められているということではないでしょうか。今の時はわたしたちの生活が根こそぎ揺るがされるだけでなく、新しい方向を与えられる時なのだと言うことでありましょう。学者たちがキリストとの出会いの後の姿はそのことを指し示しているということなのです。

 パウロは一コリント15章10節でこのように言っています。「~の恵みによって、今日のわたしがあるのです」。この小さく貧しく、そして卑しくさえある自分に、あふれるばかりの~の恵みと愛が注がれ、それによって生かされて来たことを覚えるときに、そしてこの新しい年にも生かされていることを畏れをもって受けとめるときに、そこから新しい感謝と応答の生活が、それぞれに始まるのです。主イエス・キリストとの新しい出会いによって人生の大きな転換がわたしたち一人一人に起ころうとしています。それが本日から始まるのです。

お祈りいたします。

主イエス・キリストの父なる神さま。
わたしたちにあなたの御子イエス・キリストを与えてくださって心から感謝いたします。どうか、この主イエス・キリストとの出会いが、わたしたちの人生を根底から変えてしまうような新しい命の力となりますように。暗さに閉じこもり、不安におののいておりますわたしたちが、あなたの大きな贈り物に対して、わたしたち自身を捧げだして、あなたしか与えることのできない喜びに満たされて、しっかりと自分の足で恵みに応える信仰の歩みをしていくことができますように、力と導きをお与えください。

この世界の真実の希望であります主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン


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