本文へスキップ

1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

聖書のメッセージ



 new 聖書のメッセージ「空の鳥、野の花」
2020.9.15
 沼崎 勇 牧師
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
(マタイによる福音書27章25-26節)
  太宰治は、中国の古い物語をつくり変えて、「竹青」(『太宰治全集6』筑摩書房)という短編を書いています。この作品のあらすじは、次の通りです。

むかし中国の湖南の村に、魚容という貧しい若者がいて、心の醜い妻に馬鹿にされるのを耐えて、暮らしていました。魚容は、30歳になろうとするある日、これではいけないと家を飛び出して、官僚登用試験を受けました。

しかし落第した彼は、故郷に帰る途中、湖のほとりで休んでいました。空の烏の群れを見上げていた魚容が、「からすには、貧富が無くて、仕合せだなあ」と言って目を閉じると、魚容の姿が一羽の烏に変わったのです。

すると、竹青という美しい雌烏が、「あなたのお傍にいて、何でも致します」と告げます。烏になった魚容は、幸せそうに飛んでいたのですが、一人の兵士が放った矢が当たり、傷の苦しさに息も絶える思いで、「竹青」と呼ぶと目が覚めて、人間世界に戻っていました。

魚容は、3年目にまた家を飛び出して官僚登用試験を受けたのですが、落第します。彼は、故郷に帰る途中、同じ湖のほとりにくると、20歳ほどの女性になっている竹青と再会します。

そして、二人は二羽の烏となって、竹青の里に飛んで行くのです。そこの美しい景色を見て、魚容はこう言います。「ああ、いい景色だ。くにの女房にも、いちど見せたいなあ」と。

それを聞いた竹青は、あらたまった調子で、こう言うのです。「あなたは、郷試〔官僚登用試験〕には落第いたしましたが、神の試験には及第しました。あなたが本当に烏の身の上を羨望しているのかどうか、よく調べてみるように、あたしは……神様から内々に言いつけられていたのです。禽獣に化して真の幸福を感ずるような人間は、神に最も倦厭せられます」。

そして、神の使いである竹青は、次のように言うのです。「人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまねばならぬものです。……この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。神は、そのような人間の姿を一ばん愛しています。……さようなら」。言い終ると、竹青の姿は消えます。

魚容が我が家に帰ると、笑顔で妻が迎えました。彼の留守の間に大病して、魚容を馬鹿にしていたことを悔い改めて、心が清くなった妻は、竹青と瓜二つでした。二人の間には、一年後、美しい男の子が生れたのです。

太宰治は、この短編において、「この俗世間を愛し、悲しみ、一生そこに没頭している人間を、神は愛しておられる」と、主張しているのです。

さてキリストは、山上の説教で、こう言われています。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、……思い悩むな。……空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(マタイ6:25−26)。

またキリストは、こう言われています。「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、……栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」(28−30節)。

セーレン・キェルケゴールは、「野の花〔百合〕」について、次のように述べています。

思い煩う人が、野の百合の間に立ち、花のうるわしさに驚嘆したとします。百合が話すことができたら、百合は思い煩う人に、こう言うでしょう。

「なぜ君はそのように私を驚嘆するのか、人間であるということは同じように素晴らしいことではないか、人間であるということについて次のことが当て嵌まるのではないか、人間であることによってそれぞれの人間が〔本質的にそうで〕あるところのものと比較すれば、ソロモンのあらゆる栄華すら無に等しいということ、従ってソロモンは彼の本来の最高の栄華であるために、そしてそのことを意識するために、彼はそのあらゆる栄華を脱ぎ去り、そしてただ単に人間であらねばならないのだ!私のような哀れな者に当て嵌まることが、実際創造の奇蹟である人間であることに当て嵌まらないことがどうしてあるだろうか!」(『キェルケゴール著作全集9』248頁)。

野の花が花であるのとまったく同じ意味で、人間は、あらゆる思い煩いにもかかわらず、人間なのです。そして、野の花が働かず、紡がず、ソロモンの栄華よりも一層美しいのと同じ意味で、人間は、何の功績らしいこともなく、人間であるということによって、ソロモンの栄華よりも素晴らしいのです。

残念ながら世間では、人間と人間との間において、比較の飽くなき争いが行なわれています。私たちは、あの「魚容」のように、自分を他者と比較して思い煩い、人間であるとはどういうことかを忘れてしまうのではないでしょうか。

キリストはこう言われています。「空の鳥を見なさい。神は鳥を養ってくださる」、「野の花を見なさい。神は花を美しく装ってくださる」と。

空の鳥も、野の花も、鳥であること、花であることに満足しています。キリストは私たちに、人間であるということに満足することを、教えてくださっているのです。

もちろん、私たちは一生、人間の愛憎の中で苦しむでしょう。しかし、この俗世間を愛し、悲しみ、一生そこに没頭している人間を、思い煩う私たちを、神は愛してくださるのです。

 






information


日本福音ルーテル賀茂川教会


〒603‐8132
京都市北区小山下内河原町14

TEL.075‐491‐1402

→アクセス