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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

今週の聖句バックナンバーweekly message

2017年バックナンバー(2)


「この最初のしるしを」2017.12.31
「あなたがたへのしるし」」2017.12.24
「主の栄光が周りを照らした」2017.12.24
「ヨハネの証は」2017.12.17
「あなたの道を準備させよう」2017.12.10
「主がお入り用なのです」」2017.12.3
「この最も小さい者の一人に」2017.11.26
「主人と一緒に喜んでくれ」2017.11.19
「隣人を自分のように愛しなさい」2017.11.12
「心の貧しい人々は幸い」2017.11.5
「さあ、婚宴においでください」2017.10.29
「私の息子なら」2017.10.22
「この最後の者にも」2017.10.15
「七の七十倍までも赦しなさい」2017.10.8
「わたしもその中に」2017.10.1
*2017年4月〜9月の「今週の聖句」はこちらへ。

 この最初のしるしを
2017.12.31 神ア 伸 牧師
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
(ヨハネによる福音書第2章11節)
ガリラヤのカナでの、主イエスによる最初のしるし。この出来事は、主イエスの地上におけるお働きを1日、また1日と数えて第7日目に起こった、とヨハネによる福音書は伝えます(第1章には「その翌日」と繰り返し出てきます)。

今日、主イエスの地上における救いのみわざの最初の1週間が完成する! あの創世記で、天と地と人の創造の後に「見よ、なんと美しいことか…!」と神ご自身が喜ばれた出来事を、どうか想い起こしてほしい。今日、新たな創造のみわざを、ここで主イエスが起こされるのだから――。

そのような福音書記者ヨハネの息遣い、祈りが聞こえてくるようです。

しかし、私は、いくら喜びの宴席であるとは言え、まるでお酒に飲まれてしまっているかのような人びとのため、さらに700リットル近い水をぶどう酒に変えてくださった主イエスに対して、そんな贅沢をさせる必要はなかった、水がめひとつでも十分過ぎるでしょう、と物申したくなるほどです。彼らはあまりに節度がない。慎みがなさすぎる、と。
けれども、主イエスは、その人びとのことを何ら非難してはおられません。むしろここで、母マリアの信頼に応え、花婿にこころを遣い、助けておられる。

私は思いました。ああ、そうか…と。あまり理屈をこねず、ここで起こっている一つひとつの光景に耳を澄ましこころを傾けるとき――ほんとうに、このときのぶどう酒はいくら飲んでも、いくら汲んでも尽きることのないものであったに違いない…! と。

ここには、キリストの恵みがあふれに溢れている…!

結婚の式に限らず、私どもの生活の営みというのは、どんなに努力しても、限界があり、不足があり、どうしても、人間がもつ恥や醜さを抱え込んでしまっているところがあると思います。

けれど、たとえそこにどんな欠けがあっても、その欠けを満たす、恵みが、それにまさる、祝福が、日々惜しみなく注がれている。そこに、主イエスがいてくださるからです。私どもの人生のすべてが、そのように、あふれるような祝福の中に置かれている。

世の年を送るにあたり、使徒パウロに贈られたキリストの言葉を、私どもの両の手に、こころにしっかりと頂きたい(コリントの信徒への手紙二 第12章9節)。

弱いからこそ、欠けがあるからこそ、そこを埋めるために、わたしの恵みはあなたに満ちる…。これまでそうであったように、新たな年も、溢れてやまないほどに…!
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 主の栄光が周りを照らした
2017.12.24 神ア 伸 牧師
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので……。
( ルカによる福音書第2章9節 )
あの日、寒天の星空のもと、いつものように夜を徹して番をしていた羊飼い。すると突然、かれらのすぐ近くに天使が降り立ち、喜びの出来事を告げました。

「今日、ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった」。―― そして、その声に大勢の天使たちが加わり、大合唱へと続いていきます。

いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。

この歌によって、クリスマスは幕を開けたのです。

一方、その夜、ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになった神のみ子は、布にくるまれ、動物たちのえさ箱をベッドにしておられました。

驚くべきは、この幼い救いのみ子に、何か後光が差していたとか、あるいはその小屋にまばゆい光が輝いていたなどというのではなく、そのお姿がむしろ、天使たちが歌った〈神の栄光〉という言葉とは正反対であったということです。共に過ごす動物たちはその喜びを感じ取っていたと私は信じますが、人の目から見ればどんなに暗く、辛い場面であることでしょう。
しかし、そのところでこそ、まさに聖書は喜びの出来事を告げます。神の栄光が輝いたのはもっと別の場所であったのだ、と――。

そう、「主の栄光が周りを照らした」。より丁寧に言うと、羊飼いたちの周りを照らした! 乳飲み子の主イエスご自身、また家畜小屋には直接射すことのなかった光が、いま、羊飼いたちを覆い包み、抱き包んでいる…!

天使たちが讃えた〈いと高きところにある神の栄光〉とは、遠いところに見えたものではありませんでした。この羊飼いたちのほんとうに近くに、その一人、ひとりを抱きしめるように現れた、神の光であったのです。

今、まさに私たちの、この私の救いのために、クリスマスの出来事は起こりました。皆さん一人ひとりをそれぞれの場所で照らし、輝かせ、神のみ手でふれ抱きかかえていてくださるために!

あなたを救うことを、神はお望みになりました。あなたの救いを、神が必要となさったのです! 皆さん一人ひとりを、例外なく、何の条件もなく、神のみこころに適う存在として「わたしの子よ…!」と呼んでくださるために――。

輝くような喜びをもって、今、私どもも、天使たちと共に、こころから歌いたい。
いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ…!
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 あなたがたへのしるし
2017.12.24 神ア 伸 牧師

あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。
( ルカによる福音書第2章12節 )
救い主、イエス・キリストは、今より2000年前、ユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。けれどもそれよりなおもっと昔、その何百年も前に、救い主の誕生を預言したイザヤというひとがいたのです。

そのイザヤによる書の、いちばん最後の章にあるみ言葉を、私はまず皆さんに贈りたい。

母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。(第66章13節)

母がその子を慰めるように、神は、あなたがたを慰めたいんだ…! それが神のご意思。この神の想いを信じよう――。

イザヤは、こころを込めてそう語る。

そして、時満ちたあの夜、天使は羊飼いたちに告げました。

今日、ダビデの町でお生まれになった救い主を、よく見なさい…! この生まれたばかりの赤ちゃんをよく見なさい。これがあなたがたへのしるしだ――。
このとき以来、この世界は、神に愛されている世界であることが明らかになりました。神がこの世界を放ったままにはしておられない、決して忘れてはおられないのだということが、明らかになりました。

わたしはあなたの神として、どうしてもしなければならならないことがある。母がその子を慰めるように、わたしはあなたを慰めたいんだ…!

この神の想い、神の親心が鮮やかに現れたのが、クリスマスであった。しかもここで私どもがこころ打たれるのは、その神の想いを示すしるしが、小さな小さな乳飲み子であったということです。

私は信じます。神のみ子、私どもの信仰に従えば、神ご自身であられるお方が、まず私どもに先立って、いちばん弱い存在、いちばん守られなければならない存在、いちばん神の慰めと支えを必要とする存在として、お生まれくださったことを。そして、ここにこそ、まことの神の子の姿が見えていることを――。

クリスマスは、神のみ子の誕生の記念の日でありますけれども、私どもの新しい誕生の日でもあると、私は信じます。神に愛された神の子として、私どもも新しい思いで、いま、神の前に立つのです。
 
母がその子を慰めるように――。その神の想いが、いま、皆さん一人ひとりにも及んでいると、私は信じます。

あのベツレヘムの、飼い葉おけの乳飲み子こそが、その神の愛の、しるしなのです。
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  ヨハネの証しは
2017.12.18 神ア 伸 牧師
さて、ヨハネの証しはこうである。
(ヨハネによる福音書 第1章19節)
荒れ野で叫ぶ声である洗礼者ヨハネ――。かれは神から証し人としての務めを与えられた。その証言はこのようにして行われたのだ、と福音は語り始めます。

「証言」とか「証し」という言葉は法廷での裁判を連想させますが、確かにここではそのとおりの言葉が用いられています。そして都エルサレムから遣わされてきた祭司やレビ人たちはここでいったい何をしているのか――。単なる問いではない。ヨハネを尋問し、裁判にかけているのです! そして、中央の指導者たちがこの場で明らかにしようとしたのは、

あなたは誰か。

という、この一点に尽きました。そしてこの福音書が丁寧に伝える、主イエスを裁く場面において、ポンテオ・ピラトをはじめ主を十字架につけた人びとが訊ねたのも「あなたは誰か」というものでした。

私どもも、人びとに問われる。

あなたは誰ですか――。そのときに、私どもは信仰をもって応える。

わたしはキリスト者です。主イエス・キリストを信じ、キリストに従う者です…!

〈キリスト者です〉という言い方、いや信仰の告白は、「わたしは誰か」という、自分からの問い、相手からの問いに明確に応える、私どもが与えられている、応えです。

この事実を、自分一人で納得してしまうのでなく、共に生きる者たちに、新たに出会う人びとに、自分はこういう人間なのだということを、公然と伝えてゆきたいのです(20節)。それぞれが遣わされた場で、神が、ほかのだれでもない、このわたしに示されたやり方で――。

難しいことを考える必要はない。怖がる必要などないのです。わたしたちは、わたしは、ただ、〈声〉に徹したらよい! 証しの声を上げるのです。ヨハネと同じように。

主よ、わたしはあなたを信じます。主よ、あなたあってこそのわたしだと信じたい。わたしの霊はうめいています。けれども、主よ、あなたを信じる者であり続けたいのです…!

その、わたしの声に応えて、神は来てくださる。いいえ、すでに来ておられる!

わたしたちは、一人ひとり、それぞれが今、できる仕方で、自らの内に、主をお迎えする道をつくりたい。神がわれらと共にいてくださる(インマヌエル!)ための道です。そして、祈りの声を併せるのです。

主よ、どうかわたしのすべてを、あなたの慰めで満たしてください…! わたしのこころに、あなたの慰めのみ声を響き亘らせてください――。

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  あなたの道を準備させよう
2017.12.10 神ア 伸 牧師
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
(マルコによる福音書 第1章2、3節)
今週の聖句では、旧約聖書から引用された三つの言葉が、それぞれに重なり合い、共鳴しています。箇所は出エジプト記、マラキ書、そしてイザヤ書――。各章節については、聖書巻末に付された引用箇所一覧表を用いてお調べいただければと願います。

聖書の初めのほうと、いちばん後ろ、さらに真ん中から声が響き出している! 旧約聖書をひとつに集めたような声が――。しかも、主イエスご降誕の一千年も前からの長い歴史を、その内側に秘めている声です。ここで、旧約聖書が歌っているのです! 主イエスの到来を待ち望みながら、高らかに歌っている…。

その声、神のみ声は告げます。

わたしは、あなたより先に使者を遣わし、あなたの歩む道を備えさせる――。あなたは、独りで荒れ野を行く必要はない。ただ、その使者の後、先導役の後を信じてついてゆけばよい。そうすれば、あなたは決して荒れ野に閉じ込められることはない。

見よ、わたしはあなたの前に立ち、この荒れ野を先行く、主イエス・キリストを遣わす。その救い主が来るための道を、預言者エリヤの使命を引き継ぐ洗礼者ヨハネによって準備させる。そして、あなたを荒れ野から引き出す…!

もう終わりだ、という場所から、すべての人が見限ったようなところから、新しい歴史は始まります。もう、これ以上はないと思う場所から、神による新しい歴史が拓かれてゆく――。まさに、荒れ野こそ、わたしたちが神と出合う場所だからです!

荒れ野で独り佇むあなた――。それがあなたの居場所じゃない。望みを失い、いつの間にか目を伏せうつむくことに慣れてしまったあなた。それがほんとうのあなたじゃない。ほんとうのあなたは、主であるわたしのもとにある。帰って来い! わたしのもとへ。キリストのもとへ帰って来い…!

その響きのただ中で、モーセが選ばれ、エリヤが立ち、洗礼者ヨハネが登場し、そしてもう間もなく、主イエス・キリストが来てくださいます。あなたのもとに。

私どもは、そのみ声の響きの中、その光の中に生き、生かされている。そして、いつの日か、その光の中、み声の中で、天へと召されていくことができる…!

何と幸いなことかと思います。

救い主をお迎えしましょう。

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  主がお入り用なのです
2017.12.3
神ア 伸 牧師
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
(マルコによる福音書第11章2、3節)
エリコの町から都エルサレムまで――。高低差1000メートルほどの長い坂をようやく上り終え、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかった頃、主イエスは改めて弟子たちを使いに出され、子ろばの借用をお命じになった。

二人の弟子は、自分の服を脱いでろばにかけ、主イエスの座をつくりました。迎える多くの人びとは、葉の付いた枝とともに、主イエスの前に、要らなくなったぼろの服でなくて、今着ている上着を全部脱ぎ、ろばに踏ませたという(8節)。

今の私たちで言えば、大切な来賓を迎えるためにじゅうたんを敷いたようなものです。王として入城なさり、愛のご支配をもたらしてくださるお方への、歓迎の意を示したのです。

主イエスはここで、王になろうとしておられる。ご自身が、王として迎えられることを望んでおられる――。

けれども、主イエスのお姿は、私どもが思い描くような権力者とはまるで違います。白馬や駿馬ではなく、ろば、しかも子ろばにまたがるなど、大のおとなが三輪車に乗るようなものでしょう。足だって地に着いてしまったに違いない。さらに子ろばは借りただけ。あとでちゃんと返すと約束までなさった。

ここで、主イエスは、ひたすらに低く、低くなっておられる。私どもが思い描くような権力者とはまったく違うお姿をわざわざとりながら――。このお方こそ、私どもの、あなたの主です。

周りの者たちは、自らの服を、上着を、子ろばに踏んでもらいながら主を迎えました。私どもも、怖れずに上着を脱ぎたい――。上着だけではありません。下着だって脱いだらよい。ずっと何年も着込んでしまった、汚れた下着です。絶望という下着を着ている友がいるかもしれない。憎しみ、コンプレックス、恨み、失望…。何と名前をつけたっていいでしょう。キリストを信じながら、ずっと着続けてしまっている下着がある。

それさえも、来たりたもう主イエスの愛のご支配によって覆い尽くして頂いたらよい。

ホサナ…! 主の名によって来られる方に、祝福があるように――。

救い主をお迎えしましょう。
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  この最も小さい者の一人に
 
2017.11.26 神ア 伸 牧師
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
(マタイによる福音書第25章40節)
主イエスは、私どもの愛を問われます。

しかし、現に私どもが一所懸命、相手に愛のこころを注いでも、それに応え、感謝してもらえるということは、なかなかないものです。時には、自分がやっている行いがまったくの徒労ではないか、何もかも虚しいのではないか…という思いにさえ、させられてしまうことがある。

私たちは、愛に報いを求めたらいけない、計算に基づいた愛など愛ではない、ということをよく知っている筈なのですけれども、なかなか報われない愛に徹し切ることができません。すぐに損をした、あれだけ尽くしたのに…と思ってしまいます。

私は、私たちの愛が、ほんとうに問われるのはそこだと思います。

愛というのは、損をするものだ。計算が合わないものなんだ…!

主イエスは、今日、〈世の終わり〉をお語りになることで、私たちの愛の計算というものが、死の壁に突き当たることによって終わると考えてはならない、と迫って来られます。私たちの人生が終わるその時点で、自分はあれだけのひとを具体的に愛したから、こうやって幸せに死ぬことができるんだ、というふうに計算がつかなくても…よいではないか、と――。

私たちの愛が、ほんとうに勝利する、その愛が愛として値打ちを発揮するのは、むしろ、私たちの死を超えた世界において、死を突き抜けたところにおいてであると、私は信じます。死のこちら側においては、むしろ、私たちの愛は、計算が合わないのが、ほんとうではないだろうか――。

そしてその計算が合うところは、ただひとつ。私たちの愛を、主イエスが、ご自分に対する愛だと、引き受けていてくださる、ただそのところにおいてです。私たちがする愛は、ほんとうに小さなものです。たとえの中で王に褒められた人たちは、自分がいつ、どこでそれをしたのか、それが主イエスに対する愛であったということも、まったく気づかないでいる(37−39節)。

小さな愛でいい! その小さな愛をしかし、神から与えられた愛のともしび、タラントとして大切に生きるときに(4節、15節)主イエスはそれを、ご自分に与えられた愛として、しっかりと受けとめていてくださる。そこで、その愛を満たしていてくださる。だれも応えてくれなくても、主イエスは応えていてくださる。愛に応えるために、再び、必ず、もう一度来てくださる。

そこに、私たちの人生の成り立つところが、あるのです。
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  主人と一緒に喜んでくれ
2017.11.19 神ア 伸 牧師
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。…………主人と一緒に喜んでくれ。』
(マタイによる福音書第25章21、23節)
このたとえの結末(30節)を聞いて、私たちは、神は何と容赦なく、冷酷で恐ろしい方なのかと感じるかもしれません。よりによって、一番少なく預けられた者が、最後に一番ひどい目に遭うなんて、と。

私たちは、ここでもういちどよくこころを澄まして聴き取りたいのです。

御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる、厳しい方(24節)。

これは、一タラントン預けられた者の言葉であり、そのように言ったのはかれだけでした。最初の僕も二番目の僕も、語り手である主イエスご自身も、"この主人は厳しい方だ"などとは言っておられません。託された額に区別はあります。けれど、聴き手である私たちも、少なくとも23節までは、この主人が厳しいとは思わないでしょう。そして、この主人は、この三番目の僕の言葉をただ、26節で繰り返したのです。

わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めると、そう思っていたのか。あなたは、そんなふうにわたしのことを見ていたのだね――。

改めて問われました。もしかすると私はずっと、このたとえ話の驚き方を間違えていたのかもしれない、と。このたとえが伝える神は、蒔く方なのです。散らす方なのです。大胆な方なのです!

そして、主イエスは間もなく、たとえの中の主人と同じように、すべてを弟子たちに託して、ただ独り十字架へと向かわれる。かれらの前からいなくなるのです。そう、主イエスのご生涯そのものが、ここに出てくる主人のような、大胆で、冒険に満ちた人生であられました。

もっと言えば、主イエス・キリストは安心して旅行に出かけられた。安心して不在になっておられる。全財産を私どもに預けてくださった。そして、私たちはそのお預かりした主イエスの全財産をもって、ここで生きるのです。実に主イエスは、大胆で冒険に満ちたお方です。しかもそれを、あなたがたも引き受けてほしい…! と願っておられるのです。あとはあなたたちに安心してすべてを託すから、留守を預かってほしい。あなたたちがいれば大丈夫だ…!

そして、必ず主イエス・キリストがお戻りになるときが来る。そのとき、主は私どもに声をかけてくださいます。

よくやった…! あなたは、わたしと一緒に喜んでくれ――。
     
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  隣人を自分のように愛しなさい
2017.11.12 神ア 伸 牧師
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
(マタイによる福音書 第22章37-39節)
主イエスは今朝、ただひたすらに、神への愛の掟、隣人への愛の掟をお語りになる。神の言葉である聖書は、このふたつにかかっているのだ…! と。

全身全霊で神を愛しなさい。自分のように隣り人を愛しなさい。あなたは、愛することへと集中しなさい!

律法の専門家は、当時、自分たちがしなければならないと定めた六百あまりの戒め、掟の中で「どれが最も重要でしょうか」と訊ねました。明らかに議論をふっかけた。主イエスを試そうとしてのことです。

けれどもここで、第一、第二と、主イエスはふたつお応えになった――。どちらがより重要かと優劣をつけておっしゃっているのではありません。

神を愛する者は、隣り人を愛している。隣り人を愛する者は、神を愛している。これらはひとつのことだ。

そして今日、改めて私のこころに響いてきたのは、主イエスがただ「隣り人を愛せよ」言われたのではなくて、「自分のように」と言われたことでした。もちろん、聖書にある通り口になさったのでしょう(レビ記第19章18節)。まるで「自分を愛する」ことが当然であるかのようにおっしゃっている。

私自身のこととして率直に申します。私どもは、日々の営みの中で、〈愛する戦い〉をしているのだと。朝、目を覚ましてから夜、休むまで、神を愛すること、出会う相手を愛すること、自分を愛することの狭間で、ほんとうに葛藤し、戦いながら歩んでいるのだと。私は先の一週間、レビ記第19章を改めて開き、聴くことを通して、ほんとうに主が、目の前に身を乗り出して来てくださっているような思いになった――。

まず、あなた自身を愛してほしい。いや、〈愛されている〉ことに気づいてほしい。何度でも繰り返そう。わたしはあなたの主である…!
あなたは愛されている。自分自身を愛することに苦しみ、痛み、挫折し、破れているあなたにこそ、わたしの言葉を聴いてほしい。そこでこそ、自分を愛することと、相手を愛することと、神を愛することとが、ばらばらではなくひとつに重なる。いのちがかかっているのだ…!

この、神の愛のなかに集中して生きる――。そこにほんとうに私どもが、自分を取り戻す道があるのです。

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  心の貧しい人々は幸い
2017.11.5 神ア 伸 牧師
心の貧しい人々は、幸いである。
(マタイによる福音書 第5章3節)
主イエスの今日の言葉は、私どもの常識に、真っ向から立ち向かってきます。とりわけ教会に連なり、聖書に聴き信仰を求め、また深めている私たちに、大事なのはこころの豊かさだとどこかで思ってはいないか、と鋭く迫って来られる。

そうじゃない…! こころが豊かなひとが幸せだなんてことをわたしは言わない。ほんとうに幸せなのは、こころの貧しい人たちなんだ。天の国は、まさに、そういうあなたがたのものなんだ。

あなたはこころを貧しくしなきゃだめだ、と言われているのではない。あるいは、ただ単に謙遜、へりくだる心を教えておられるのでもない。そうではなくて、ここで主イエスが言われている貧しさとは、〈霊において〉貧しい!(3節直訳)

神との関わりにおいて貧しいひとです。神から離れてしまっているひとです。そのひとこそ幸せだと言うのです。その神から離れてしまっていた一人ひとりをこそ「あなたは幸いだ…!」と、何の分け隔ても、何の差別もなく、ほんとうに無条件に、主イエスは愛してくださっている! 今日の祝福の言葉は、その主イエスの愛の広さ、深さ、高さ、長さを、余すところなく伝えている、神ご自身の決意宣言にほかなりません。
もし、主イエスが、人のこころが豊かか貧しいか、きれいか汚いかと厳しく精査なさるような方であったとしたら、いったい誰が耐えられるでしょう。"どういう条件を満たせば、祝福されるのだろうか"などということは、まったく問題になりません。今の私どもが、現に、ありのままで、そのまま主イエスに愛されている。

もう一度申します。ただ、単純に、神は、私どものことが好きだった。私どものことを、愛してくださったのです。

こころの貧しい人は、幸いだ。あなたのことだよ…!
わたしは、何としてもあなたを幸せにしたいんだ。あなたを幸せにするのは、このわたしなんだ…!

ここに、主の与えてくださる真実の幸いがあります。

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 さあ、婚宴においでください
2017.10.29  
神ア 伸 牧師
『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
(マタイによる福音書第22章4節)
主イエスがたとえの中で繰り返し用いられている「招く」という言葉は、もとの意味に遡れば、「呼ぶ・呼ばれた」と訳し直すことができます。

そう――神を信じ、洗礼を受けてキリスト者になるとは、"私は神に呼ばれた。神の招きを受けているのだ…!"と、そのことを受け入れて生きるということです。このお方を無視しない。もっと言えば、私の人生の中に無視できないお方が立ち現われてきた、ということにほかなりません。

ところが、"ああよかった"と、みんなが神の主催する盛大な婚宴・祝宴への招待に応えるかというと、そうではない。断りもせず無視をし、ある人びとは使いの家来を乱暴して殺してしまった、という。

これに対するたとえの中の王の行動は、まことに厳しく、恐ろしささえ感じるものです(7節)。

私たちはここで、この家来が、いったい何をするために遣わされて行ったかのかということにこそ、注目したい。人びとを招くためです。恵みのもとへと招くためです。だから、その家来を殺してしまうというのは、王、つまり神が人を招かれる道を、断ち切ってしまう、そういう行いです。救いへの招きの道を、塞いでしまう。それに対して、この王は烈火のごとく怒る。いいえ、ここには神ご自身の、深い悲しみと、嘆きがあるのです。

救いへの招きの道が閉ざされることだけは、絶対に見過ごすことができない…!

この王は何としても、"この祝宴を成功させたい! "と願っているのです。だから、人びとが無視し、拒否しても、絶対にあきらめない。ついには、無理やりにでもみんなを引っ張って来てこの場をいっぱいにしてくれ、と――。そして実際に家来たちは、善人も悪人もみんな、連れてきたというのです。

この王は、その人がどんな人であろうと、「あなたがいなければ祝宴は始まらない」と招いておられる――。その恵みの場に引きずり込んでくださるのは、ほかならぬ神です。ただ、神のご意思、招きによるのです。「あなたもこの祝宴、この喜びの一員なのだ…!」。

当時の招待の慣習で、宴の場には必ず礼服が用意されていたと言われます。神があなたに用意くださっている、それぞれにふさわしい礼服を身にまとい、思いを尽くし、こころを注いで、神の喜びに与らせて頂きたい。
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  わたしの息子なら
2017.10.22 神ア 伸 牧師
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
(マタイによる福音書 第21章37節)
今日の主イエスによる物語の中の主人は、ぶどう園が完成すると、これを農夫たちの手に、完全に委ねて旅立ちました。農夫たちは嬉しくて、力を合わせ、汗を流して一所命働いたに違いない。だんだんとぶどう園も見違えるようになってくる――。

ところがある日、収穫を求めて来た主人の使いを散々な目に遭わせ、ある者は打ち殺し、次々と送られてくる者たちへもまた同様にした、という。

そして、最後に遣わされた主人の息子を見たときに、こいつを殺してしまえばすべては自分たちのものだと考え、外に放り出して殺してしまった、と言うのです(39節)。まるでむちゃくちゃな話です。

それにしてもぶどう園の主人は、何かがおかしいと思わなかったのでしょうか。よりによって最後には、"自分の息子を送ってみよう"なんて……辛抱強いのを通り越して、少々この主人はどうかしてしまったのではないか、ということさえ、率直に言うひとがいます。

けれども私は思います。それならばなぜこの主人は、ほとんど考えられないような、まったく愚かで、非常識とも言えるようなことを続けたのだろうか――。
明らかにこの主人は この農夫たちを、それでも〈信じていた〉のです。この農夫たちのことを、この主人はそれでも大事にしたかった! のです。

だからまた、ある説教者はこういうことを言います。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」。おや…!? いつの間にか、主人の目的が変わっているようではないか、と――。もはや、収穫を手にしたいとかそんなことではない。

この子なら敬ってくれるだろう…。わたしはもう一度この農夫たちと、正しい関係を結びたい。美しい関係に戻りたい。戻れるはずだ…! そのために今、わたしの愛する息子を送ろう! 必ず農夫たちと、仲直りできるはずだ、仲直りしたい…!

この神の愛の深さ、この神の真実の確かさ、ここに主の十字架が立ちました! そしてこの、信じがたいほどの神の愛の前で、私どもの悔い改めもまた起こるのです。今日の物語で言えば、この農夫たちが主人と、まっとうな関係を回復すること、そして、返すべきものを神へ返すことです。ぶどう園もその収穫も、何よりも、自分自身を神へと返す――。

いま、こころから立ち帰って、返すべきものを、神へとお返ししたい。ここに、私ども人間の、ほんとうの幸せが、あるのです。
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   この最後の者にも
2017.10.15
神ア 伸 牧師
わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
(マタイによる福音書 第20章14節)
まるで、もっとも少なく働いた者たちが報われ、もっとも長く熱心に働いた者たちが列のいちばん後ろに送られる、と語るかのような今日のたとえ話。しかも、最後尾にいる者たちは、最前列にいる者たちと同額の賃金を支払われるだけでなく、かれらははじめに賃金を受け取るのです。普段のものの順序や前提をかき回してしまうかのような、実に不公平な話です。

ぶどう園の所有者である主人。かれがしたいこととは、後にいる者を先にし、先にいる者を後にすることなのです。全員が支払いを受け、だれ一人として空の手で帰る者はいません。ただ、順番をひっくり返し、すべての労働者に同じだけを――どれだけ長く炎天下に立っていたかに関係なく――支払ってやりたいだけなのです。「気前よくしたかった」。それだけがこの主人の根拠です。

最初に雇われた人たちの気持ちはおわかりになるでしょう。そこで主人は、自分は交わした契約を守り、かれらが同意した正当な1日分の賃金をきっちり支払ったことを指摘します。

あなたはわたしと1日1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。わたしのぶどう園、自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか――。

神は、私たちの列のいちばん最後から、最後に並ぶもっとも小さな者たちから始めることにより、ご自身のやり方は私たちのやり方とは違うことを伝えてくださるのです。――それは、私たちがどのような人間であるからではなく、「神が」そういうお方であるからです! そして、もしも、このやり方をとおして物事を理解しようとするなら、私たちは、自分が思い描いている公平の概念について、また、自分たちの列が順序通りにいかないと、なぜこんなにまで怒らなければならないかを、問い直してみるべきかもしれません。

私たちは今、自分が〈どこに立っているか〉を忘れてしまうことのないようにしたい。人生のある日、太陽が沈み、涼風が黄昏に吹きわたるとき、仕事が終わって、監督が支払いのために列の最後に向かったそのとき、彼に浴びせられる喝采と歓喜、笑いと感謝の声は、実は、私たち自身のものであった、ということは大いに、大いにありうることなのです。神は言われます。

わたしはこの最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ…!
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 七の七十倍までも赦しなさい
2017.10.8 神ア 伸 牧師
あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
(マタイによる福音書 第18章22節)
今日、ここで主イエスが何よりもこころをこめてお語りになったこと、それは、ゆるされた私たちが、幾度も幾度も、ゆるしながら生きることでありました。「その数を数えるのはもうやめよう…!」と。

正しいか、正しくないか。どちらが先に手を出したか、ということではない。正しいことよりも、もっと大切なことがあるのです。それは、一緒にいることです。一緒に生きることです。共に歩むことです。

〈ゆるし〉。それは、共に歩む道です。

ある説教者がこの箇所を説き、正直に言うのです。「もしもあなたがこれを真剣に受けとめるなら、きっと疲れ果ててしまうことでしょう」。

そう――。私たちはこの主イエスのお言葉を、どこか真剣に受けとめたくないところがあります。疲れ果ててしまうからです。主は、そのように揺れ動く私たちに、ひとつの物語をお語りになりました(23〜34節)。

呼び出された家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と懸命に訴えます。が、何ということでしょう! 聖書に付されている表を用いて計算してみたところ、4800億円、休みなしに1年間働き続けて全額返済するのに11万年かかる、ということがわかりました。ひとつの仮定ですが、具体的な数字ではあるでしょう。

けれども、驚くべきことに――ほんとうに驚くべきことに――王は、この家来がしきりに願う姿をあわれに思って、彼をゆるし、その借金をすべて帳消しにしてやったという!

正しさを求めたのではないからです。正しいことをするならば、ちゃんとお金を返す。あるいは、過ちを犯したならば牢に入る、それが正しいことでしょう。けれどもこの王は、自分の帳簿を破ってでもこの家来と〈一緒に生きていく〉ことを選び取ったのです。あなたと一緒に歩んでいきたい…! と願ったのです。

神は、私たちの罪に対して正義を立てることよりも、私たちと〈共に生きること〉を幾度でも幾度でも選び直してくださる方なのです! そのために神の子、主イエス・キリストをくださった――。途方もないこと、もう11万年どころの労働賃金ではありません。ご自分の方が、傷を負うことをいとわなかったのですから。そして、繰り返し繰り返し、私どもを迎え直していてくださる――。

教会は、そのゆるしの世界を映し出しながら、生き、歩んで行くのです。

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   わたしもその中に
2017.10.1 神ア 伸 牧師
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。
(マタイによる福音書第18章20節)
〈教会の憲法文章〉と呼ばれるこの第18章で、主イエスは、教会がどういう場所であるかを、まことに鮮やかにお示しくださっています。

「こどものようになりなさい」とまずおっしゃいました。これが、第一条です。そう、あなたはいつでもここに来て、こどものような新しいこころになって生きることができる…!

続く第二条は、「小さな者を一人でも軽んじないようにしなさい」。教会は、小さなこども、年を重ねた者、社会の中で弱くされている者、体が弱っている者、深くこころが傷ついている者、その者たちを決して軽んじることをしない。小さな者たちを大切にすることこそ、教会が教会であることのしるしだからです。

第三条は、「兄弟が罪を犯したなら、二人だけのところに行って忠告する」。仲間が過ちをしてしまったそのときに、まず二人きりになって忠告するのです。そうしながら、共にいる努力を積み重ねてゆく。

そして、この言葉です。「二人、また三人がわたしの名によって集うところには、わたしもその中にいる」。

ここは、「わたしもその真ん中にいる」とも訳せるところです。真ん中――。私は、ほんとうに、何とありがたいことかと思う。主が、私たちの集いの真ん中にいてくださるのですから!

私たちのために、死んでくださったお方。そして、私たちのために復活してくださったお方。その手と足、わき腹には傷がなお残っておられるお方が、教会のいつでも真ん中におられる。そのことを忘れないでほしい…! と主イエスは私たちに願っておられます。

そして私たちは、真ん中にいてくださる主イエスのお姿を仰ぎながら、こころをひとつにする。二人、三人が集い、互いに違う中で、共に響き合う。ゆっくりでもいい。時間がかかったってかまわない。お互いにゆるしを告げ、相手を罪の鎖から解き放ちながら、ひとつの交響曲、シンフォニーを奏でてゆくのです!

主イエス・キリストは、どんなに深い罪をも救い、ゆるしてくださったお方として、一人、ひとりの真ん中にいてくださる。そして、私たちはそのことを共に告げ合いながら生きるのです。主の約束の言葉を告げ合いながら――。主は言われます。

二人、また三人がわたしの名によって集うところには、わたしも必ず、その真ん中にいる。

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